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2013年10月19日 (土)

黒田官兵衛の足跡 その八 毛利攻め前哨戦

官兵衛は、戦場に対する軍略・戦術に長けていたが、調略という外交にも優れていたことが分る。この点では、軍略・戦術のみ優れていた竹中半兵衛より、総体的に優れていたことは確かだろう。

秀吉の播磨平定にも、彼の調略で働いている。もちろん、全ては成功していないし、一旦、織田方になっても、別所氏のように再度裏切る例も多い。ここら辺は相手との信頼関係の築き方がものを言うが、戦国大名の生死をかけた揺れ動く心理を見抜くのは、なかなか大変なことである。

さて、官兵衛がかねがね接触し説得を続けていきた備前の宇喜多直家が毛利を裏切り、天正7年(1579)信長に臣従する。彼が、下剋上で手に入れた備前、備中、美作が織田方になったのは大きい。癖のある宇喜多直家を説得して寝返らせたことを、秀吉が喜んだのは言うまでもない。そういう意味では、官兵衛は外交能力も優れていたと言える(ただ、直家を説得できたのは、彼だけの力でもないことも確かだ)。

天正9年(1581)に、秀吉は官兵衛に命じて、本格的な姫路城改築をする。秀吉は、さらに毛利方だった宇喜多家を味方に付けたこともあり、この年に因幡の鳥取城を兵糧攻めにして、4ヵ月足らずで落城させた。この兵糧攻めは、官兵衛の献策で、若狭の商人に命じて、前年に収穫した米、麦、粟などを高値で買い取り、鳥取城に入ることを阻止した。

後に「鳥取の渇え殺し」として伝わるが、官兵衛が無駄な戦争を避けるための方策であった。鳥取城落城後は、蜂須賀正勝と共に、四国の長宗我部元親征討に行き平定する。蜂須賀正勝は、秀吉に早くから仕えてきた荒くれ者出身だが、現場でのコミュニケーション抜群で、秀吉の信頼厚く、また外交能力も確かだった。ここで秀吉方としては、最強のタッグが組めたことになる。

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