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2013年9月19日 (木)

黒田官兵衛の足跡 その四 官兵衛登場

黒田官兵衛は、永禄10年(1567)、22歳の時、小寺政職の姪で、志方城主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘(光姫(てるひめ))を娶る。彼は、この時代には珍しく、一夫一婦を守った。光姫は、官兵衛が生涯で、ただ一人愛した女性と伝わり、雅号「幸圓」の名でも知られる。

黒田家家譜には、「容色麗しく才色兼備」とある。また身体が大きく、おおらかな性格だったという。官兵衛のように、あれこれ考えを巡らすタイプには、似つかわしい女性だったかもしれない(*注)。

そして、結婚と同時に、父職隆が44歳で隠居し、彼に代わって、家督を22歳で受け継ぎ、姫路城主となる。この事情は、よく分からないが、主家・小寺政職の意向があったのかもしれない。翌年には、光姫は、姫路城で男子を産んでいる。すなわち嫡子・長政(幼名・松寿)である。

この頃、永禄12年(1569)、龍野城主・赤松政秀は、三木城主・別所安治と謀り、官兵衛が仕えている御着城主・小寺政職(まさもと)を挟み撃ちしてくる。赤松政秀は、兵一千余りを率いて、青山(姫路)に陣取る。

これに対して、官兵衛は、わずか三百の手勢で撃退する。ところが、更に、しつこく1ヵ月後に、兵三千を率いて、再襲来するのだが、今度は官兵衛は、たった兵百五十を率いて、赤松に壊滅的打撃を与える。これで官兵衛の名は世に轟く。この戦いを青山・土器山(かわらけやま)の合戦という。

その後、30歳の時、姫路城を預かる官兵衛は、明石氏の出の母親との関係で、明石氏が秀吉との関係を強める中で、秀吉より吹きこまれた結果、織田信長こそ将来を託すべき武将と見るようになる。それを如実に裏付けることが起こる。天正3年、織田・徳川連合軍が、最強の騎馬軍団として恐れられた武田軍を長篠の戦いで勝利したのだ。

だが、当時、播磨の武将は、毛利方につくか、織田方につくか揺れ動いていた。小寺家の家中も、なかなか評定が決着しなかった。小寺政職は、重臣たちを集めて、中央を制した織田信長と、昔から、つながりのある中国地方の太守・毛利輝元のどちらに付くか、喧々諤々とやっていた。武将たちの大勢は、毛利方に与することで一致。重臣たちも、そのようであった。

ところが、官兵衛だけは、信長の「天下布武」と標榜し、天下統一のビジョンの高さに感心し、また戦略的行動力の素晴らしさを評価し、毛利方とは比べ物にならないと強く意見した。官兵衛は、信長に、つくしかないと考え、主家・小寺氏に、織田への臣従を強く主張する。

これには、論理的だが、彼の強弁に抵抗した家臣たちも多くいた。彼は、あまりに頭の回転が速くて、結論を急ぎ過ぎるのだ。つまり自らの「知」を、あまりにも前面に出し過ぎ、空気を読むタイプでは、なかったようだ。もちろん、若かったということも、あるだろう。

それでも、結局、天正3年(1575)6月、小寺政職を何とか説得し、織田信長に帰属することを決める。官兵衛は、時代の流れに乗る必要を、少し焦りの気持も手伝って、切々と感じたに違いない。それには今までの常識を捨てなければならない。そういう思いを強くする。ただ、家臣団の中には、渋々従った者も多くいたと思われる。

*注

「光」については、以前、「軍師官兵衛の妻~光(てる)について」(2013.6.10付)として記したので、そちらを参照ください。

次回に続く。

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