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2013年10月21日 (月)

播磨の築造技術と戦争

先日、以前ブログ記事にした兵庫県立歴史博物館で開催されている「名城ふたたび/ようこそ姫路城」を観覧してきたが、当然のことながら、秀吉が修築を黒田官兵衛に命じた以後のことを重点的に展示してあった。

それでは、日本における築城技術はどのように発展したのだろうか。戦国時代までは、築城技術はなかったとされる。それを石垣の技術、瓦の技術、更に建築物の基礎である礎石とそれを補強する技術を融合させたのは、織田信長や豊臣秀吉だったと言われる。

ただ、そのペースになっているのは、播磨の技術が多く関与していると言われている。それほど播磨の建築技術は、当時、先端を行っていたということだ。例えば、『古事記』や『播磨風土記』に記されているように、古代から、石垣の技術は持っていた。瓦は、神社・仏閣の建築物に使用するため、輸入していたことから、独自に作る技術(姫路や三木)を持っていた。更にそこから発展して礎石を補強する技術も創造していた。もちろん伝統的な木工技術も備わっている。そこには、自然と多くの職人軍団がいた。

そこに目をつけたのが、豊臣秀吉だ。すなわち播磨には、城を建築するのに応えられる技術者、職人が多く存在したということだ。もちろん、彼らを一緒に仕事させることは多くの困難が伴ったことだろう。複合技術というのは、口で言うのは簡単だが容易ではない。その中で、彼らが、今で言う品質改善や品質向上をさせていった。そのため、現場に足を運び、何回も挫折をしながら、あるべき城郭へ発展させている。

もちろん、それは戦争から来る強い需要の賜物と言える。多分、秀吉のことだ。お金は、いくらでも出すから、何とかせよ、くらいのことは言っているだろう。戦国時代を勝ち抜き生き残るには、城は欠かせない。背に腹は代えられないのだ。いかに防御し、いかに攻めるかの巧拙は戦いに大きな影響を与える。そこから築城技術は発展していく。

要するに、戦争に伴い、技術力はアップしている。残念ながら、いつの時代も、文明の柱は戦争と共に発展していく。今使っているインターネットも米国の軍需産業の成果ということを考えれば、それは今も変わらない。

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