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2013年4月22日 (月)

河野鉄兜と漢詩『『芳野』

播磨に生まれ、播磨を愛した詩人に、河野鉄兜(こうのてっとう。1825~1867)がいる。医者であり、詩人である。鉄兜は号で、名は維羆、または単に羆とも。それにしても、名前に羆(ひぐま)とは。親は、ヒグマのように強くなって欲しかったのかも。

彼は、姫路・網干(当時の揖東郡福井庄垣内村)の医者、河野通仁の第三子として生まれる。幼児、神童と呼ばれ、河合寸翁が創った仁寿山黌(こう)に学ぶ。長じて、24歳から各所を遊学している。江戸、京都、美濃、伊勢、讃岐、大阪、九州などに行き、儒者と交流。初め、吉田鶴仙の門人になり、後に梁川星厳の門人なり、詩学に通ずるようになる。

その結果、各地の名士から、藩校の教授の誘いがあるが、播磨にこだわり、断っている。その後、(姫路)林田藩に仕え、28歳で、藩校到道館(敬業館)の教授に就任し、藩主の建部氏に、尊王攘夷を説いた。頼三樹三郎と交流があり、孝明天皇が彼について、ご存じだったので、いたく感心したという。ただ、孝明天皇は、倒幕に反対の立場であった。

彼は、その後、林田藩を去り、私塾を開いている。どうも体調が、この頃から優れなかったようだ。河野の門下にはには、文人墨客が集まり、後の山形県知事・柴原和や、佐賀県知事・武内維積らの多様な人材を生みだした。文献によると、彼は豪放磊落なタイプのようで、話上手。酒を嗜み、人が自然と集まってくるような人だったらしい。ところが、細かい記憶力も優れていたようだ。そこで、面白い話が伝わっている。

例えば、馴染みの酒屋の売掛記帳を手伝っていたのだが、その酒屋が火事になり、全ての帳面が焼失。だが、鉄兜は、記憶に基づき、売掛記帳を作り直し、集金に全く問題がなかったという。また、その記憶力を活かし、立ち読みのプロであったらしく、本屋は、彼が来ると新刊を隠したという。現代では、立ち読み歓迎の書店もあるが、当時の書籍は、高価で、立ち読みされると、店側としては甚大な被害につながったのだろう。

さて、彼の代表的な漢詩に『芳野(よしの)』と題するものがある。芳野は、現代の吉野である。尊王攘夷の気持ちが強く含まれている。

  山禽叫断夜寥寥

  無限の春風恨み未だ銷(しょう)せず

  露臥す延元陵下の月

  満身の花影南朝を夢む

南朝のことを偲びつつ、基本は討幕である。彼が勤皇の志士と交流するようになったから、このような詩ができたのかもしれない。播磨は、基本的に幕府方として見られていた(*注)が、尊王攘夷を主張した人物がいたことを忘れてはならないだろう。

解釈は、特に必要なかろう。一応解説すると、要するに、南朝について、哀しんでいる詩だ。銷せずとは、溶けて無くなっていない、ぐらいの意。延元陵の、延元とは、南北朝時代に、南朝が使っていた元号で、期間は1336年から1339年の間。南北朝の対立で、南朝の後醍醐天皇は、破れ、北朝に恨みを残しながら亡くなっている。彼の陵は、吉野の如意輪寺の御堂の林の奥に円丘を高くして葬られ、北面の陵であった。

*注

明治維新後、兵庫県の県庁の所在地として、姫路が候補に上ったが、姫路藩が幕府側であったということで、姫路は県庁の所在地になれなかった。結果的には、当時、田舎だった神戸が県庁の所在地になり、開港という大きな手掛かりを得て、急速に発展した。

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