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2013年10月 7日 (月)

黒田官兵衛の足跡 その六 裏切りと苦難

今まで見てきたように、官兵衛は優秀な軍師だが、決して完全無欠な人物でもない。以前取り上げた長政の残した『掟書』は、官兵衛が日頃言っていたことを中心に、長政が文書として残したものだ。確かに『掟書』は、よくできているが、これは官兵衛の自省の意味も込められていると考えていい。彼も一人の人間で、その人生路には紆余曲折があった。

さて、当時、赤松氏や、その臣の小寺氏は、中国地方の毛利と気脈を通じていた。それは歴史的な流れから来るものだ。仕えていた小寺政職氏は、旧来の人間関係を大切にする方だったし、温情派だった。よって、毛利に誘われると、反信長に動く。残念ながら時代の流れは読めていない。ただ、いつの時代も、誰もが合理的判断を下すとは限らない。

そして、1578年、織田方の状況が怪しくなり、不利になってきたと見てとった、三木城の誇り高き別所長治を中心に大小の豪族が、突如、毛利方に寝返る。別所長治は、八千の将兵と共に、三木籠城戦を開始する。信長は、この籠城を受け、まず毛利討伐として全勢力を傾けた。

実は、三木城の幕下には、官兵衛の義父・櫛橋伊定(これさだ)や、神吉城、英賀城、高砂城、魚住城といった支城の12城主が集結していた。それに元々制海権を握っていた毛利軍は、三木城に、兵糧を供給していた。だが、秀吉は、支城を次々と落とし、補給路を断つ。これにより、三木城は飢餓状態。

しかしながら、三木城は耐えに耐え、簡単には陥落しなかった。ちょうど、それに呼応するように、摂津国有岡城主・荒木村重が信長に謀反する。村重は、一向宗のの門徒であったため、信長の政策に反発したものと考えられている。すなわち、本願寺の顕如や毛利輝元や足利義昭と通じていたのだと云う。

ところで、官兵衛は、戦国時代の人にしては珍しく、人の命を、むやみに奪うことを嫌った。そのため、いろんな戦いで敵方を説得することに邁進する。いわゆる調略である。調略の目的は、無闇な殺し合いを避けるだけでなく、農民を戦火から守ることでもあった。

官兵衛は有岡城に単身赴き、かつて親交があったこともあり、説得にあたるが、村重に格子窓一つの土牢に幽閉される。実は、主人の小寺政職は、荒木村重に、官兵衛を殺すように依頼していた。ただ村重は、以前から親交もあり、その能力を高く評価していたから、殺すにはしのびないとして、自分に従えと言ったが、官兵衛は、それを拒んだ結果、幽閉されたのだ。この長年仕えてきた小寺政職の裏切りは、官兵衛にとって、相当に、堪えたようだ。結果的に、その後の考え方や行動に微妙に影響している。

信長は、官兵衛が帰って来ないのを疑い、裏切ったと思い、官兵衛の人質の長政を殺せと命ずる。しかしながら、官兵衛の節義を重んじる性格を知っている竹中半兵衛は秀吉に上申したので、秀吉は、妻の於祢に命じて何とか長政を匿う。最終的に長政は、半兵衛の居城・菩提山城(現・岐阜県)に匿われたと伝えられる。官兵衛の方も、秀吉を裏切らず、忠義を信念で貫いた。

官兵衛が幽閉されている間、家臣の動揺を抑えるため、父の職隆が、当主の座に復帰し、家中をまとめ、窮地を救っている。その時の家臣団の結束を証明する連判状も残っている。妻の光の働きもあったという見方もある。それは動揺する家臣の妻たちをまとめた可能性があるが、それ以上ではないだろう。やはり父の職隆の人望が大きい。

天正7年(1579)、有岡城が落城寸前に、子飼いの忠臣たち(栗山、母里、井上)に救出される。しかしながら、1年以上閉じ込められていたため、歩くことが不可能な身体になった。これには、さすがの信長も、松寿丸の殺害を命じたことを恥じたと云う。

なお、竹中半兵衛は、陣中で病に倒れ、秀吉は京都で療養させるが、本人の「陣中で死ぬことこそ、武士の本望」という意向を受け、三木城を囲む陣地に戻ったが、官兵衛が救出される約半年前、1579年に没している。

秀吉は、彼の臨終に立ち会い嘆き、「これから貴公の後、誰に頼ればいいか」と言うと、半兵衛は、官兵衛でなく、「私の後には神子田正治がいる」と言い残したという。だが、神子田正治は、へそ曲がりの武者タイプで、決して参謀たりえない。半兵衛の意図は何だったのか。最早、大きな道筋は出来たので、戦略参謀は不要と言ったのかもしれない。それとも、、、、。

次回に続く。

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