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2013年10月13日 (日)

黒田官兵衛の足跡 その七 三木城攻めと姫路城明け渡し

官兵衛の方は、それまで小寺官兵衛孝高と名乗っていたが、官兵衛を裏切った小寺政職が御着城から逃亡したため、姓を小寺から黒田に戻している。当然のことだろう。最早、旧主に恩義はない。脱出後は、秀吉の勧めで、有馬温泉で湯治に努めるが、そうそう長く湯治もできず、まもなく秀吉の軍師となり、三木城攻めに従うことになる。

なぜなら、事態は逼迫していた。別所長治が、当初、信長方だったのに、広島に居た将軍・義昭の誘いに乗り、突如離反し、備前・美作に迫っていた毛利方と結んだためだ。更に、風見鶏的に、その周辺の領主が同調し、信長軍包囲網が作られ、秀吉は窮地に陥る。そこで、官兵衛の忠言により、とりあえず、秀吉は、一旦、書写山円教寺に逃れる。その後、宇喜多直家の裏切りや上杉謙信の急死などがあり、信長包囲網は崩壊。

逆に、信長勢は、態勢を取り直して、別所氏の三木城を攻め、取り囲む。そもそも別所長治は、播磨精神が強く、改革派の官兵衛に反発したとも伝えられる。いつの時代でも、保守派と改革派の確執はある。

別所氏は籠城して、抵抗は予想以上に激しかったが、七つの支城が落とされ、三木城は兵糧攻めで、2年近く持ちこたえたが、ついに兵糧が底を尽き、降伏を決意し、長治は自分の命と引き換えに、城兵と農民の助命を請う。

ついに三木城は落城。この戦いを後に、「三木の干殺し」と呼ばれるほど、凄惨な結果になっている。この戦いは、味方に被害が少なく、相手方に被害が大きいという手法で、信長が得意とした方法だった。そして、最終的には半兵衛弔いの戦いであったとも言える。結局、その後の小寺氏の御着城、三木氏の英賀城の落城まで、2年以上の時間を要してしまう。

秀吉は、天正8年(1580)、三木城落城後、そこを居城にしようとするが、官兵衛が中国攻めには姫路城が相応しいと、自らの城、姫路城を秀吉に明け渡す。彼が秀吉に説いた理由は、姫路は、備前、美作、因幡、但馬の4方面の道がつながっていて、海も開いていて、中国攻めにはベストの地の利があるとしたのだった。ただ、当時、姫路城は、城と言っても小さな城だった。

そして、彼は父の職隆と共に、妻鹿の国府山(こうやま)城に移り住む。この城は、標高98メートルの妻鹿の甲山にあった。別名、功山城とか妻鹿城とも言われる。官兵衛は、三木城、英賀城の落城後、秀吉から播磨国揖東郡など姫路近郊でで1万石の知行地を与えられ、大名になる。

次回に続く。

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