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2013年9月10日 (火)

黒田官兵衛の足跡 その三 姫路入りと官兵衛誕生

その後、重隆は、財を蓄えた後、赤松氏の一族の小寺氏に仕え、小寺家に養子に入っている。実は、赤松家は、家臣の浦上家と対立し、襲われていた。混乱はチャンスと考えたのかもしれない。

重隆から職隆は家督を継ぎ、小寺政職に仕える。彼は、民に慈悲深く、武勇に優れていたため、城下の民より敬愛されたと云う。そのためか、地元では、「チクゼンさん」の愛称で親しまれてきた。彼は、政職から小寺の姓を与えられている。そして、その養女の明石氏(*注1)を妻として迎える。

また、彼は姫路を愛した人として知られる。後に、秀吉が姫路城に入り、城下の民は動揺したが、自分は生涯、姫路を離れないと言って、安心させたと云う逸話も残る。彼は生涯を姫路に、こだわり、民との約束を守り、姫路を離れなかった。それほど民との信頼関係は厚かった。官兵衛も、多かれ少なかれ、そのような父親の影響を大きく受けているだろう。

1546年(天文15年)11月29日、小寺氏の本城・御着城の出城であった姫路館の城代になっていた職隆(もとたか)と母・明石氏の子として嫡男で幼名万吉が生まれる。この日は、一面の雪景色だったと云う。それが後の官兵衛孝高である(*注2)。

1561年(永禄4年)に、職隆は、姫山の上に、小城を築く。現在の西の丸のある鷺山にあったとされる。これが姫路城の始まりと云われるが、多分、それまでのものより拡張した平屋の武家屋敷のある砦のようなものであった。よって、細かく指摘すれば、まだ城というには、ほど遠い。正確には、官兵衛は姫路城で生まれたのではなく、後、姫路城になる地で生まれたと言える。ただ、多くの人は、姫路城で生まれたとしている。

幼少時の官兵衛は、母方の祖父で、近衛家の歌の師範でもあった歌人の明石宗和の影響を受け、武芸よりも歌道で優れた才能を発揮したと云う。しかし、父の職隆から、いさめられたり、書写山円教寺の圓満坊から「歌を捨て、世を平和にせよ」と諭されたことから、歌の道から遠ざかる。

やがて武芸に励み、上達していく。そのように黒田官兵衛は、何事においても、早くから聡明であった。彼は小寺政職(まさもと)に、若くして、文武に明るい、その才能を認められ、1561年、弱冠16歳で、破格の禄高80石の待遇で、御着城にて、政職の側近になり家老になる。それは家督を継ぐまで仕える。

現在、御着城址の一角には、黒田家廟所がある。黒田家が福岡に移り、一時は廃れていたが、江戸時代に黒田藩十代藩主斉清によって再建されたものだ。ここには、官兵衛の祖父・重隆と生母・明石氏を祀っている。

*注1

明石氏は、官兵衛14歳の時に亡くなっている。明石氏の死後、職隆は、寡婦であった母里氏、神吉氏を、後妻に迎え、それぞれ子を為し、後に官兵衛の力になっている。

*注2

官兵衛の出生については、いろんな噂がある。よって、上記の内容は、「黒田家譜」によるもの。

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