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2013年7月15日 (月)

母の遺品の処分

人は亡くなれば、所有していた物は、ごみになる。どんなに故人に思い入れがあったとしても、ほとんどは、必要のないものである。父は、そういうことが分っていたので、生前から持ち物の処分を少しずつして行き、亡くなった時は、遺品としては、ほとんど何も残していなかった。残っていたのは、衣服と古いカメラと双眼鏡。それに少しばかりの小説だ。そして、数枚の新聞の切り抜き。人は裸で生まれて、何も持たず裸で死ぬ。そういうことを実践した。

ところが、母の場合は、ごみのような物から、各種様々な物を遺した。嫁入り道具の古いボロボロの家具も残っていたし、衣服やカバン類はもちろん、音楽カセット類、料理道具、多くのガラクタ。亡くなった時、どうしようもないガラクタ類は処分したが、その他は、親族の意向で残した。

先日、七回忌が終わり、やっと親族から処分の意向が出た。今、少しずつ処分しているが、家具類の処分で、部屋が広くなった。やっと本来の住まいになる。家具が多すぎたのだ。こんなことなら、もっと早く処分すべきだったが、親族の思いは、それぞれ違う。やはり父のように、生前に整理しておいてくれた方が、子どもにとって有難いものだ。遺品はなくなっても、子どもに親の思いは、きちんと残っているのだから。

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