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2013年9月30日 (月)

『じろはったん』の世界

一般に、知的障害者の世界は理解しがたい。おそらく、彼らが見えるものと、一般人の見えるものとには差異があるのだろう。ところが、絵画の世界では、彼らが描いたものが、海外で高く評価されることがある。専門家には、彼らの思考・世界が見えるのだろうか。

ところで、知的障害者を描いた児童文学に、『じろはったん』というものがあるそうだ。作者は森はなという人で、教師を辞め、40年前に64歳で、この作品を出し、翌年、「日本児童文学者協会新人賞」を受賞しているという。随分と遅咲きだ。最近、文学賞を受賞した人にも高齢者はいるから、今は、それほど珍しくないかもしれないが、当時は珍しいことであっただろう。

この作品は、子供の頃に無かったので読んでいないが、大体のあらすじは次のようなものだ。戦争末期、兵庫県但馬地方の小さな村に「じろはったん」と呼ばれる知的障害者の青年がいた。本名は「山根次郎八」。優しく純粋な心の持ち主の彼は、子供たちの人気者でもある。

村の人々も、温かい眼差しを向け、見守っている。それで、一応、幸福な日々を送っていた。ところが、この村にも、戦争の暗い影を落とすようになる。幼馴染の親友は、赤紙で出征し、神戸からは疎開先として選ばれた、この村に女教師・石野文江が子供たちを引率して、やってくる。

親と離れ、戦争に翻弄される子供たちの悲しみ。だが、そういうことが分らない、じろはったんは、ただ「うれしいのう」と喜んでいる。結果的に、彼の存在が彼らを励ますことになるというような話のようだ。機会があれば読んでみたい。

人は、それぞれの存在価値や使命を持って生まれてくる。そういうことを著者は示したかったのかもしれない。姫路文学館では、平成25年10月11日より、『じろはったん』出版40周年記念として、「児童文学作家 森はなの世界」展が催される。また理解を深める、いろんなイベントが、計画されている(参考参照)。

*参考 姫路文学館  『森はなの世界』の期間中のイベント

http://www.city.himeji.lg.jp/bungaku/tokubetsutenn/morihana/morihana%20event.html

*参考

また10月12日には、姫路市文化センター大ホールにて、『じろはったん記念日』として、朗読とミュージカルが催される。出演は朗読が市原悦子、日本ミュージカル研究会・劇団JMAだ。入場料2000円(チケット限りあり。問い合わせ先・079-285-4810)

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2013年9月29日 (日)

ビッグデータに大した意味はない

最近、ビッグデータというものが注目されているらしい。ネット上の膨大なデータを分析して、傾向値を測るということのようだ。確かに、全宇宙とか、全世界で見れば、ビッグデータは有効かもしれない。基本的にマクロの分野でのみ役に立つのだろう。

と言って、政治や経済に役立つかと言えば、疑問は残る。手間暇かけてデータを集めて分析しても、そこには、ありきたりの答えしか残っていない可能性もある。仮説も立てず、膨大なデータを分析しても、それは徒労に終わるだろう。

そんな使い方では、ビッグデータに意味はない。特に政治は、そのように言えるのではないか。ネットの声は、必ずしも本当の意見でないことも考えられる。やはり直接、多くの人に会って本音の話を聞かなければ、真のことは判らない。政治家のネット依存の傾向は、まるで足腰の弱った老人を連想させる。危ない、危ない。

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姫路の富士山コレクション展に行く~三木美術館

先日、三木美術館で、世界文化遺産登録記念として、「富士山コレクション」が開催されていると知って、鑑賞してきた(10月21日まで)。出品数は7点だけだが、異なる季節の富士山の絵画を観ることができてよかった。展示されている作品は次の通り。

  ◎椿貞雄 『富士山』

  ◎中根寛 『朝日富士』

  ◎横山大観 『三保乃不二』

  ◎中村宗弘 『富士』

  ◎佐藤晨 『黎明不二』

  ◎那波多目功一 『湖上富士』

  ◎松林桂月 『霊峰富士』

展示は、ゆったりしており、いい感じ。実は、この展覧会は、8月28日からされているらしいのだが、最近まで知らなかった。つい先日、フリーペーパーの告知欄に紹介されていて、初めて知った。いつもホームページをチェックすれば、判るのだろうが、あまり小まめにチェックする習慣のない者としては、見落とすところだった。

もう少し、広報力を高めて欲しいと思う。例えば、JR姫路駅構内にある姫路観光案内所にパンフレットを置いてもらって情報を流すのもいいと思う。ここで市内の催しをチェックしている人は観光者だけでなく、一般市民も多いと思う。検討して欲しい所だ。

さて、展示されているのは、もちろん富士山コレクションだけではない。秋季展として、「巨匠たちが追求した用の美 民芸陶器」が展示してある。所謂、民芸運動による作品群だ。あの柳宗悦の展開によって、「日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品のの中に“用の美”を見出し、活用する運動」の中で、無名の職人を発掘し、世に広めた。

展示してあるのは、濱田庄司、河合寛次郎、富本憲吉、島岡達三、金城次郎、加守田章二、林恭助、加藤孝造、荒川豊蔵。どれも優れた作品ばかりだ。確かに日用品として使えそうなものが多く、見ていて抵抗感が少ない。本来、日用品に使えない作品は、美術品としては問題があるのかもしれないと思わせる。

その他にも、日本人の洋画が10点ばかり展示してあった。当日は、朝一番に行ったためか、観覧客も少なく、ゆったりと鑑賞ができた。決して大きな美術館ではないが、大きな美術館だと企画展が催されると多くの観覧客で、十分に鑑賞はできないことを考えると、三木美術館のような規模の美術館も捨てがたい。当日は、富士山には登っていないが、いい作品を観させてもらって朝から充実した一日でした。

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2013年9月28日 (土)

黒田官兵衛の足跡 その五 信長・秀吉との出会いと毛利との戦い

天正3年(1575年)に、使者として、京で信長に会い忠誠を誓い、息子の松寿丸(後の長政)を信長のもとに人質として差し出す。付き人は、松寿丸より3歳年長の井口平助(後の村田出羽守)だった。

これが功を奏し、信長より、名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を賜る。信長の信頼を得、それを機会に信長に播磨への進出を促す。松寿丸は、秀吉の正室・於祢(おね)が預かり、虎之助(後の加藤清正)や市松(後の福島正則)らと自由闊達な日々を送っている。これは、彼らの将来を運命づけている。

そして、官兵衛は、信長より命ぜられ、毛利討伐の総大将になる秀吉と、新しい時代を築こうと意気投合する。秀吉にしても、信長軍団の中で、目ぼしい成果を挙げるには、優秀な人材が必要だった。秀吉は信長に請いて、官兵衛を貰い受けたのだった。

秀吉には、竹中半兵衛を、既に三顧の礼で軍師に迎えたが、健康上の問題を抱えていたから、新しい人材が必要だった。だから、どうしても、彼に代わる優れた軍師が必要だった秀吉には、官兵衛は、ちょうどいいタイミングで現れたことになる。

天正4年(1576)、毛利方・浦宗勝の兵五千が、英賀城の城主・三木通秋を援護するため、夢前川を遡上してくる。官兵衛は、奇策にて、五百の兵で退けることに成功する。これにより、信長より感状を贈られる。

天正5年(1577)10月、秀吉は、兵六千で播磨入りする。官兵衛は、調略により、播磨の諸将を説得し、織田の見方につけている。調略というと、秀吉のお家芸と見られているが、実際のところは、播磨での調略は官兵衛が全てお膳立てしたものであった。

その後、官兵衛の調略の働きにより、播磨の有力土豪を取りまとめ、彼らの人質を確保し、彼らは次々と織田方に靡いていた。それは難敵と謂われた三木城の別所長治も同様だった。もちろん、調略でも、従わないところもある。そこには、力攻めだ。

秀吉は、毛利方の佐用(福原)城と上月城を攻める。佐用城攻めの先陣を官兵衛が受け持つ。城の三方を囲み、一方をわざと開けておく、いわゆる孫子の兵法を用い、城兵が活路を目指して出ていくのを狙って、城主福原則尚を討ち取り、目覚ましい活躍をしている。

この時、軍師・竹中半兵衛と、肝胆相照らす交わりをもったという。ちなみに、秀吉を支えた軍師として、彼らは「二兵衛」と言われるのだが、半兵衛は、早逝しているので、秀吉を実質、天下人に押し上げたのは、官兵衛ということになる。ただ、どちらが軍師として優れていたかという比較できない。

半兵衛は、官兵衛の理路整然と論理的に物事を進めるのは感心だが、「情」の面で厳し過ぎると危惧していたようだ。半兵衛は、多分、学者的で人間的に優しい所があったのだろう。それは官兵衛自身が半兵衛に心酔していることからも明らかだ。同じ軍師でも性格の違いが出ている。官兵衛は、半兵衛の見た通り、後、秀吉から警戒される。

しかしながら、半兵衛亡き後、引き継いだ官兵衛は、自らの軍を率いて、その後の秀吉の戦いに、ほとんど参戦し、功をあげていることからして、理論と実践、両面で優れていたことは間違いない。それゆえ、半兵衛に比して、厳しい人間的側面があったことは否めない。

さて、勢いをかって、毛利の援軍・宇喜多直家の兵5千を退け、上月城は目前となり、風前の灯となった。城主・赤松政範は自刃し、開城する。秀吉は落とした上月城に出雲の尼子氏の後裔の勝久を城主に迎え、尼子家再興の夢を叶えさせる。そして、城番として、尼子十勇士の一人として名高い山中鹿之助を置く。

ところが毛利の再襲来で、上月城は再度、毛利の手に落ちる。城主は、上月景貞が返り咲く。秀吉は、更に再攻撃し、落城。上月景貞を残虐な方法で殺戮。彼の正室や子供も、そのようになるはずだったが、正室は官兵衛の義姉だったため、官兵衛が助命嘆願し、秀吉も許したという。ここに、官兵衛の性格が出ている。これは妻の意向を受けたものだったかもしれない。

ところで、上月城は再度、勝久と鹿之助に任せられるが、信長は、裏切った別所長治が城主の三木城に全勢力を傾けた。秀吉軍も、三木へ回ったため、手薄となった間隙をぬって、毛利の吉川と小早川の両川が三万という大軍の再々襲来で、勝久は自決し、鹿之助は、備中松山城に送られる途中殺害される。尼子家の再興は、これにより消え去った。

次回に続く

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2013年9月27日 (金)

白湯が美味しい時期

昨日から冷たい風が吹き少し寒くなってきました。寒がりの流風は、昨夜、肌掛け布団から羽毛布団に替えました。そのため、暖かく眠れたのですが、今朝は少し寝坊。寝間を出るのも少し億劫。でも真冬程ではない。

さて、白湯が健康にいいとはいえ、夏場は、ペットボトルの水を買って飲んでいた。水道の水は浄水器を持っていないので、まずいし。これからは沸して飲むのだが、ステンレスポットで沸かすとカルキ臭が抜けないため、まずい。

電気代はかかるが、久しぶりにカルキ抜きのできる電気湯沸かしポットを止むなく使うことにした。ここ数年は、電気代節約のため使わなかったのだが、ステンレスポットで沸かすとカルキ臭が強く気になるので、しまっておいた電気湯沸かしポット今朝引っ張り出してきた。そして沸かすと、やはり断然美味しい。

電気代節約を取るか、白湯の美味しさを取るか、これからの季節、大変悩ましい。

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2013年9月26日 (木)

明石城まつりについて

秋になると、本当に、いろんな催しが目白押しで嬉しいことだ。大体、交通費と食費以外は、そんなにお金はかからない。今回は、「明石城まつり2013」を紹介しておこう。毎年、割と行っている方だ。明石公園で催されるので、交通の便も極めていい。盛夏の8月に開催される姫路お城まつりと違って、秋に開催されるので、余計に行きやすい(*注追記)。

今年の開催日は、2013年10月12日と13日。内容は、例年、そんなに変わり映えはしないが、一応、内容の概要を記しておこう。まず明石城の重要文化財である櫓の一般公開がされる。後は、中央ステージイベントや各イベントスペースのイベントがある。各ブースでは、いろんな物が販売され、もちろん、明石焼きをはじめとして、明石の食が味わえる。更にフリーマーケットも毎年開催されている。

ただ、最近は、どちらかというと、若い人向けの催しが多い。また13日のみに同時開催される「第13回明石子午線どんとこいまつり」も、踊りパフォーマンスを主体としている。だから、そういうものに関心ない方は、10月12日がお薦め。ちょっと明石公園に散歩する感覚で、まつりを楽しめたらいいと思う。

*注追記

「姫路お城まつり」も、2015年から5月の春の開催に変更されている。

*追記

2014年の明石城まつりの日程は、10月11日と12日。残念ながら、行くことはできない。

*追記

2016年の明石城まつりの日程は、10月8日と9日だが、天候があまりよくないようだ。少雨決行だが、悪天候だと中止になる。行くか行かないか難しい判断だ。

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2013年9月25日 (水)

「名城ふたたび、ようこそ姫路城」展について

現在、大改修中の姫路城の修理完了後の一般公開が、2015年3月27日からと決定している。来年からは、素屋根が外され、徐々に大天守閣が見えてくるという。

再オープン後の展示では、「連立大天守閣群」では、ガラスケースを使わない展示に切り替えたり、「西の丸周辺」では、昭和の大修理で発見された化粧板等が展示される。また「リの一渡櫓」では、来年の大河ドラマ『軍師官兵衛』に合わせて、「官兵衛歴史館」として活用するようだ。

ところで、今年は、姫路城は世界遺産に登録されて、20年目になる。それを記念して、兵庫県立歴史博物館では、「名城ふたたび、ようこそ姫路城」と称して、2013年10月12日から展覧会を開く(12月1日まで)。秀吉による築造図等の昔の姫路城や、解体を逃れた明治修理の様子や戦前の修理の様子が周辺市街地の図などが紹介される。

別名、白鷺城とも言われる姫路城は、明治維新で壊される可能性もあったが、有志の努力により今の姿が残った。また第二次世界大戦による米国の空襲にも、奇跡的に残った。米国が配慮してというのは嘘で、投下された爆弾がたまたま爆発しなかっただけという。

戦後の大規模の修理は、今回が二回目だが、伝統の技を受け継ぎ、また新しいやり方で工事は進んでいる。早く全容を現す姿を見たいのは、やまやまだが、もう少しの辛抱だ。それまで、姫路城の修築の歴史を学んでおくこともいいだろう。

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2013年9月23日 (月)

倍返しドラマ終わって考える

金融関係のドラマとして人気を博した『半沢直樹』が昨日終了した。視聴率が高く、多くの人の関心を集めた。私も、初め頃は、あまり興味はなかったが、段々引き込まれて行ったことは確かだ。

ただ時代背景を考えると、現状と少し異なる。現在の金融機関に、あのようなバイタリティー溢れる人物は、残念ながら見当たらない。彼のようなタイプは、バブル以前に、居たようだ。融資先の審査というものは、大変難しい。それなりの見識と度胸がいる。

企業経営者の資質、ビジネスの可能性・有望性、競争環境、内部管理システム、彼を支えるスタッフの質、外部関係先の協力者の善し悪し、主たる納入先の経営環境、主たるライバル企業、経済環境、そして、財務管理、金融環境。全てをリスクとして精査して、融資をするかどうか決める。

よって基本的に、「いかに融資しないか」というのが、融資担当者の資質ということになる。すなわち、事業者が言うような「事業の成功」を前提としてない。失敗することを前提に融資を考える。そういうことで、融資担当者の所には、いろんな誘惑がある。搦め手もある。騙しもある。それを全て見抜くというのは、大変なことだと、関係者が言っていたのを覚えている。

かつて金融機関に入社するには、家柄、資産関係の状況が問われ、謂わば、それを担保に就職できた。仮に融資担当者になり、融資に失敗し回収できなくなると、個人の責任として、身ぐるみ剥がれた。それが、「いかに融資しないか」という姿勢につながる。

今は、融資条件が甘くなっているようだが、基本的に金融機関も、「金貸し」。街の金融屋と何ら変わることはない。そもそも、個人も中小企業経営者も、単に金利が安くても安易に金を借りてはならない。ところが、超低金利の煽りを受けて、現在は、住宅ローンを始めとして融資競争をしている。借りる方も、貸す方も危ういことだ。

このような背景の中で、金融関係ドラマに人気が出たのは、基本的に「勧善懲悪」ドラマだからだろう。もちろん、金融機関の内部事情を覗き見できたということもあるかもしれない。ただ基本は、要するに、水戸黄門や、大岡越前、各種捕り物帖と同じだ。だから視ていて、心地よい。憂さを晴らせる。そういうことだろう。今回は、たまたま舞台が金融機関になっただけのことだ。でも、続編も視てみたいなあ(笑)。

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2013年9月22日 (日)

ぶどうと葡萄

ぶどうの美味しい季節になってきました。先日買った巨峰も大変うまかった。ぶどうには、小粒のタイプと巨峰のような大粒タイプがあるが、最近は、大粒の物をよく買う。大粒と言えば、巨峰の他にマスカット、ペリーなどがある。

なぜ大粒にこだわるかというと、剥いて食べるため。ぶどうの皮には農薬(殺菌剤)が塗布されているので、それを流水で10分くらい流し洗いすることが望ましいとされている。そして皮を剥いて食するのだが、小粒だと、それが難しい。結局、口の中で、中身を食して皮と種を出すのだが、それがよくない。

もちろん、毎日、大量に食さなければ問題ないという人も多い。確かに、あまり神経質になってしまうと何も食べられないだろう。ただ、小さい子供さんたちには配慮したいものだ。大人も、体が弱っている人には、あまり薦められない。

さて、ぶどうを題材にした小説は、海外にもあるが、今回は、昔の人は、よく読んだ有島武郎の『一房の葡萄』があるが、それを取り上げる。彼はクリスチャンであったが、その影響の強い自伝のような内容だ。一応、童話という扱いだが、教師のあり方を説いた教訓書に近い。

ご存じない方の為に、若干内容を記すと、主人公は横浜の山手にあるミッション系スクールに通っていた。彼は絵を描くことを得意としていた。そこの教師は外国人ばかり。同級生も西洋人が多く、その中に、西洋絵の具を持っている友達がいた。

それを使うと、どんな絵も、うまく描けると錯覚を覚えるほど。主人公は、それが羨ましくて堪らない。だが、高くて買ってもらえそうにない。ある日、教室に彼を残して誰もいないことをいいことに、魔が差し、ついに、その絵の具を二本盗んでしまうが、後で大騒ぎ。教室には、主人公しかいないことが分かって、問い詰められ、ばれてしまう。友達たちは、主人公を二階にいる教員室の担任の女の先生に突き出す。

主人公は先生に事実を問われるが、泣きだしてしまう。しばらく彼を見つめ、やがて他の生徒を返してしまう。そして、「絵具は、もう返したか」と主人公に問い、うなづくと、反省していることを確認し、この部屋に待機するように言い、二階の窓から手の届く、一房の葡萄を、もぎ取り、彼に渡す。

しはらくして、彼女が戻ってくると、「みんな帰ったので、あなたも帰るように」と言い、更に「明日、必ず登校するように。あなたの顔を見ないと悲しい」と付け加え、まだ食していない葡萄をかばんに入れてくれる。

この後も、話は続くのだが、ここら辺で止めておこう。要するに教師のあり方を描いている。子供の誤りにも優しく配慮する。子供が健全に成長するかどうかは、一つの「事件」を、いかに取り扱うかということにかかっているということかもしれない。「ぶどう」は美味しいけれど、「葡萄」の話は、少し考えさせられる。

*追記

最終的には、この女性の教師は、短時間に、子供たちを和解させ、仲良くさせていくのだが、その手法は記されていない。ただ、最後に、二人に握手させ、葡萄を一房ずつ与えている。

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2013年9月20日 (金)

妻を捨てた男~孟子

最近、数々の女性との浮名を流した、お笑いタレントが、ついに年貢を納めたと報道していた。結婚した相手は、4年前に一度捨てた女性らしい。別れた後も、次々と女性を変えたが、彼女ほどの「器の大きい」人物は現れなかったという。

大体、「器が大きい」というのは、男に対して発せられる言葉(一般に男女間では使わない)だと思うが、彼は、妻になる女性のことを、そのように表現していた。錯覚じゃないかな(笑)。それはそうと、折角選びに選んだ女性なんだから、大事にして欲しいものだ。

さて、このことで、思い出したのが、お笑いタレントは、彼女を妻になる前に一度捨てたのだが、古代の中国の儒教者は妻を捨てている。有名なのが、儒教を始めた孔子が妻を離縁している。

今回は、孔子の孫の子思の弟子、孟子が妻を捨てたことを取り上げよう。ちなみに、彼の師の子思も妻を捨てている。もっと言えば、孔子の子の伯魚も妻を捨てている。そういう家系なのか、学問に一途過ぎるのか。

孟子は、孟母三遷の教えというように、彼は教育ママの下で育ったから、幾分世間知らずだったかもしれない。彼はマザコンで乳離れ出来なかったとも考えられる。実は、孟子が妻を離縁したというのは、『荀子』の一文に「孟子は敗をにくみて妻を出す」というのがあるところから、そのように捉えられている。

これをネタ元として、郭沫若が「孟子 妻を出す」という短い作品を作っている。だから、その内容は創作ということができるが面白いので、少し紹介しておこう。彼によると、孟子の妻は賢夫人で、彼のことを理解し、母親の役割も果たし、儒教の教えにも従う、云わば完璧な女性。彼の言うことには、何一つ逆らわない。そんな女性、居るのかな。

だが、孟子は考えた。彼女に甘えてしまうと、自分が駄目になってしまうと。妻に溺れてしまうことを懸念したのだ。これは、先のお笑いタレントの言葉と同じではないか。ただ、孟子が別れた妻のもとに戻ったかどうかは判らない。

*参考文献

  郭沫若著 平岡武夫訳 『歴史小品』 (岩波文庫)

この作品は、郭沫若の皮肉が込められている。儒教者は偉そうなことを言っているが、実生活では、そんなに立派ではない。むしろ、それを実践しているのは、孟子の妻のような人物であると。

 

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2013年9月19日 (木)

黒田官兵衛の足跡 その四 官兵衛登場

黒田官兵衛は、永禄10年(1567)、22歳の時、小寺政職の姪で、志方城主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘(光姫(てるひめ))を娶る。彼は、この時代には珍しく、一夫一婦を守った。光姫は、官兵衛が生涯で、ただ一人愛した女性と伝わり、雅号「幸圓」の名でも知られる。

黒田家家譜には、「容色麗しく才色兼備」とある。また身体が大きく、おおらかな性格だったという。官兵衛のように、あれこれ考えを巡らすタイプには、似つかわしい女性だったかもしれない(*注)。

そして、結婚と同時に、父職隆が44歳で隠居し、彼に代わって、家督を22歳で受け継ぎ、姫路城主となる。この事情は、よく分からないが、主家・小寺政職の意向があったのかもしれない。翌年には、光姫は、姫路城で男子を産んでいる。すなわち嫡子・長政(幼名・松寿)である。

この頃、永禄12年(1569)、龍野城主・赤松政秀は、三木城主・別所安治と謀り、官兵衛が仕えている御着城主・小寺政職(まさもと)を挟み撃ちしてくる。赤松政秀は、兵一千余りを率いて、青山(姫路)に陣取る。

これに対して、官兵衛は、わずか三百の手勢で撃退する。ところが、更に、しつこく1ヵ月後に、兵三千を率いて、再襲来するのだが、今度は官兵衛は、たった兵百五十を率いて、赤松に壊滅的打撃を与える。これで官兵衛の名は世に轟く。この戦いを青山・土器山(かわらけやま)の合戦という。

その後、30歳の時、姫路城を預かる官兵衛は、明石氏の出の母親との関係で、明石氏が秀吉との関係を強める中で、秀吉より吹きこまれた結果、織田信長こそ将来を託すべき武将と見るようになる。それを如実に裏付けることが起こる。天正3年、織田・徳川連合軍が、最強の騎馬軍団として恐れられた武田軍を長篠の戦いで勝利したのだ。

だが、当時、播磨の武将は、毛利方につくか、織田方につくか揺れ動いていた。小寺家の家中も、なかなか評定が決着しなかった。小寺政職は、重臣たちを集めて、中央を制した織田信長と、昔から、つながりのある中国地方の太守・毛利輝元のどちらに付くか、喧々諤々とやっていた。武将たちの大勢は、毛利方に与することで一致。重臣たちも、そのようであった。

ところが、官兵衛だけは、信長の「天下布武」と標榜し、天下統一のビジョンの高さに感心し、また戦略的行動力の素晴らしさを評価し、毛利方とは比べ物にならないと強く意見した。官兵衛は、信長に、つくしかないと考え、主家・小寺氏に、織田への臣従を強く主張する。

これには、論理的だが、彼の強弁に抵抗した家臣たちも多くいた。彼は、あまりに頭の回転が速くて、結論を急ぎ過ぎるのだ。つまり自らの「知」を、あまりにも前面に出し過ぎ、空気を読むタイプでは、なかったようだ。もちろん、若かったということも、あるだろう。

それでも、結局、天正3年(1575)6月、小寺政職を何とか説得し、織田信長に帰属することを決める。官兵衛は、時代の流れに乗る必要を、少し焦りの気持も手伝って、切々と感じたに違いない。それには今までの常識を捨てなければならない。そういう思いを強くする。ただ、家臣団の中には、渋々従った者も多くいたと思われる。

*注

「光」については、以前、「軍師官兵衛の妻~光(てる)について」(2013.6.10付)として記したので、そちらを参照ください。

次回に続く。

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2013年9月18日 (水)

他人に携帯を向ける子供たちのリスク

若い時、初めてカメラを購入した時、カメラも趣味にしていた父から、次のような注意を受けた。「カメラを向ける時は細心の注意が必要だ。人を写す時も、他人が入りこんでいないか注意し、自然を撮る時も、それは同じだ。誰でも、予期なく写して欲しくないものだ」と。

芸能人の場合は、芸能カメラマンが追っかけで、隠し撮りなどしているようだが、本来は望ましくない。それが一般人なら余計にそうだろう。ところが、最近は、携帯にカメラ機能があるため、やたらカメラを向けたがる。先日、ある女性が、喫茶店で、隠し撮りしていたが、それは子供たちも同様。

最近の子供たちは、携帯を持ち歩いているから、誰にでも無邪気に携帯を向けて写真を撮っている子供たちがいる。これは彼らにリスクがかかる可能性が高い。最悪の場合、犯罪に巻き込まれることも考えられる(*注)。親たちは、子供に、写真を撮ることのリスクを教える必要があるのではなかろうか。

*注

このリスクは、肖像権の侵害だけでなく、子供たちに限らず、大人にも言える。

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2013年9月16日 (月)

見通す力の大切さ

見通す力なんて言っても、一般人は預言者でもなければ、予知者でもない。ただ少し努力すれば、予見は可能かもしれない。予知も予見も同じではないかと言うかもしれないが、予知は「前もって知ること」に対して、予見は「事が、まだ現れない先に、推察によって、そのことを知ること」と『広辞苑』にある。予見は、わざわざ「推察」という言葉を入れている。この推察することにより見通す癖は大切と思う。

『菜根譚』にも、次のような一文がある。

 病に偶(あ)いて後に、強の宝たるを思い、

 乱に処して後に平の福たるを思うは、

 蚤智にあらざるなり。

 福を倖(ねが)いて、その禍の本たるを知り、

 生を貪りて、先ず、その死の因たるを知るは、

 それ卓見なるか。

一部、判らない文字もあるが、全体的には解釈は不要だろう。言っていることは、以前から記しているように、東洋の三原則に従って、将来を見通す姿勢が、求められる。現在の情報社会では、あまりにも多くの現象に惑わされないようにしたいものだ。

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2013年9月14日 (土)

泣かせる装置があれば

女性が泣くのは、心から泣いているのか、その振りをしているだけなのか、男には、なかなか、その見分けは難しい。昔から、女性の涙は、心と一致しないと言われる。最近の女性は強くなったので、よく分からないが、泣くことを武器に使う人もいる。

ところで、米国のイグノーベル賞に日本人が受賞したようだ。最近は例年のように、日本人が受賞しているが、これはダジャレ文化の延長なのだろうか。それでも、それを具体的にするのだから、大したものだ。結構小さくて実用的だ。

今回は、「泣かせる装置」で受賞していた。玉ねぎを剥く時に発する成分を利用してのものらしいが、ありふれている原理と言えば、そうだが、それをちゃんと装置にするところが面白い。

そういうと、感激屋の母は、小説を読んだり、観劇の後は、すぐ涙を流すのに、お通夜とか、お葬式では、悲しいのに、なかなか涙が出ないので困ると言っていた。ところが、日頃、故人と仲の悪かった女性なのに、滂沱の涙を流す女性を見て、あの真似は出来ないと嘆いていた。

でも、この装置があれば、多分、大丈夫だろう。生前に開発されていれば、新し物好きな母は、買い求めたかもしれない。冗談ではなくて、本当に困っている人もいるのだ。ただ、この装置は、女性のウソ泣きに使われるだろうな。男にとって、手強い物が作られたものだとすれば、厄介だ(笑)。

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2013年9月13日 (金)

気になる地方首長の官僚的発言

常々思っていることだが、地方の首長の官僚的発言が改まらない。地方の首長は、一応、地方政治家のはずだが、その発言の多くは、地方官僚の用意したペーパー通りの発言のことが多いのではないか。よって、それらの発言は、第三者から見ても冷たいような印象を与える。本当に彼らが真に心の底から住民のことを考えて発言している首長は少ないのではなかろうか。

災害が起きた時も、首長の多くは、「支援は法律の枠内でしか支援できない」とか言うし、これでは政治家ではなくて、官僚だ。地方の首長は、官僚上がりも多いから、官僚思考が抜けきらない。東北の震災地の首長も同様だ(但し福島除く。福島は首長だけでは解決できないことは明らか)。彼らには、厳しい諸条件は分るが、使命感が足りない。

これは別に東北の被災地に限らない。先日の竜巻が起って多大な被害を受けた地域の首長も官僚的発言をしていた。発言は組織の行動に影響する。一体全体、首長は誰の為に存在するのだろうか。政治は、現実との矛盾を解決するのが、その役目だろう。現在の法律の枠内で仕事をするだけなら、政治家はいらない。

*追記

確かに東日本大震災の爪痕は大きいが、従来の発想からは何も解決できない。すなわち被災者地元住民を縛りつけるような、やり方では解決は遅れるばかりだ。解決するには、一時的な強い権限も必要だが、要所要所で首長がリーダーシップを発揮することが求められるが、残念ながら、部下任せで、流れるに任せる平時のやり方を踏襲している。これでは、おそらく、今後数年経っても、遅々として進展しないだろう。

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2013年9月12日 (木)

公共に顔をさらすリスク

最近、一部の若い人たちが、目立とうとして、本人は自覚がないのかもしれないが、不祥事を引き起こして、それをソーシャルメディアに公開するという馬鹿げたことをしている。私の若い頃は、そういう情報機器がなかったから、近所で問題を起こしても、それが広く世間に広がることはなかった。

だが、今は状況が大きく異なる。くだらない欲望の為に、情報にオンすることは、自らの恥を公開するようなものである。ソーシャルメディアに自分を公開すれば、それは瞬時に、国内外に広がるリスクを負っている。だから、そこに載せる情報は自制されたものである必要があるだろう。

一旦発信された情報は、それが将来、不都合と思われて消去しても残る。それが若い人たちの将来の重荷にならないか危惧される。単に目立ちたいという単純な欲望で、顔をさらして、自らを傷つける必要はないと思う。情報社会では、より慎重な行動を望みたいものだ。それほど厄介な時代という認識が必要だ。

*追記

ちなみに公共に顔をさらすには、それなりの対価がなければならない。政治家や芸能人、アナウンサー等が、高給をもらうのは、そういう理由も、あるからだろう。

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2013年9月11日 (水)

秋の月の漢詩 その三 真山民の「山中月」

今回は、明確に秋の月の漢詩とは言えないが、取り上げてみる。それは真山民の「山中月」。宋時代の哲学者の孤独な思いを詠ったものだ。

 我は愛す 山中の月

 烱(けい)然として 疎林に掛るを

 幽独の人を憐むが為に

 流光 衣襟に散ず

 我が心本 月の如く

 月も亦(また) 我が心の如し

 心と月と両(ふたつ)ながら相照らし

 清夜 長(とこし)えに相尋ぬ

見慣れない文字「烱(けい)然」は、光り輝く様を指し、「疎林」は、落葉後、すかすかになった林を指す。よって、この漢詩の季節は冬かもしれない。全体の解釈を試みれば、「私は山中に差し上り、落葉して奥まで見通せる林に光が掛っている月を好ましく思う。それは、まるで孤独な我が身を憐れむために、月の光の流れが、私の衣服を包むように照らしてくれる。私の心も、月の如く、月を愛し、月も、そのようだ。私の心と月は、相照らして、これからの静夜を過ごすことだろう」ということだろうか。

これは、どのような状況で作詩されたのだろうか。単に哲学者の孤独の叫びとも捉えられるが、誰かを失った後で、作られたものかもしれない。哲学者に限らず、誰でも、そういう時はあるかもしれない。

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2013年9月10日 (火)

黒田官兵衛の足跡 その三 姫路入りと官兵衛誕生

その後、重隆は、財を蓄えた後、赤松氏の一族の小寺氏に仕え、小寺家に養子に入っている。実は、赤松家は、家臣の浦上家と対立し、襲われていた。混乱はチャンスと考えたのかもしれない。

重隆から職隆は家督を継ぎ、小寺政職に仕える。彼は、民に慈悲深く、武勇に優れていたため、城下の民より敬愛されたと云う。そのためか、地元では、「チクゼンさん」の愛称で親しまれてきた。彼は、政職から小寺の姓を与えられている。そして、その養女の明石氏(*注1)を妻として迎える。

また、彼は姫路を愛した人として知られる。後に、秀吉が姫路城に入り、城下の民は動揺したが、自分は生涯、姫路を離れないと言って、安心させたと云う逸話も残る。彼は生涯を姫路に、こだわり、民との約束を守り、姫路を離れなかった。それほど民との信頼関係は厚かった。官兵衛も、多かれ少なかれ、そのような父親の影響を大きく受けているだろう。

1546年(天文15年)11月29日、小寺氏の本城・御着城の出城であった姫路館の城代になっていた職隆(もとたか)と母・明石氏の子として嫡男で幼名万吉が生まれる。この日は、一面の雪景色だったと云う。それが後の官兵衛孝高である(*注2)。

1561年(永禄4年)に、職隆は、姫山の上に、小城を築く。現在の西の丸のある鷺山にあったとされる。これが姫路城の始まりと云われるが、多分、それまでのものより拡張した平屋の武家屋敷のある砦のようなものであった。よって、細かく指摘すれば、まだ城というには、ほど遠い。正確には、官兵衛は姫路城で生まれたのではなく、後、姫路城になる地で生まれたと言える。ただ、多くの人は、姫路城で生まれたとしている。

幼少時の官兵衛は、母方の祖父で、近衛家の歌の師範でもあった歌人の明石宗和の影響を受け、武芸よりも歌道で優れた才能を発揮したと云う。しかし、父の職隆から、いさめられたり、書写山円教寺の圓満坊から「歌を捨て、世を平和にせよ」と諭されたことから、歌の道から遠ざかる。

やがて武芸に励み、上達していく。そのように黒田官兵衛は、何事においても、早くから聡明であった。彼は小寺政職(まさもと)に、若くして、文武に明るい、その才能を認められ、1561年、弱冠16歳で、破格の禄高80石の待遇で、御着城にて、政職の側近になり家老になる。それは家督を継ぐまで仕える。

現在、御着城址の一角には、黒田家廟所がある。黒田家が福岡に移り、一時は廃れていたが、江戸時代に黒田藩十代藩主斉清によって再建されたものだ。ここには、官兵衛の祖父・重隆と生母・明石氏を祀っている。

*注1

明石氏は、官兵衛14歳の時に亡くなっている。明石氏の死後、職隆は、寡婦であった母里氏、神吉氏を、後妻に迎え、それぞれ子を為し、後に官兵衛の力になっている。

*注2

官兵衛の出生については、いろんな噂がある。よって、上記の内容は、「黒田家譜」によるもの。

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2013年9月 9日 (月)

道真の漢詩 「重陽後一日」

9月9日は、重陽の節句。菊を愛で、長寿を願う日だ。もちろん、これは旧暦のこと。今は、菊も、まだ咲く雰囲気ではない。それでも、一応、重陽の節句がらみの漢詩を取り上げてみる。それが、菅原道真の漢詩 「重陽後一日」だ。よって、これは9月10日に詠んだものだ。以前、同じく道真の漢詩「秋思詩」(*参考参照)を取り上げたが、それに関連する漢詩だ。

  去年の今夜 清涼に侍す

  思秋の詩篇 独り断腸

  恩賜の御衣 今此に在り

  捧持して毎日余香を拝す

解釈は、「昨年の今夜、陛下のいらっしゃる清涼殿において催された重陽の節句では、そこに侍っていたのに、今は、大宰府に流されて、独り断腸の思いで、秋思の歌を創作している。陛下から賜った御衣は、ここに在り、毎日捧げ持って、君恩の有難さを懐かしく思う」くらいかな(*注)。

*注

ネット等を見ると、私と全く異なる解釈がされている。漢文的には、私が間違っているのかもしれないが、更に古典の専門家ではないので、何とも言えないが、前後関係が合わない例も見られる。

*参考 道真の「秋思詩」。解釈は、以前に示したので、ここでは記さない。

  丞相年を度って幾度か楽思す

  今宵物に触れて自然に悲し

  声は寒し絡緯風吹くの処

  葉は落つ梧桐雨打つの時

  君春秋に富み臣漸く老ゆ

  恩に涯無く報猶お遅し

  知らず此の意何かに安慰せん

  酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず

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2013年9月 8日 (日)

ツユクサと『万葉集』

朝夕涼しく、少し過ごしやすくなってきました。もっとも昼間は晴れの日は、相変わらず暑い。自転車に乗っていると、汗が滲み出てくる。でも、湿気は意外なほど感じない。そうした中、トンボが乱舞している。自転車を走らせていると、一匹のトンボが追いかけてきた。割と長い時間。そして、私の頭に一瞬乗った感じ。錯覚かな。それを思うと、少し笑ってしまった。どんな風だったのだろう。ミニチョンマゲが乗った感じかも。

それはそうと、みかんの木の下に、ツユクサ(露草)が満開だ。露が下りる頃に咲くという、このツユクサは、夕方には萎んでしまう。花は紫と白のコントラストに、どうしても惹かれてしまう。また、この草には、いろんな異名がある。まず、蛍草。蛍が飛び始める頃に咲くからだ。でも、今の時期には、蛍は飛ばない。確かに一部のツユクサは、今ほど繁茂はしていなかったが、夏には咲いていた。そういう時期が一致する頃もあるということだろう。

呼び名としては、その他に、月草、うつし花などがある。月草というのは、この花が朝日を受けて咲くのではなくて、夜明け前の月の光で咲くことから、そういうらしいが、相当早起きしないといけないので、実際には確認していない(笑)。また、うつし花というのは、布にこすりつけて色を移すこことから来ている。

さて、このツユクサ、『万葉集』には、月草として9首、歌にされている。583番、1255番、1339番、1351番、2281番、2291番、2756番、3058番、3059番だ。

ツユクサの特徴を示した歌が、次の2281番と2291番。まず2281番

 朝露に 咲きすさびたる 月草の

   日くたつなへに 消ぬべく思ほゆ

解釈は、「朝露を受けて咲き誇っていたツユクサが、日が暮れるにつれて、萎むように、日暮れと共に、私の心も、萎えていく」という感じ。

次に、2291番。

 朝(あした)咲き 夕(ゆうへ)は消(け)ぬる 月草の

    消ぬべき恋も 我(あ)れはするかも

解釈は、「露を受けて朝咲いても、夕方には萎んでしまうツユクサ(露草)のように、私は、今にも消えてしまいそうな儚い恋をしている」といった感じかな。

また、うつり草という観点からは、583番の次の歌がある。

 月草の うつろひやすく 思へかも

    我(あ)が思ふ人の 事も告げ来ぬ

解釈としては、「月草のように、気が移りやすいと思われているのだろうか。私が想っている、あの人からは、何の便りもないことよ」ぐらい。誰もが経験する思いですね。

その思いが募ると、情熱的な、次の、1339番、1351番の歌になる。

まず1339番は次の歌。

 月草に 衣色どり 摺らめども

    うつろふ色と 言ふが苦しき

表面的な解釈は、「ツユクサの花で衣を染めたいけれど、すぐ褪せてしまうと言われるのが辛い」という感じ。裏解釈は、「あの人の色に染まりたいと思うけれど、ほどなく彼の気持ちが褪せていくと言われるのが辛い」という感じ。揺れ動く女性の心理ですなあ。

 月草に 衣は摺らむ 朝露に

     濡れての後は うつろひぬとも

一応の表面的解釈は、「月草でもって、衣を摺ってみよう。朝露に濡れて、色は移ってしまうかもしれないけれど」という感じ。裏解釈は、「やはり、月草で衣を摺って、彼の胸に飛び込んでみよう。彼の気持ちは、移ってしまうかもしれないけれど、それでもいいわ」という感じかな。決心した女性の気持ちということ。

『万葉集』の月草の歌は、まだまだあるけれど、皆さまの気持ちが褪せぬうちに、この辺で切り上げよう。

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2013年9月 7日 (土)

秋の月の漢詩 その二 「峨眉山月歌」

今回の秋の月の漢詩は、李白の「峨眉山月歌」。詩吟にも詠じられ、人口に膾炙にしてきた漢詩だが、中国の地名が多く、ちょっと分りづらい面もある。なぜ、先人たちは、この歌に惹かれたのだろうか。おそらく昔の人は、水墨画に描かれたものから、想像逞しく、日本的な感傷に浸ったのではないかと思われるのだが。それでは、その詩を見ていこう。

 峨眉山月 半輪の秋

 影は平羌江水に入って流る

 夜清渓を発して三峡に向う

 君を思えども見ず 渝(ゆ)州に下る

地名として、「峨眉山」、「平羌江」、「清渓」、「三峡」、「渝州」と、五つも入っており、これらの地の状況がわからないと、なかなか詩の本当の意味は把握しがたい。表面的な解釈は、「峨眉山に上っている月は半月で、秋の気配を感じさせる。月影は、平羌江に映り込んで、水と共に流れていく。夜に清渓を出発して、三峡に向かった。月に後ろ髪を惹かれながら、ついに見ることもなく、渝州に下って来た」という感じ。

これでは何のことか分らない。峨眉山は、中国四川省成都の西南にある標高三千メートルを超える山。平羌江は、峨眉山の東北を流れる揚子江の支流。中国の川は日本の川と違って、海みたいなもの。清渓とは、峨眉山の東南にある町。三峡とは、三つの峡の険しい所がある。最近は、ダムが作られて水没したとか。渝州とは今の重慶のこと。

この詩は、李白が二十歳の頃の作とされる。自然の雄大さ、悠久の時の流れ。それらは、人を、いつも見ているのに、人は一時的にしか見ることがてきない。人は、いかに、ちっぽけな存在か。そういうことを、この漢詩から人々は受け止めているのだろうか。

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2013年9月 6日 (金)

黒田官兵衛の足跡 その二 大移動(備前国福岡)

近江の黒田に居づらくなった黒田高政は嫡男の重隆と共に、西に下る。それが備前国福岡だ。現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡だ。なぜ備前国福岡なのか、はっきりとした理由は分らないが、縁者を頼ったようだ(*注)。この辺に、将来、播磨とつながる縁が感じられる。古代から、備前は播磨と関係があるからだ。経済的にも豊かな地であった。

高政は、再起を志し、この地で商いで財をなすが、最終的には失敗し、失意の中、客死する。その石塔が当地の妙興寺というところにある。2基の石塔の内、1基は、高政のもので、もう1基が重隆のもので、この寺は広大な寺領を誇る。実は、この妙興寺、播磨・備前・美作を治めた赤松氏ゆかりの寺なのだ。

重隆は、高政の亡くなった翌年に、重隆は、龍野を経て、当時、騒がしくなっていた姫路に入る。これは赤松氏との何らかの関係から出たのかもしれない。妻として、この地の豪族、妻鹿氏の娘を娶る。そして、父の生まれ変わりのように、嫡男・満隆を得る。これが、後、職隆と名前を変える。すなわち、官兵衛の父である。

黒田重隆は姫路に入ると、広峯神社の御師と出会う。御師とは、神主に仕える布教者で、御札(神符)を配って歩く者。重隆は、家伝の目薬に御札を付けて売ることを提案し、大量販売に成功する。実は、黒田の発祥地である湖北に、自生するカエデ科の「目薬の木」の樹脂から作る「玲珠膏」なる目薬を売り出したのだ。

これが評判になり、飛ぶように売れ、巨万の富を得た。これを裏付けるように、当時の広峯神社は、豪壮な土塀に囲まれていた。更に御師屋敷は、積み上げられた石垣の上に建っており、砦の役割も兼ねていた。いつの時代も、権力を握るには、経済的裏付けが必要と言うことを示唆している。

*注

福岡という地名は、後、黒田家が領有する筑前52万石に「福岡」という地名を名付けて、現在まで、その名は残っている。現在、岡山と福岡に交流があるのかどうか知らないが、地域興しのきっかけには、ドラマを通じて可能だろう。

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2013年9月 5日 (木)

秋の月の漢詩 その一 「静夜思」

今朝起きると、少し寒かった。温度計を見ると、18度だから、なるほどと思った。酷暑の、この夏には、朝でも30度を上回っていたから、ぐーんと下がった感じ。身体も、ついていくのが大変だ。でも、食べ物が美味しくなる時期でもある。そして、少し感傷的になる頃でもある。

そこで、しばらく、秋の夜の漢詩を取り上げてみたい。今回は、学生時代に漢文の授業で習った、『唐詩選』より李白の「静夜思」。学生時代は、なぜ授業に漢文があるのか、不思議だったが、今では、習ってよかったと思う。そう思うのは、半世紀近く経ってからのことだから、教育効果は時間がかかる。それでは、久しぶりに接する「静夜思」を鑑賞してみよう。

  牀前月光を看る

  疑うらくは是れ地上の霜かと

  頭を挙げては山月を望み

  頭を低(た)れては故郷を思う

解釈は不要だろう。楽府題(がふだい)の一つで、正式には、唐代に作られたので、新楽府の一つ。よって大変、物悲しい漢詩だ。それにしても、31歳で、この詩作をするとは。残念ながら、同じ年齢の頃、寝そべって月を見て、そういう思いはしたことがない。当時は仕事で忙しく、そういう感傷には浸れなかったが、今は李白の思いを多少理解できる。

 

 

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2013年9月 4日 (水)

黒田官兵衛の足跡 その一 黒田家のルーツ

今回から、軍師として、竹中半兵衛と共に、豊臣秀吉の天下獲りを支えた黒田官兵衛孝高(よしたか。幼名万吉)について、触れてみよう。ちょうど来年の大河ドラマでは、『軍師官兵衛』が放映されることもある。

黒田官兵衛は、軍師として秀吉の前半を支えた竹中半兵衛とは、同じ軍師と言っても、少し異なる。竹中半兵衛は、軍事・軍略研究家に近いが、黒田官兵衛は、自らの軍団を率いる立場にあった。そういう意味では、黒田官兵衛は、精神的には竹中半兵衛ほど純粋ではない。

特に主君の裏切りを経験してから、その思考は大きく変わっている。人の心を懐疑的に見るようになっている。またキリスト教に入信したのも、宗教的理由でなくて、他の大名より西欧文化の早期吸収が目的であった。目的の為には、手段を選ばない姿勢だ。もちろん、そういう態度は、おくびにも出さない。そういう意味では、主体性が強く、多面的思考ができて、味方にすれば心強いが、敵に回すと厄介な人物であったと推定される。

もちろん、当時の権力闘争の中で、生き残るには、止むをえなかった面がある。彼は、どちらかと言うと小心者だったと推定される。小心者と言うと馬鹿にしているのではないかと思われるかもしれないが、秀吉も家康も、皆、小心者だ。最終的な成功者の条件は、小心者と言えないこともない。それでは、官兵衛の辿った足跡を追ってみよう。

まず、その前に、黒田家のルーツについて記しておこう。黒田家の遠祖は第59代宇多天皇とされる。孫の雅信が、臣籍に降り、源姓を名乗り、近江佐々木の庄に住したため、佐々木源氏と呼ばれる。

その後、氏信の孫の宗清が旧伊香郡黒田村に住したことから、彼を黒田家初代とし、官兵衛は、それから9代目にあたる。現在の滋賀県長浜市木之本町黒田が発祥地。JR北陸本線木之本町駅西北。ここに黒田墓所がある。「黒田氏旧縁之地」の石碑と「黒田判官代・源宗清(宗満)」の墓石がある。宗清は黒田地区の長者であったようだ。

更に北に行くと、黒田神社がある。黒田氏が寄進した大鳥居等がある。さらに、観音寺には、官兵衛の墓と言われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があるが、どうも無関係の様である。何でも、官兵衛に結び付けたくなる気持ちも分らぬではないが。もっと行くと、長浜市木之本町田居にある樹徳寺(寿徳寺)には、黒田家の菩提寺として、小さな7基の石塔がある。また若き日の衣冠束帯姿の官兵衛像の掛け軸がある。

さて、黒田家は、この地で勢力を張っていたのだが、6代目の高政の時、足利将軍家内の紛争があったのだが、それに巻き込まれる。十代将軍足利義稙(よしたね)と従弟の足利義澄の政権争いだが、この時、高政は、義稙側について、勝利はするのだが、彼は、永正8年(1511年)、船岡山の戦いで、軍令違反をしたとして、将軍義稙の怒りに触れ、お家お取り潰しの危機に陥る。何とか、存続できたものの、居づらくなり、黒田を離れることになる。

*追記

これらの記事は、司馬遼太郎著『播磨灘物語』や、その他の官兵衛関係の著作、姫路の多くの研究者の話をベースに記していますが、私の個人的な印象も記しています。

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2013年9月 3日 (火)

手元が狂って、、、、

少し朝晩が涼しくなってきたので、冷蔵庫に保管してあった小玉スイカを食べることにした。若い頃は、大玉スイカを買ってきて、1日か2日で食したものだが、最近は、そういうわけにもいかないので、小玉スイカをよく買っている。カットされたスイカもいいが、生産地によっては、それほど甘くないし、長期保存もできない。そういうこで、小玉スイカ。

この小玉スイカも、少し前に購入して、冷蔵庫の野菜室を占領していた。夏場は、野菜の持ちも悪いので、カットしたり湯がいたものを冷蔵しているので、スペースがあったが、これからは、野菜室の野菜も増えていく。だから、スイカを取り出したわけ。

早速、包丁でカットしようしたところ、手元が狂って、指を切ってしまった。あ~あ、やってしまった。でも久しぶり。救急処理し血を止めてから、再挑戦。スイカの方は、行き過ぎておらず、いい感じで美味しかった。この時期のスイカも悪くない。でも、小玉スイカでも、最早、いっぺんに食べられなくなっている。少し食べ方の工夫をして、残りを食べきりたい。

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2013年9月 2日 (月)

池田輝政のエピソード その七

輝政のエピソードしては、概ね前回で終わりとなる。もう少し話がないでもない。例えば、輝政は、某庄屋に対して、年貢の減免措置の自筆の条を認めたものが残っているほど、農事に関心を抱いたというもの。

これは、以前、姫路城築城にあたり、莫大な資金を要し、年貢の2割増しの徴収を行ったことの反省があるかもしれない。だが、必ずしも、彼が農民に優しかったわけでもあるまい。基本的に、生かさず殺さずの政策は採られていたと想像される。その中で、飴と鞭をうまく使い分けたことだろう。

ただ、そういうことを割り引いても、織田、豊臣、徳川の三代を渡り歩いた輝政の能力と、それを支えた家臣団は高く評されねばならないだろう。胆力があり、志大きく、勇敢で、家臣を大切にしたから、池田家は生き延びることが出来たのだろう。

だが、池田家も、彼が没して、彼の長男・利隆が継ぐが、すぐに亡くなってしまい、利隆の子・光政は、7歳だったので幕府から体よく、鳥取藩に移封されてしまう。その後は徳川家代々の譜代の家臣たちが姫路に入り、姫路という要所を徳川家本体で押えることになる。

その結果、池田家の匂いは段々と消されていく。結局、池田家の伝統は、因幡藩、備前藩に残ることになる。姫路お城まつりでも催されていたが、備前鉄砲隊はあっても、姫路鉄砲隊がないことからも、そのことは明らかだ。

それはそれとして、輝政と言えば、姫路城を築城したことだけで記憶されている人も多いと思うが、これらのエピソードを踏まえれば、ドラマにしても面白い人物ではなかったか。ドラマなど制作して欲しいものだ。

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2013年9月 1日 (日)

『少年H』を読了

昨日、妹尾河童著『少年H』下巻を読み終え、通巻読了した。戦前、戦時中、そして戦後のことを少し記してあるが、時代の雰囲気をよく表していると思う。もちろん、戦前の状況は、もっと、どんよりとした息苦しい時代であったと想像できるが、それを、あまり見せないようにしておられる。辛いことも多かったと思うのだが、努めて、明るく振る舞っている。

印象としては、妹尾河童氏は、ある種の天才だと思う。もちろん、多かれ少なかれ成功者によくあることだが、自慢話的に記しているから、そう捉えられるのかもしれない。だが、そのことを割り引いても、彼は優れた人であることに変わりない。一連の彼の著作と合わせて見る限り、現象や人の観察力が鋭い。一瞬で、相手の特徴を捉えてしまう。

これはおそらく、彼の父親の影響が大きいのだろう。もちろん、現代の若いイラストレーターの方々も、もちろん、観察力に優れた人は多い。ただ彼の場合、相手の外観の把握だけに満足せず、会話を通じて、瞬間的に内面までも、踏み込んでいく。そしてそれを素早い行動につなげていくことが、彼を特徴づけている。割と相手に先入観を持たず飛びこんでいる。そういう行動様式が、更に能力を発揮させている。

しかしながら、戦後は、その感性の強さから来る反抗期からか、ノイローゼになり、自殺も考えられた時期もあったようである。自殺を実行したものの、生き残ったため、これは「生きろ」という天命を感じて、新しい人生を始められている。それが画家の小磯良平氏に、サブビジネスとして看板業をやっている画家を紹介され、彼の、その後の人生を決定づけていく。

彼の戦争体験を描いた、この書籍は、原爆マンガ『はだしのゲン』ほどメッセージ性は強烈ではないが、当時の時代の雰囲気を通じて、どのように自分の人生形成をして行ったかを、うまく描いておられると感じた。

*追記

この本が子どもたちにも、読みやすいかもしれない。この本には、全てルビがふってあるので、小学生低学年でも読めるかもしれない。ただ、時代の深刻さは、この本だけでは、実感として伝わりにくいかもしれないが、それなりに読ませる価値はあるだろう。

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