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2013年9月 4日 (水)

黒田官兵衛の足跡 その一 黒田家のルーツ

今回から、軍師として、竹中半兵衛と共に、豊臣秀吉の天下獲りを支えた黒田官兵衛孝高(よしたか。幼名万吉)について、触れてみよう。ちょうど来年の大河ドラマでは、『軍師官兵衛』が放映されることもある。

黒田官兵衛は、軍師として秀吉の前半を支えた竹中半兵衛とは、同じ軍師と言っても、少し異なる。竹中半兵衛は、軍事・軍略研究家に近いが、黒田官兵衛は、自らの軍団を率いる立場にあった。そういう意味では、黒田官兵衛は、精神的には竹中半兵衛ほど純粋ではない。

特に主君の裏切りを経験してから、その思考は大きく変わっている。人の心を懐疑的に見るようになっている。またキリスト教に入信したのも、宗教的理由でなくて、他の大名より西欧文化の早期吸収が目的であった。目的の為には、手段を選ばない姿勢だ。もちろん、そういう態度は、おくびにも出さない。そういう意味では、主体性が強く、多面的思考ができて、味方にすれば心強いが、敵に回すと厄介な人物であったと推定される。

もちろん、当時の権力闘争の中で、生き残るには、止むをえなかった面がある。彼は、どちらかと言うと小心者だったと推定される。小心者と言うと馬鹿にしているのではないかと思われるかもしれないが、秀吉も家康も、皆、小心者だ。最終的な成功者の条件は、小心者と言えないこともない。それでは、官兵衛の辿った足跡を追ってみよう。

まず、その前に、黒田家のルーツについて記しておこう。黒田家の遠祖は第59代宇多天皇とされる。孫の雅信が、臣籍に降り、源姓を名乗り、近江佐々木の庄に住したため、佐々木源氏と呼ばれる。

その後、氏信の孫の宗清が旧伊香郡黒田村に住したことから、彼を黒田家初代とし、官兵衛は、それから9代目にあたる。現在の滋賀県長浜市木之本町黒田が発祥地。JR北陸本線木之本町駅西北。ここに黒田墓所がある。「黒田氏旧縁之地」の石碑と「黒田判官代・源宗清(宗満)」の墓石がある。宗清は黒田地区の長者であったようだ。

更に北に行くと、黒田神社がある。黒田氏が寄進した大鳥居等がある。さらに、観音寺には、官兵衛の墓と言われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があるが、どうも無関係の様である。何でも、官兵衛に結び付けたくなる気持ちも分らぬではないが。もっと行くと、長浜市木之本町田居にある樹徳寺(寿徳寺)には、黒田家の菩提寺として、小さな7基の石塔がある。また若き日の衣冠束帯姿の官兵衛像の掛け軸がある。

さて、黒田家は、この地で勢力を張っていたのだが、6代目の高政の時、足利将軍家内の紛争があったのだが、それに巻き込まれる。十代将軍足利義稙(よしたね)と従弟の足利義澄の政権争いだが、この時、高政は、義稙側について、勝利はするのだが、彼は、永正8年(1511年)、船岡山の戦いで、軍令違反をしたとして、将軍義稙の怒りに触れ、お家お取り潰しの危機に陥る。何とか、存続できたものの、居づらくなり、黒田を離れることになる。

*追記

これらの記事は、司馬遼太郎著『播磨灘物語』や、その他の官兵衛関係の著作、姫路の多くの研究者の話をベースに記していますが、私の個人的な印象も記しています。

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