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2013年9月 8日 (日)

ツユクサと『万葉集』

朝夕涼しく、少し過ごしやすくなってきました。もっとも昼間は晴れの日は、相変わらず暑い。自転車に乗っていると、汗が滲み出てくる。でも、湿気は意外なほど感じない。そうした中、トンボが乱舞している。自転車を走らせていると、一匹のトンボが追いかけてきた。割と長い時間。そして、私の頭に一瞬乗った感じ。錯覚かな。それを思うと、少し笑ってしまった。どんな風だったのだろう。ミニチョンマゲが乗った感じかも。

それはそうと、みかんの木の下に、ツユクサ(露草)が満開だ。露が下りる頃に咲くという、このツユクサは、夕方には萎んでしまう。花は紫と白のコントラストに、どうしても惹かれてしまう。また、この草には、いろんな異名がある。まず、蛍草。蛍が飛び始める頃に咲くからだ。でも、今の時期には、蛍は飛ばない。確かに一部のツユクサは、今ほど繁茂はしていなかったが、夏には咲いていた。そういう時期が一致する頃もあるということだろう。

呼び名としては、その他に、月草、うつし花などがある。月草というのは、この花が朝日を受けて咲くのではなくて、夜明け前の月の光で咲くことから、そういうらしいが、相当早起きしないといけないので、実際には確認していない(笑)。また、うつし花というのは、布にこすりつけて色を移すこことから来ている。

さて、このツユクサ、『万葉集』には、月草として9首、歌にされている。583番、1255番、1339番、1351番、2281番、2291番、2756番、3058番、3059番だ。

ツユクサの特徴を示した歌が、次の2281番と2291番。まず2281番

 朝露に 咲きすさびたる 月草の

   日くたつなへに 消ぬべく思ほゆ

解釈は、「朝露を受けて咲き誇っていたツユクサが、日が暮れるにつれて、萎むように、日暮れと共に、私の心も、萎えていく」という感じ。

次に、2291番。

 朝(あした)咲き 夕(ゆうへ)は消(け)ぬる 月草の

    消ぬべき恋も 我(あ)れはするかも

解釈は、「露を受けて朝咲いても、夕方には萎んでしまうツユクサ(露草)のように、私は、今にも消えてしまいそうな儚い恋をしている」といった感じかな。

また、うつり草という観点からは、583番の次の歌がある。

 月草の うつろひやすく 思へかも

    我(あ)が思ふ人の 事も告げ来ぬ

解釈としては、「月草のように、気が移りやすいと思われているのだろうか。私が想っている、あの人からは、何の便りもないことよ」ぐらい。誰もが経験する思いですね。

その思いが募ると、情熱的な、次の、1339番、1351番の歌になる。

まず1339番は次の歌。

 月草に 衣色どり 摺らめども

    うつろふ色と 言ふが苦しき

表面的な解釈は、「ツユクサの花で衣を染めたいけれど、すぐ褪せてしまうと言われるのが辛い」という感じ。裏解釈は、「あの人の色に染まりたいと思うけれど、ほどなく彼の気持ちが褪せていくと言われるのが辛い」という感じ。揺れ動く女性の心理ですなあ。

 月草に 衣は摺らむ 朝露に

     濡れての後は うつろひぬとも

一応の表面的解釈は、「月草でもって、衣を摺ってみよう。朝露に濡れて、色は移ってしまうかもしれないけれど」という感じ。裏解釈は、「やはり、月草で衣を摺って、彼の胸に飛び込んでみよう。彼の気持ちは、移ってしまうかもしれないけれど、それでもいいわ」という感じかな。決心した女性の気持ちということ。

『万葉集』の月草の歌は、まだまだあるけれど、皆さまの気持ちが褪せぬうちに、この辺で切り上げよう。

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