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2013年5月23日 (木)

王維の『鹿柴』を読む

今回は、久しぶりに、『唐詩選』より、王維の『鹿柴』を取り上げてみよう。有名な詩だが、その意味するところは、なかなか理解しがたい。一体、人々は、この詩に、なぜ惹かれるのだろうか。

まず、王維の経歴を簡単に記すと、彼は、子供の頃から詩文、書、音楽に秀で、早くから皇族に認められ、やがて科挙に合格し官僚になっている。そして順調に出世するのだが、安禄山の乱に巻き込まれ逃げ遅れ、捕えられる。禄山は、彼の能力を評価し、仕官を強要され仕えることになる。これが不幸の始まりだ。

やがて反乱は鎮圧され、王維たちも捕えられる。そこで問題になったのが、彼らが安禄山に仕えたこと。仕えた官吏たちは、重罪ということで処分される。王維も、もちろん、その対象だったが、弟と友人たちの助命嘆願で、一命は救われ、降格になっただけで済む。

私が思うに、このことで、彼の人生観が変わったのではないだろうか。人生は、自分だけでは、どうにもならないと感じたことだろう。恵まれた環境で、エリート街道を歩んできた彼も、悟ることはあったと思う。

それでは、詩の紹介をしてみよう。まず題の『鹿柴』とは、鹿を囲う柵のことらしいが、やはり当時も鹿の食害はあったのだろうか。彼の長安郊外の別荘に、この鹿柴はあったらしい。

  空山 人を見ず

  但だ人語の響きを聞く

  返景 深林に入りて

  復た照らす 青苔の上

表面的解釈は、次のようになるだろう。「山には誰もおらず、人は全く見かけない。ただ、どこからともなく人の声だけは聞こえる。夕日が深い林の中に差し込み、青い苔の上だけが照らし出されている」ぐらいか。

この詩が、別荘地で、いつ頃作られたものかは判らない。ただ、この内容は何を示しているのか。まるで、人生の終わりのような詩だ。実際は、彼の周りに多くの人がいるのに、強い孤独を感じているようにも感じられる。見方によっては、捕えられた時のことを回顧しているようにも捉えられる。

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