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2013年9月 7日 (土)

秋の月の漢詩 その二 「峨眉山月歌」

今回の秋の月の漢詩は、李白の「峨眉山月歌」。詩吟にも詠じられ、人口に膾炙にしてきた漢詩だが、中国の地名が多く、ちょっと分りづらい面もある。なぜ、先人たちは、この歌に惹かれたのだろうか。おそらく昔の人は、水墨画に描かれたものから、想像逞しく、日本的な感傷に浸ったのではないかと思われるのだが。それでは、その詩を見ていこう。

 峨眉山月 半輪の秋

 影は平羌江水に入って流る

 夜清渓を発して三峡に向う

 君を思えども見ず 渝(ゆ)州に下る

地名として、「峨眉山」、「平羌江」、「清渓」、「三峡」、「渝州」と、五つも入っており、これらの地の状況がわからないと、なかなか詩の本当の意味は把握しがたい。表面的な解釈は、「峨眉山に上っている月は半月で、秋の気配を感じさせる。月影は、平羌江に映り込んで、水と共に流れていく。夜に清渓を出発して、三峡に向かった。月に後ろ髪を惹かれながら、ついに見ることもなく、渝州に下って来た」という感じ。

これでは何のことか分らない。峨眉山は、中国四川省成都の西南にある標高三千メートルを超える山。平羌江は、峨眉山の東北を流れる揚子江の支流。中国の川は日本の川と違って、海みたいなもの。清渓とは、峨眉山の東南にある町。三峡とは、三つの峡の険しい所がある。最近は、ダムが作られて水没したとか。渝州とは今の重慶のこと。

この詩は、李白が二十歳の頃の作とされる。自然の雄大さ、悠久の時の流れ。それらは、人を、いつも見ているのに、人は一時的にしか見ることがてきない。人は、いかに、ちっぽけな存在か。そういうことを、この漢詩から人々は受け止めているのだろうか。

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