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2013年10月20日 (日)

黒田官兵衛の足跡 その九  備中高松城攻めと中国大返し

そして、いよいよ、織田方と毛利方の戦いは、最終局面に入って行く。天正10年(1582)には、官兵衛は、宇喜多家軍も率いて西進した3万軍の秀吉に従い、備中に進撃。それに立ちはだかったのが、毛利の最前線にある備中高松城。周囲は沼に囲まれ、難攻不落と言われた。

小早川隆景の配下で、城主の清水宗治は、秀吉の甘言に乗ることはなく、五千の兵と共に籠城し、秀吉軍も攻めあぐねる。さすがに官兵衛をもってしても説得は出来なかったようである。そこに秀吉から次なる策を求められた官兵衛は、最早、力攻めしかなく、水攻めを進言。堤防を築いて、川の水を引き込み、城を水没させるという大胆な手法だった。

梅雨で増水中の足守川を、堤防、約2.7㎞の長さ、規模は高さが約7m、幅の底部が約24m、上部が約10mで堰き止めた。工事期間12日。周辺の百姓を金に糸目をつけず使って、土を運ばせたと云う。

また、黒田二十四騎の吉田六郎太夫長利の案で、船に満載の大石を、船もろとも沈めたことが大きい。これが成功したのは、もともと水に浸かりやすい城という自然の地形に恵まれていたことと、雨期で大雨が降ったことが幸いしているという。

ところが、水攻めの最中の6月2日未明、信長が明智光秀に討たれるという本能寺の変が起る。光秀は、そのことを記した密書を携えた密使を毛利方に送るが、それを3日に、秀吉軍が捕え、真実を知ることになる。また別便で、茶人・長谷川宗仁からの報せもあったと云う。

秀吉に、その一報が届くと、秀吉は、ひどく落胆し、泣いて肩を落とすのを見て、官兵衛は、秀吉の膝を叩きながら、次のように言う。「さてさて天の加護を得させ給ひ、もはや御心のままに成りたり」と。

これを現代風に解釈すれば、「運が開けてきました。謀反人の光秀をお討ちになれば、天下があなたの手に入ってくるでしょう」と進言。ただ、実は、秀吉も、心の中では、そう思っていたらしい。彼一流の芝居をしたわけだが、官兵衛が、同様のことを言ってきたので、油断ならぬ奴と感じるようになる。

そこで、秀吉は、信長の死を隠して、高松城主・清水宗治の切腹を主張して、毛利方の外交僧・安国寺恵瓊を介して即座に和睦を結ぶよう説き、4日、清水宗治は、湖上で船を浮かべて自刃(*注)。織田方と毛利方の和睦が成立する。これには、毛利方にも、信長の死は伝わっていたものの、元就の遺訓により、毛利家は天下を望まないということがあったため、講和の道を選ぶという事情もあった。これは小早川隆景の強い主張があったためとされる。

5日、和睦の儀式と兵糧の徴収を終えると、毛利軍の追撃があっても妨害できるように、堤防を決壊させ、6日早朝から撤退開始。官兵衛は、交渉を通じて、誼を結んだ小早川隆景から毛利の旗を貰い受ける。

更に、これからの強行軍のの難儀を考え、味方の兵に、「秀吉様が天下を取られたら、大変なご褒美がある」という噂を流す。心理的に、軍を励ました。そして、信長の「弔い合戦」を大義に、8日には姫路に戻り、そこで休憩をという秀吉を、官兵衛は、気が緩むから駄目と説得し、その日の深夜に再び進軍し、13日には、山崎の合戦で、光秀を討ち破った。その時に役立ったのが、毛利の旗であった。毛利軍が秀吉軍に従っていると思った光秀軍の落胆は大きかったからだ。ここでも官兵衛の策は当った。

これを後に「中国大返し」と言う。通常10日間ぐらいかかる行程を7日で走破した。備中高松城から山崎までは、実に204キロメートルあった。このため、多くの金をバラマキ、食糧等の調達に使っている。この行程で多くの協力者が得られたのは間違いない。この一戦で、秀吉は天下人への階段を歩み始める。

*注 清水宗治の自刃

清水宗治は秀吉の用意した小舟に、兄の月清入道と乗り込み、舞の「誓願寺」を舞った後、辞世の句を詠んで切腹した。

 辞世の句

  浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の

    名を高松の 苔に残して

*追記

今回で、一旦、「黒田官兵衛の足跡」を終了する。中国大返しの時、官兵衛は36歳。彼は1604年に59歳で亡くなっているから、彼にとって、ちょうど働き盛りのピークであったかもしれない。彼は秀吉の天下統一が成るまで、軍事貢献していく。ただ、秀吉の天下統一は、企業で言えば中堅企業から巨大財閥を形成したようなもの。

そこでは、自然と、石田三成のような官僚が幅を利かすようになる。官兵衛の働きは、段々一つのポジションでしかなくなってくる。そこに不満が溜まっても不思議ではない。豊臣政権の危うさは、急速な天下の形成と共に内包されて行った。秀吉は、それに気付きながらも、適切な手は打てていない。最早、秀吉一人では、どうにもならないほど組織は肥大していた。

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