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2013年7月13日 (土)

誰も知らないということ

以前、児童置き去り事件を題材にした『誰も知らない』という映画が制作されたようだが、ここで取り扱う話は、全く関係ない。以前にも記したことと似ているかもしれないが、一般的に、自分を知る人間は、この世に、あまり存在しないということ。「知る」には、「分る」とか「理解している」と言う意味が含まれる。

例えば、子どもは、親は自分のことを知っていると思い、甘える。だが、それは大きな勘違い。また男女関係に於いては、恋人同士の間は、相手を知ったふりをして、近づくが、何も分っていない。仮に夫婦になっても、それは同じ。子どもが生まれて、子どものことを赤ん坊の時から見ているのに、子どものことは段々分らなくなる。

夫婦は、まだ血のつながりが無いから分るとしても、血のつながりのある子供さえも、本当に理解することは難しい。だから、家族をつないでいるものは、「情」に過ぎない。それは「情が移る」という言葉があるように、脆弱だが、そこから一体感が形成される。「情」が家族の接着剤なのだ。

それが他人になれば、基本的に立ち位置が異なるから、知るということは、かなり困難だ。よく外交問題になる歴史認識問題も、立ち位置が異なるから、決して一致することはあり得ない。韓国辺りは、それが分っていて、日本に難題を振りかけてくる。

少し脱線気味になったが、『寒山拾得』でも、寒山は、誰も理解者がいないことを嘆いている。

  多少の天台の人 寒山子を識らず

  真の意度を知ること莫く、閑言語を喚び作す

彼の書いた禅語に対しても、周囲は、何の理解もなく、騒ぎ立てると悩んでいるようだ。確かに、彼は乞食同様の姿で街を徘徊したから、狂人と思われていた。人は外見で判断するから、彼にも問題はある。

ただ、そのことは別にしても、自分を知る存在は、ほとんど無いに等しい。後世の人たちが、ああだこうだと論評しても、もうその時には、本人はいないわけだから、理解者はいないと同然だ。

ということは、妙に周囲に自分をよく知っていたり、理解している人間はいないと割り切った方が、案外うまくいくと言える。だから、基本的には、己を知るということが、まず求められると言うことになる。

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