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2013年9月 6日 (金)

黒田官兵衛の足跡 その二 大移動(備前国福岡)

近江の黒田に居づらくなった黒田高政は嫡男の重隆と共に、西に下る。それが備前国福岡だ。現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡だ。なぜ備前国福岡なのか、はっきりとした理由は分らないが、縁者を頼ったようだ(*注)。この辺に、将来、播磨とつながる縁が感じられる。古代から、備前は播磨と関係があるからだ。経済的にも豊かな地であった。

高政は、再起を志し、この地で商いで財をなすが、最終的には失敗し、失意の中、客死する。その石塔が当地の妙興寺というところにある。2基の石塔の内、1基は、高政のもので、もう1基が重隆のもので、この寺は広大な寺領を誇る。実は、この妙興寺、播磨・備前・美作を治めた赤松氏ゆかりの寺なのだ。

重隆は、高政の亡くなった翌年に、重隆は、龍野を経て、当時、騒がしくなっていた姫路に入る。これは赤松氏との何らかの関係から出たのかもしれない。妻として、この地の豪族、妻鹿氏の娘を娶る。そして、父の生まれ変わりのように、嫡男・満隆を得る。これが、後、職隆と名前を変える。すなわち、官兵衛の父である。

黒田重隆は姫路に入ると、広峯神社の御師と出会う。御師とは、神主に仕える布教者で、御札(神符)を配って歩く者。重隆は、家伝の目薬に御札を付けて売ることを提案し、大量販売に成功する。実は、黒田の発祥地である湖北に、自生するカエデ科の「目薬の木」の樹脂から作る「玲珠膏」なる目薬を売り出したのだ。

これが評判になり、飛ぶように売れ、巨万の富を得た。これを裏付けるように、当時の広峯神社は、豪壮な土塀に囲まれていた。更に御師屋敷は、積み上げられた石垣の上に建っており、砦の役割も兼ねていた。いつの時代も、権力を握るには、経済的裏付けが必要と言うことを示唆している。

*注

福岡という地名は、後、黒田家が領有する筑前52万石に「福岡」という地名を名付けて、現在まで、その名は残っている。現在、岡山と福岡に交流があるのかどうか知らないが、地域興しのきっかけには、ドラマを通じて可能だろう。

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