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2013年7月31日 (水)

『博物館はおばけやしき』を観覧

子ども時代、肝試しと称して、お寺の近くにある、お墓まで行って、帰ってくるというものがあった。当時は、寺の周りには住宅もなく、田んぼだけだから、夜になると真っ暗。そこに懐中電灯だけで二人組になって行くのだが、それはそれは怖いものだった。

ちょっとした風の音や、それに飛ばされて生じる不気味な音に、びくつきながら、漸う墓までたどり着いたものの、火の玉みたいのが見えては驚いたものだ。帰り着いたときには、冷や汗をかいていて、ほっとしたことを覚えている。

この恐怖感はどこから来るのだろうか。真っ暗な闇と共に、それまでに、いろんな話を、年長からお化けや幽霊の話を教えられたからかもしれない。それが植え付けられて、恐怖に変わるということかもしれない。

姫路ゆかたまつりでも、お化け屋敷が催されていたが、時代は変われど、怖いもの見たさで訪れる客は多い。暗い照明の中で、怖い面や人形のちょっとした動きに心理的に反応してしまう。

兵庫県立歴史博物館では、開館30周年記念として、特別企画展『博物館はおばけやしき』が開催されている(2013年9月1日まで)。ただ、博物館が、お化け屋敷を催しているわけではない。お化け屋敷の歴史的背景や日本人の妖怪観を展示しながら、恐怖から娯楽施設のお化け屋敷に変わっていったかを説明している。またお化け屋敷の仕掛けやからくりなども展示している。

お化け文化に関心のある方は、姫路にお立ち寄りの節は、是非。

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2013年7月30日 (火)

交際の基本について~西村茂樹

今回は別に男女交際のルールほ記すのではない。交際というのは、別に男女関係に止まらない。人間社会は、誰も一人では生きていけない。ということで、あらゆる人間関係に於いては、交際というものが発生する。基本は挨拶だ。子どもの頃、挨拶は身を守ると、口を酸っぱくして教えられた。相手が挨拶を返しても返さなくても、いつも近所の人には挨拶をしないさいと。交際は、そこから始まる。

ところで、明治時代の文学博士であり、啓蒙思想家だった西村茂樹は、修身の必要性を説いた人物だが、彼は「交際十則」を、分りやすい言葉で著している。若い人たちには参考になるだろう。解説は付け加えず、それをそのまま紹介しておこう。

一、人と交わるには、まず「恕」の一字を知らざるべからず。恕とは思いやりのことなり。

二、人と交わるには、自他両立を忘るべからず。

三、信義を以て、人に交わるべし。我これにより人に対せば、人これにより我に対す。

四、断じて人を誹謗すべからず。

五、慈善の行いは、人と交わり、世に処するに、もっとも貴ぶところなり。

六、人の恩を感ずべし。しかも、必ず、これに報ゆるべし。

七、報復の念あるべからず、仇は忘るべし。

八、傲慢なるべからず。言語の傲慢あり、挙動の傲慢あり、すべて心の傲慢に発す。

九、他の権利を尊重すべし。己の権利を主張するに過ぐるべからず。

十、約束を守るべきこと。ただし、必ずしも履行するを要せず、不正なる約束は履行せざるを正しきとなす。

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2013年7月28日 (日)

長生きの方法は自分に聞け

テレビを視ていると、よく長寿の人に、「長生きの方法は」という問いをしている。ところが、その答えは似ているものの様々だ。もちろん、それらの回答から平均値を割り出して、その度合いに応じて努力することは、健康にいいことかもしれない。

ただ、真珠王の御木本幸吉は、次のように語っている。「長生きの健康法は、誰に聞くよりも、自分自身に聞くのが一番」だと。他人に教わったことを実践しても、自分自身には合わないこともある。それなら、自分自身の体質や状態を把握して、それに適切な方法を採ることの方が賢明だ。

世間には、いろんな健康法が流布しているが、先人の知恵を活かしながら、自分に合うものを上手に選択することが望ましいようだ。

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2013年7月27日 (土)

他人の悪口に自意識過剰の弊害

最近、他人に悪口を言われたとして、不幸な事件が発生している。もちろん、要因は、それだけではないかもしれない。若者の場合は、自意識過剰によるものだろう。よって、他人の言葉に傷つきやすい現代の若者は、どのような家庭環境であろうと、総じて甘やかされて育っているから、ちょっとした言葉で傷つく。

私も、子ども時代は、悪口を言われて喧嘩したこともあった。喧嘩したものの、相手に、ぼこぼこにされて帰ったところ、母に、「他人の悪口なんて気にするから、おかしなことになる。悪口を言ってくれるのは、お前に関心があるからやんか。感謝すれば、頭にくることもない」と。実は、これは、祖母の教えという。

悪口による実害もないではない。それは集団の中の孤立ということだろう。問題は、いかに、それを潜り抜ける工夫をするかにかかっている。何か他人が一目置くことをやればいい。あるいは、集団への貢献ということもあるかもしれない。そういうところから道は開ける。

確かに、他人に悪口を言われるより、褒められる方が、感情的には気持ちいい。だが、所詮、それだけのことだ。基本的には、考え方の背骨をしっかりと持って、正しいことをやればいい。そうすれば、集団の中の孤独にも耐えられる。郷誠之助も、次のように語っている。

「自分が善なりと信ずるところに基礎を置いて、自己の行動を律するということになれば、人がよく言おうが、悪く言おうが、毀誉褒貶は、人にまかす、自分の関知するところではないというのが当然だ」と。

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2013年7月26日 (金)

靴履き間違いの被害

最近、よく靴の履き間違いの被害を受ける。最近と言っても、少し前のことだが、某診療所で、靴の履き間違えがあった。残っていたものは、安物の靴。私も、そんなに高級な靴は履かないが、どう考えても、履き間違いそうにない代物。結局、誰が間違ったのか分らずじまい。

そして、つい最近も、某所で、靴の履き間違いがあった。残されたものは、壊れた靴。当日は、割と新品の靴を履いて行ったので、少し悔しい。若い時も、よく間違えられた経験があるが、そんなに頻度は高くなかった。

誰がどのように間違うのだろうか。後で気づくことはあるのだろうか。周囲は誰も気づかないのだろうか。少なくとも、今まで、高そうな靴が残っていたことは一度もない。そこには、作為が感じられないこともない。残念なことだ。

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2013年7月25日 (木)

『ロマンキモノ展』(神戸ファッション美術館)に行く

先日、母の遺品の着物を二束三文で処分した。古着の価値はよく分からないが、母が戦後、嫁入りした時は、高価な物と聞いていたので、少し安すぎる感じもするが、粗大ごみに出すよりいいだろう。保存状態が悪かったかもしれない。結構メンテナンスは大変だから。誰かが袖を通すことになるのだろうか。

そういうタイミンクで、神戸ファッション美術館で、『涼を呼ぶロマンキモノ展~夏の愉しみ~』が開催されているというので観覧してきた。テーマから分るように、夏の着物の展覧会で、古着である。母が持っていたものに似ているものも、何点かあった。

これらの古着は、NPO法人京都古布保存会のコレクションらしい。親の着物をどうするか迷っている人は意外に多いと思う。着物保存の手間や箪笥の手入れ等を考えると、こういうところに寄贈するのも有りかもしれない。

展覧会の内容は、実際にマネキンに着付けをしたりして、当時の雰囲気を彷彿とさせるものだった。少し懐かしい感じ。着物と帯の組み合わせで、雰囲気は大きく変わる。若い人にはデザインやコーディネイトの参考になるだろう。

2013年9月24日まで。詳しいことは、神戸ファッション美術館のホームページで。いろんな催しが計画されています。

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2013年7月24日 (水)

雑穀御飯の効果

以前から、健康のために、麦御飯とか玄米御飯に挑戦するのだが、なかなか続かないことが多かった。健康のためとはいえ、美味しくないと食は進まない。確かに、白米より、よく噛んで食するので、健康にいいことは分っているのだが、やはり、まずいと続かない。

先日、スーパーをうろうろしていたら、雑穀が目に止まった。内容は、きび、あわ、ひえ、玄米、赤米、黒米、大麦、大豆、小豆、各種麦等が、10種類以上ブレンドされた物が多い。全て国産というのが気に入って、購入し、白米に混ぜて炊き上げてみて、食してみた。

確かに、特徴のある舌触りだが、赤飯と似ていなくもない。これなら何とか食べられると思って、続けて食していたら、約1か月も経った。これで感じたのは、快眠、快便になったということ。体調も極めていい。夏バテにもならず、今年は過ごせそうだ。

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2013年7月22日 (月)

説得の仕方

池田輝政が亡くなった時、追い腹しようとする家臣がいた。それは輝政に目をかけられていた側近の伴玄札だ。周囲も、あやつならやりかねないと案じていた。輝政の長子の利隆も、彼に注意をするように、かねがね臣下に申しつけていた。

すると、予測の通り、葬式の当日、玄札は死装束姿で現れ、自決しようとした。それを周囲が必死に引き止め、刀を奪い取った。こういうことは、武家社会ではよくあったようだ。彼は、暴れて抵抗したが、さすがに利隆が出てくると、静かになった。

玄札は自分の思いのたけを伝えたが、利隆は許そうとしなかった。そして、次のように語ったと云う。

「お前の気持ちは分らぬでもないが、私のことはどうでもいいのか。お前が自害すれば、先君は明君だったが、世継は、駄目だったから、絶望して死んだと世間は捉える。そうなれば、新藩主に心服するものがいなくなり、藩政は混乱するだろう。そうなってもいいか。そんなことをするくらいなら、私をしっかり支えてくれ」と。

このことを聞いて、玄札は追い腹を思いとどまったと云う。お家大事ということが、彼にも説得できたから、犬死を防ぐことができた。死んでしまったら終わりだ。人を活かすということは、こういうことだろう。

*参考文献 『決断の一言』

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2013年7月21日 (日)

自分のことは自分でやる

江戸時代の力士に藤島岩右衛門という人がいた。『妻は、くの一』に登場する松浦静山に認められた人だ。彼は、生涯、弟子をこき使わなかった。自分のことは自分でやるということは、自分のためと思っていたからという。

よって、弟子をこき使っている力士を馬鹿にしたと云う。ちょっと関取になったからと言って、弟子に何もかもさせていては、身体がなまってくる。身体を洗うのさえ、弟子に手伝わせるのが、出世の証拠とばかりに、彼らを使うのでは、精神も緩んでくる。

彼は、自分で自分のことをやるのは修業の一つであると認識していたようだ。現在の相撲界はどうであろうか。

*参考文献  『決断の一言』(風巻絃一)

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2013年7月20日 (土)

自分で自分を操る

政治の世界では、よく黒幕がいて、傀儡政権というものが出来たりする。要するに、黒幕の意のままに政権は運営される。日本にも、かつて闇将軍とかが実権を握って、そういう政権があった。

産業界でも、創業者が会長や相談役に退いたものの、その実権は。会長や相談役にある場合もある。その時の社長は傀儡に過ぎないのかもしれない。

ただ、『菜根譚』では、次のように言っている。「人生、もとは是れ傀儡なり」と。

人の世は、所詮、傀儡のように、操り人形にすぎない。人間という言葉は、人と人の間に在って、影響し合っている。その中で主体性を失わず、自分自身を失わないことが大切なだけだ。

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2013年7月16日 (火)

思い立ったが吉日ということ

何かをやろうとする時、いろいろ考えを巡らして逡巡することも多い。ただ、あらゆる局面で、頭で考えても実行しなければ結果は出ない。ある程度の先の見通しは必要だが、いずれ決断を要する。

決断の根拠は何かと問われた時、多分、潜在意識の中では決していることを先延ばししていることが多いものだ。その時は、思い立った時が吉日が正解ということになる。実行を遅らせたところで、成果は実らない。

ただ、若い時のように、何も考えず、無鉄砲に思い立ったが吉日とばかり行動を起こすのは愚かなことだ。思い立ったが吉日というのは、考えに考えて、初めて許される行動様式だ。

*追記

ところで、『菜根譚』では、次のように説いている。

 人肯て当下に休せば、すなわち当下に了せし。

「当下」というのは、「すぐに」という意。また「休す」とは、「断ち切る」の意。すなわち、今すぐ断ち切ろうと思うのなら、今すぐ断ち切って終わりにすべきだ、と言っている。

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2013年7月15日 (月)

母の遺品の処分

人は亡くなれば、所有していた物は、ごみになる。どんなに故人に思い入れがあったとしても、ほとんどは、必要のないものである。父は、そういうことが分っていたので、生前から持ち物の処分を少しずつして行き、亡くなった時は、遺品としては、ほとんど何も残していなかった。残っていたのは、衣服と古いカメラと双眼鏡。それに少しばかりの小説だ。そして、数枚の新聞の切り抜き。人は裸で生まれて、何も持たず裸で死ぬ。そういうことを実践した。

ところが、母の場合は、ごみのような物から、各種様々な物を遺した。嫁入り道具の古いボロボロの家具も残っていたし、衣服やカバン類はもちろん、音楽カセット類、料理道具、多くのガラクタ。亡くなった時、どうしようもないガラクタ類は処分したが、その他は、親族の意向で残した。

先日、七回忌が終わり、やっと親族から処分の意向が出た。今、少しずつ処分しているが、家具類の処分で、部屋が広くなった。やっと本来の住まいになる。家具が多すぎたのだ。こんなことなら、もっと早く処分すべきだったが、親族の思いは、それぞれ違う。やはり父のように、生前に整理しておいてくれた方が、子どもにとって有難いものだ。遺品はなくなっても、子どもに親の思いは、きちんと残っているのだから。

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2013年7月13日 (土)

誰も知らないということ

以前、児童置き去り事件を題材にした『誰も知らない』という映画が制作されたようだが、ここで取り扱う話は、全く関係ない。以前にも記したことと似ているかもしれないが、一般的に、自分を知る人間は、この世に、あまり存在しないということ。「知る」には、「分る」とか「理解している」と言う意味が含まれる。

例えば、子どもは、親は自分のことを知っていると思い、甘える。だが、それは大きな勘違い。また男女関係に於いては、恋人同士の間は、相手を知ったふりをして、近づくが、何も分っていない。仮に夫婦になっても、それは同じ。子どもが生まれて、子どものことを赤ん坊の時から見ているのに、子どものことは段々分らなくなる。

夫婦は、まだ血のつながりが無いから分るとしても、血のつながりのある子供さえも、本当に理解することは難しい。だから、家族をつないでいるものは、「情」に過ぎない。それは「情が移る」という言葉があるように、脆弱だが、そこから一体感が形成される。「情」が家族の接着剤なのだ。

それが他人になれば、基本的に立ち位置が異なるから、知るということは、かなり困難だ。よく外交問題になる歴史認識問題も、立ち位置が異なるから、決して一致することはあり得ない。韓国辺りは、それが分っていて、日本に難題を振りかけてくる。

少し脱線気味になったが、『寒山拾得』でも、寒山は、誰も理解者がいないことを嘆いている。

  多少の天台の人 寒山子を識らず

  真の意度を知ること莫く、閑言語を喚び作す

彼の書いた禅語に対しても、周囲は、何の理解もなく、騒ぎ立てると悩んでいるようだ。確かに、彼は乞食同様の姿で街を徘徊したから、狂人と思われていた。人は外見で判断するから、彼にも問題はある。

ただ、そのことは別にしても、自分を知る存在は、ほとんど無いに等しい。後世の人たちが、ああだこうだと論評しても、もうその時には、本人はいないわけだから、理解者はいないと同然だ。

ということは、妙に周囲に自分をよく知っていたり、理解している人間はいないと割り切った方が、案外うまくいくと言える。だから、基本的には、己を知るということが、まず求められると言うことになる。

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2013年7月12日 (金)

道を究める人

水戸の名剣士だった三浦平内は、次のように語っている。

「剣術の免許を取りたりといふは人に斬らるる程の腕前になりたるなりと心得べし。

この上一段刻苦修行せぱ万一の際、人に斬られざる境地に達すべし」

道を究めるということは、彼の言葉に尽きる。

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2013年7月11日 (木)

謡曲『菊慈童』について考える

今年(平成25年8月2日)、姫路城の薪能では、能『菊慈童』と『船弁慶』が演じられる。この二つの能については、過去に記したことがある。それは「菊の霊水(2008.11.14)」と「謡曲『船弁慶』の示すもの(2007.8.19)」だ。

ここでは、再度『菊慈童』を取り上げてみたい。以前の記事を読むと、自分なりの解釈は示していないので、今回は、それなりの見解を示してみよう。

この謡曲の題材は、『太平記』の「龍馬進奏の事」に拠ったものとされる。中国の魏の文帝の頃の話だ。ただ、この話は、実際は中国に無く、日本における創作らしい。これは封建時代の庶民のよくやる手だ。

すなわち、時の権力者を直接批判するのはまずいが、遠い過去の人物や海外の権力者に言寄せて、間接的に揶揄するやり方だ。歌舞伎の『忠臣蔵』も、そのようにして、時の権力者を直接批判することを避けている。

謡曲の内容は、独断で解釈すると、次のようになる。魏の文帝の宣旨により、臣下は、酈縣山(れつけんざん。現在の中国河南省にある山)の麓から薬水(霊水)が湧き出でているので、その水源を見て来いと命令される。いつの時代も、時の権力者の気まぐれに周囲は振り回される。

当時の中国の酈縣山は、山を越えて更に山を越えないと行きつけない場所で、生きて帰れるかも分らない。そういうところに、何の考えもなく、臣下を行かせる。しかし、臣下は、逆らえない。そこが宮仕えの辛さ。

それでも、苦労に苦労を重ねて、やっと酈縣山の辿りつく。そうすると、人気のない当地に、庵があった。それで、これは好都合と、住人に尋ねることにする。ただ、この事は、実際の事なのか、夢なのか判然とせず。邯鄲の夢かもしれない。

そこには、一人の童がいた。狐に化かされたかと思ったが人間の格好をしている。そこで、名を質すと、周の穆王に召し使われた者の今の姿という。周の穆王というと、魏の文帝の時代からすれぱ700年前(実際は1200年前。謡曲は間違えている)だから、そんなことはあり得ないと臣下が言うと、その童(慈童)は、昔、帝の枕を、またいだため、お咎めを受け、酈縣山に流罪された。

その時、帝が、儚んで、御枕に二句の偈を書き添えられた。それが法華経の「具一切功徳慈眼視衆生福聚海無量是故應頂禮」だ。これをこの妙文を菊の葉に置くと、そこから滴り落ちる露が不老不死の薬になると言う。それで、その水を飲んで、今まで永らえたと言う。

さあ、あなたも、この薬酒を飲みなされ。命は永遠に続きますよ。酒なのだが、いくら飲んでも酔うことはない。どうぞ、帝にも差し上げてくださいと言って、慈童は、また山深く、入って行った。

まあ、概略は、上記のような内容なのだが、魏の文帝、すなわち、曹操の子で、曹丕は、実際は長生きしていない。そこに作者の皮肉がある。今でも、健康、健康と言う人は、あまり長生きではない。健康に、配慮することは大切だが、必要以上に気を配ると、却って宜しくない。

不老不死を望むということは、昔からある人間の欲望だが、人間の寿命はせいぜい百年。これから再生医療とかが発達して、サイボーグ人間が出てくるかもしれないが、つぎはぎだらけの身体では、本来の「人間」が失われそうな気もする。

ただ、よい水は、確かに健康を維持するにはよいことは、はっきりしている。日本は、比較的水の美味しい国だが、それが子々孫々まで続くようにしたいものだ。そのためには、森林の保全が必要だろう。

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2013年7月10日 (水)

眠りのために懐かしの映画音楽を聴く

寝苦しい暑い日が続いている。そこで取り出したのが、昔の映画音楽のCD。若い頃、CDカセットレコーダーを買ったところ、おまけに付いてきたものだ。CDカセットレコーダーは故障して処分したが、CDだけが手元に残った。

そこには、まず、マントヴァーニ・オーケストラによる『魅惑の宵(南太平洋)』、『トゥルー・ラブ(上流社会)』、『シークレット・ラブ』、『ベンハー』が収録されている。これらの音楽は、昔、NHKラジオ第一放送では、午後11時過ぎに、ノクターンとして、よく流されていた(*注)。

いつの頃からか、『ラジオ深夜便』なるものを放送している。音楽も放送しているが、話も多く、これを聞いていていは、とても寝付かれない。この放送は、深夜に働く人たち向けの放送かもしれない。よって、最近、就寝時にラジオは聞かない。

やはりノクターンというか、ムードミュージックが寝つきをよくしてくれる。ショパンやリストのノクターンもいいが、クラシックから影響を受けた昔の映画音楽もいい。ただ、大抵、『シークレット・ラブ』あたりで、眠ってしまっている。

余程眠れないときは、次に続くパーシー・フェイス・オーケストラによる『ララのテーマ』、『ムーラン・ルージュの歌(赤い風車)』、『タラのテーマ(風と共に去りぬ)』、『ピンク・パンサーのテーマ(ピンクの豹)』、『小象の行進(ハタリ)』まで行くこともあるが滅多にない。

いずれにせよ、当面、これらの音楽と共に、眠りにつきそうだ。

*注

本来、「ノクターン」は、夜想曲の意味で、明け方を意味する。夜の音楽ではないので、本来の意味の使い方としては、おかしいかもしれない。

*参考  CDについて

聴いているのは、『懐かしのスクリーンテーマベストヒット③』(株式会社タスクフォース)

全16曲で、上記の他に、フランク・プールセル・オーケストラによる『シェルプールの雨傘』、スタンリー・ブラック・オーケストラによる『アラビアのロレンス』、『チム・チム・チェリー』、フランク・チャックスフィールド・オーケストラによる『トゥナイト(ウェスト・サイド物語)』、『踊り明かそう』、『バリ・ハイ(南太平洋)』、『虹の彼方に(オズの魔法使い)』が収録されている。

最近も、CDショップで、そういう物を探したが、置いていなかった。今はネットでダウンロードすることが主体で、CDを買う人は少ないのかもしれない。私の世代には需要はあると思うのだが。

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2013年7月 8日 (月)

狂言『伯母ヶ酒』について考える

今年(平成25年)の姫路城薪能では、狂言として『伯母ヶ酒』が演じられるらしい(*参考参照)。そこで、覚えとして、内容を若干流風的に解釈して記しておこうと思う。

出演するのは、酒屋を営んでいる伯母と、その甥で酒好きの男。流風なんて酒は、ほとんど飲めないから、たまに買う時は銘柄を色々選んだりするが、本当の酒好きは、銘柄など関係ないらしい。その感覚は、よく分からないが、酒そのものに酔ってしまうのだろう。

さて、この伯母は、よく働くが、お金に細かい。商売人としては、あるべき姿かもしれない。よって甥が酒を無心しても、決して振る舞ったりしない。そこで、甥は、あの手この手で、伯母を説き伏せ、酒が振る舞われるよう仕組むが、ことごとく断られる。

しかし、ある時、変な決心をして、今回は何が何でも酒をせしめてやると思って、でかけるのだが、無惨にも失敗を重ねる。とぼとぼと帰ろうとするが、はたと思いついて、一計を案じる。すなわち、戻って、鬼が出たと嘘を伯母に告げる。

それから一旦退出した後、鬼の面を被って、伯母を脅かし、やっと酒をせしめる。伯母には、酒を飲む姿を見てはいけないと言って、一応警戒するのだが、酔うほどに、警戒が緩んで、寝込んでしまい、伯母にばれて、追われて幕。

これは何を意味しているのだろうか。人間は誰でも、恐れるものがあると言うことだろうか。また酒を飲めば本性を隠せないと言っているのだろうか。分りやすい笑いの中に、教えられるものがある。

* 参考 姫路城薪能

       http://himeji-takiginou.org/

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2013年7月 6日 (土)

今年の節電 2013夏

今年は、電力会社が原発を再稼動させたいため、節電要望はしないらしい。深謀遠慮だなあ。日本のように活断層の上に活断層がある地形では、全国どこでも、災害を受ける可能性が高いから、原発が不向きということが未だ分らないらしい。

彼ら原発族は、私益で考えるからだろう。公益というものを電力会社は背負っているはずだが、公益を勘違いしている。福島原発事故の処理は未だ何も進んでいない。解決しそうな雰囲気を出すが、一歩前進二歩後退の印象が強い。それに日本は人口が減って電力需要は縮小することは明らか。彼らは何を勘違いしているのだろう。

さて、一般国民としては、自然エネルギーの利用を強く進めることと節電を継続することが大切であろう。これらは他者からやれと言われてするものではないだろう。当たり前のことを当たり前にするだけだ。

ただ、このボロ家には、太陽光発電は難しいらしい。別の対策を考えねば。節電の方は、省エネ型冷蔵庫に買い替えた。昔の冷蔵庫の約半分の電気消費量だ。また、一部、照明器具をLED仕様の物に変えた。若干、電気代が安くなりそうだ。そして、東側に簾をかけた。気温の影響を受けるのを遅らせる効果がある。後は風通しをよくして、涼しく感じて、冷房費を節約。今年の夏も、電気代を節約して、何とか乗り切れるだろう。

*追記

上記の記事とは全く関係ないが、ameba利用のブログは、つながりにくいので、リンクを外しています。ネット選挙の影響らしい。どこか意識過剰だと思う。政党は必死なのだろうが。

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2013年7月 5日 (金)

敷居と鴨居は変えられない

昨年、引き戸の調子が悪くなって、閉まらなくなってしまった。古い家だから、いろいろ起る。多分、家も少し傾いているのだろう。今年の地震で少し戻ったような気がするが(笑)。そういうことで、大工さんを呼んで修理してもらった。少し、戸を外すのに手間がかかったが、後は、上下を削って、あっという間に直った。

ところで、当たり前のことだが、敷居と鴨居は変えられないという言葉がある。確かに、上記の例のように、戸の方を削って、敷居と鴨居に合わす。これを例えとして、昔は、嫁入りする娘に親が諭した。すなわち、相手の家風に合わせる努力をすれば、波風が立たず、うまく行くというのである。同様に養子に行く男にも、同様の言葉が与えられた。

現代では、親と同居が少ないので、こういう言葉は死語かもしれないが、案外、先人の知恵が詰まっているかもしれない。若い人たちも参考にしてほしいものだ。また、家族の問題ではないが、中途入社した人も、いきなり張りきって、自己の主張を強くするより、まず社風を知って、溶け込む努力が必要だ。組織に浸みこむように入って行けば、自然と主張する機会も与えられるというものだ。

敷居と鴨居は変えられないという言葉。現代でも、案外、通用する言葉かもしれない。

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2013年7月 4日 (木)

日本にとって諸悪の根源は時価会計

日本の経済状態はデフレが依然続いていることは明らかだ。日銀が、金をばら撒き、インフレを起こそうとしても、なかなかそのようにはならない。むしろ、インフレが起これば、国は収拾のつかなくなる可能性の方が高い。

そもそも日本のように成熟社会では、物は行き渡り、追加の需要は起きにくい。とすれば、残りはサービスの分野だが、これは水商売に近い。よって景気に及ぼすのは気まぐれだ。サービスの分野が、いくら大きくなっても、乗数効果は小さく、インフレを引き起こすことはあり得ない。

そこで、日本全体を見れば、お金が余った状態になる。金融資産に余裕のある企業や個人が、金融投資をしているのが、今の状況だろう。要するに、お金で、「お金」という商品を買っている。それが上がった、下がったと騒いでいる。

その背景は、バブルの頃、簿価会計がバブルを引き起こしたとして、時価会計を導入したことにある。時価会計は、企業価値が大幅に変動する。利ザヤを稼ぐには、相場が激しく上下する方が好都合ということで、そこに目を付けた海外投資家が、日本株に投資し、その株主比率が高くなり、彼らの要求が強くなった。所謂、「モノ言う株主」だ。彼らは、配当の増額等を要求するようになった。

大企業のサラリーマン経営者たちは、彼らの言うことを無視できないので、配当を増やさざるを得ないと判断。ただ企業価値は変動するので、それをカバーするために、従業員への分配を少なくし、内部留保を確保するように、保身的に動く。

すなわち、企業経営者は、企業価値の変動をカバーするために、内部留保厚くするようになり、その結果として、損益分岐点を下げるため、人件費の変動費化をして、非正規雇用を増やしたり、正社員の労働分配率は低く抑えるようになっている。こうして見てくると、結果的に、諸悪の根源は時価会計ということになっている。

米国では、時価会計は、景気の状況によって止めることができる仕組みがある。ところが、日本は簿価会計から時価会計に変更しても、それを止める仕組みはない。頑なに決まったことだとして、このルールを守ろうとするから、経済がおかしくなる。国や世界の経済の状態は変わるから、それに合わせてルールを変える必要があるのに、それに対応できない。こんなところにも硬直的な官僚的システムが禍している。

日本再生の道は、時価会計の見直しであり、そこからすべてが始まると言って過言ではないと言える。ヘリコプターマネーでは、投資家を喜ばせても、国の再建にはつながらないだろう。

*追記

小泉政権の時、労働者派遣法が改正され、大企業は正社員をリストラ整理し、派遣等間接人員を増やした結果、彼らの所得は低く放置されている。また正社員も、過剰な負担を押し付けられ、所得が上がらない状況が続いている。時価会計の導入と労働者派遣法の改正は、リンクしている。

*追記

もちろん時価会計を止めたからと言って、急に事態は好転しないだろう。それには時間がかかる。だが、日本の経営者たちは、もう少し落ち着きを取り戻し、本来あるべき人の育成に時間をかけて、ビジネスを発展させる日本的経営になるかもしれない。それは昔のような日本的経営ではなく、少しバージョンアップさせた日本的経営が可能になる。

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2013年7月 2日 (火)

知らされていなくても、、、、

プロ野球の加藤コミッショナーが、統一球が変更されているのを知らされていなかったから、辞任を拒否している。彼は組織のトップとしての処し方が分っていないのだろう。元官僚で、学識経験の高い人と思うが、組織人間としては、低レベル。

知っている、知らされていないという問題ではなく、トップというのは、いかなる場合も責任をとる必要がある。それが組織運営における基本だ。今回の場合は、選手生命にも影響を与えている。言い訳は無用で、加藤氏は、出処進退に汚い印象を受ける。老害というべきか。若い人にも影響するので、周囲も早く、彼を辞任させるべきだろう。

*2013年9月19日

報道では。やっと加藤コミッショナーが辞任するようだ。それにしても遅い決断。そもそもプロ野球のコミッショナーが官僚の天下り先になっているのはご免だ。コミッショナーは野球をよく分かっている人物にすべきだろう。

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少し面白い忍者時代劇 『妻は、くノ一』

私が子どもの頃は、忍者ドラマ、忍者漫画が全盛であったが、最近は、あまり登場しない。昔に視たものとしては、時代は前後するかもしれないが、『隠密剣士』、『仮面の忍者 赤影』、『影の軍団』、『くノ一忍法帖』、『風』、『柳生武芸帖』、『猿飛佐助』、『忍びの者』等。それ以外でも、時代劇では、忍者は、よく登場した。漫画の方も、『カムイ外伝』とか、いろいろあった。子どもの頃は、皆、真似をして、チャンバラごっこのネタにもなったものだ。

今放送しているNHKの木曜時代劇『妻は、くノ一』は、BS時代劇で、すでに放送済みのようだが、総合テレビで今放送している。割と面白い内容だ。NHKの現代ドラマは、内容が暗いので(多分、女性の視聴者向けに作られるからだろう。女性は、他者の不幸と比して、自らの幸福を感じる人が多いから)、ほとんど視聴しないが、時代劇は時々視聴する。まずまずの内容だろう。久々に忍者が登場していて懐かしい。主演は、市川染五郎、瀧本美織。瀧本美織がお庭番の忍者役。

内容は、若い地方の貧乏武士で天文学に詳しい雙星彦馬のところに、奇跡と思えるような美しい嫁・織江が来るが、彼女は実は幕府のお庭番。彼女は、要件が済むと、雙星の元を静かに去ってしまい、彼が江戸まで出てきて、探そうとする。その中で、いろんな事件に遭遇し、雙星が、科学的知見で解決するという内容だ。

馬鹿げていて、あり得ないようなことと言えなくもないが、娯楽時代劇とは、そういうものだろう。気楽に楽しめる。織江の忍者活劇も、それなりにいい。こういう忍者時代劇ブームが来ないかな。

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2013年7月 1日 (月)

痛い食料品の一斉値上げ

本日から、食料品が一斉値上げされるそうだ。その値上げ幅も、かなり大きい。円安は、国民の負担になる。円安で喜んでいるのは、輸出企業だけ。円安で利益が膨らむ上に、消費税の還付金を加えれば、経営者はウハウハという気分だろう。

ただ、その分、国内の消費者に値上げとして、跳ね返ってくる。特に所得の伸びない中低所得者や年金生活者には直撃する。国内景気の悪化は中間層の没落だから、更に輪をかけることになる。

もちろん、デフレが続くのも異常だ。だが、所得の上がらない状況下の物価上昇は痛い。流風のようにエンゲル係数の高い者にとっては、食料品の値上げは、かなり厳しい。どのようにすればいいのか、途方に暮れる。

当面、パン食を御飯食に切り替えして、内食を増やし、微かな抵抗するだけ。そして、今だけを考えれば、消費税のアップに反対する人も増えるだろうな。

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