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2013年11月30日 (土)

続・黒田官兵衛の足跡 その五(完) 乱世の終わりと官兵衛の終焉

天正19年(1591)、秀吉は、かつての信長の構想の一つ、朝鮮支配を企む。そして、明までも支配するという壮大な構想であった。これについては前年、聚楽第で、朝鮮使節に引見し、明への道案内を求めたところ、拒否される。これで、まず朝鮮の制圧を考えたようだ。朝鮮出兵のため、官兵衛に命じて、出撃拠点の肥前・名護屋城の縄張りをさせる。

そもそも秀吉は、信長の構想を引き継いで、なぜ大陸進出を試みたのだろうか。信長の時代に、キリスト教の宣教師たちは、明の力を利用して日本を植民地にすることを考えていたと云われる。ところが、来てみると、当時の日本は世界でも、稀に見る軍事国家。それで、植民地化は諦めた。

そして逆に、信長に、世界の状況を教え、日本が明や朝鮮を支配すべきだと吹き込む。この辺が、彼ら宣教師の強かさだ。彼らにとっては、どちらが勝っても、漁夫の利を得られる。信長が、この構想に乗ったのは、日本には領地も少なく、臣下に成果を渡す領地も少ない。そこで海外に活路を求めたと言うのが一般的な解釈。

だが、信長は光秀の討たれたため、本当のところは分らない。結局、秀吉が、中途半端に彼の意志を引き継いだというのが実情ではなかろうか。

文禄元年(1592)、官兵衛は、朝鮮外征軍の軍監となって出兵する。ただ病気のため、一旦、帰国する。この頃の官兵衛は心身共には、休む間もなく、次々と戦いに行かされる、かつての光秀の心境に近かったかもしれない。また、これまでの働き過ぎが高じて、少しずつ、彼の身体は蝕まれ始めていたかもしれない。

文禄2年(1593)、官兵衛は軍監として、再度朝鮮に渡り、文禄の役に参戦し、倭城の縄張りや亀甲車の設計に携わる。ただ三成たちは、官兵衛を軽視し、無視しており、都合の悪い時だけ相談に来るという勝手な奴で、逆に無視した所、三成は秀吉に讒訴するという愚かな行為に出る。多くの武将たちに嫌われた原因だ。

官兵衛は、止むなく、その弁解に朝鮮から許可なく帰国するのだが、勝手に帰国したことから、かえって秀吉の怒りを買う。頭を丸めて謹慎し、その後「如水円清」と名乗る。まあ、ここら辺は、キリシタンであったのに出家するという、いい加減さ。彼が真剣なキリシタンでなかったことが、ここでも分る。また秀吉も、今まで功の多い官兵衛の扱いには困ったようである。

ただ、秀吉が軍律を持ち出して、怒った背景には、大きくなり過ぎた豊臣政権の中で、いつしか、秀吉と官兵衛の間に隙間風が吹いていたことが原因だろう。それは秀吉に官兵衛が天下を望める力を持っていたことを恐れたことと、彼がキリシタンになったことが、海外勢力と組んで、別の野心があるのではないかという疑惑を強めていたからだ。

他方、官兵衛の心も完全に秀吉から離れ、秀吉亡き後の天下の形勢を考えるようになる。ただ、彼が自ら天下を彼の代で取ることを考えたかは不明。だが、長政に天下を取る器ではないと判断していたようだ。そうなると、自分で天下を取って、長政に渡すしか方法はないと判断したのではないか。

ところが、慶長二年(1597)、官兵衛も尊敬した、賢人・小早川隆景が亡くなる。ある意味、彼の唯一の理解者であった隆景が亡くなることで、若干の無常観を感じたかもしれない。この辺が文武両道の武人の一種の弱さとも受け取れる。人間の寿命を感じて、心は揺れ動く。

慶長3年(1598)、秀吉死去。朝鮮外征中止、引き揚げへ。

慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成の対立が深まる中、黒田家は、長政が、家臣を率いて家康の東軍に付く。官兵衛の指示であった可能性が高い。これは真田家の両天秤にかける、やり方と似ている。すなわち、官兵衛は、別の行動をとる。これには、東西どちらが勝っても、国が混乱すると見たのかもしれない。

当初、大勢は西軍優勢であった。それを両者互角に誘導したのも官兵衛と言えなくもない。西軍から裏切り者が出ることで、全体をバランスさせようとしている。それに乗じて、漁夫の利を得て、天下獲りのチャンスが巡ってくるかもしれないと読んだのかもしれない。

同年9月、関ヶ原の戦いを知った官兵衛は、中津城にあって兵を募り、浪人や百姓ら9千人ほど率いて、「九州の関ヶ原」と言われる石垣原の戦いなどで勝利。その後も快進撃を続け、九州の大半を制圧するが、官兵衛の予想に反して、関ヶ原の戦いは、たった1日で決着してしまい、家康の命に従い停戦する。初めて、官兵衛の目論見が狂ったことになる。ここに、あわよくば天下を握るという夢は、儚く潰える。

その後の官兵衛は、朝鮮外征時に、健康を崩しがちであったことや、天下は定まったという判断の下、官兵衛は、家康の要望に対して、あっさりと撤退をしている。ここら辺は、天下奪取に執着した感じはない。改めて、官兵衛は文化人であったことがうかがえる。

戦後、家康は、官兵衛には、一切の恩賞を与えなかったと伝えられるが、これはむしろ官兵衛の方から辞退したという話もある。徳川家は、後に、黒田家に深く感謝したというところから、家康が恩賞を与えなかったという話は、違うかもしれない(*注)。結果的に、長政には、論功行賞として、筑前52万3千石を与えた。

慶長9年(1604)3月、京の伏見屋敷で病没。享年57歳。病が重くなり、長政に「我が死期来二十日の辰の刻ならん」と告げ、次の辞世の句を与えたと云う。

  おもひおく 言の葉なくて つゐに行

      道はまよはじ なるにまかせて

ここには、やり切って思い残すことは何もない、という感じがする。悔いのない人生を終えたということだろう。それは官兵衛の実感であったかもしれない。

*注

徳川幕府は、かつて豊臣の臣下で、その後、大名になった外様大名の取り潰しに精を出すが、黒田家は対象にならなかった。むしろお家騒動などの危機があった時に、手を差しのべているくらいだ。家康から、何らかの申し送りがあったものと推定できる。

(了)

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2013年11月29日 (金)

2013年11月、株式市場はバブルに突入

予想されていたことだけれど、株式市場がバブルに突入した感じだ(*注)。まだ、しぱらく上げ続けるのだろうか。輸出は確かに円安効果で伸びているようだが、実際の中身を検証すれば、大したことがないかもしれない。また円高時に、海外進出した企業が一部国内回帰の方向にあるが、全ては戻らないだろう。

国内に目を向ければ公共投資を除いては、経済は低迷している。一般消費の基調自体は、それほど悪くはないが、良くもない状況が続いている。それに対して、株価は、何を根拠に上げているのだろうか。もちろん、株価は現況経済とリンクはしない。だが、来年4月から消費税も上がるから、景気を冷やす要因はあっても、先々上げる要因は見当たらない。

米国経済も、それほど良くはない。結局、金融緩和による金余り資金に発展途上国からの引き上げ資金や逃避資金が加わって、株式市場に流れ込んでいるということだろう。こうした資金は、すぐ、また別の所に移動する性格のものだから、バブルはいつまでも続かないから、いずれバーストするだろう。

これから新規投資することは将来、高値つかみの塩漬けになるリスクを伴う。短期投資で儲けることも可能だが、一般投資家は静観した方が賢明だろう。商売と同じで、利は元にあり、ということを忘れてはならないだろう。

*注

株価を上げている銘柄を精査すれば、それは自ずと分るだろう。安倍政権が発足時、その期待から株価を上げたのより、内容が悪いからだ。

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2013年11月28日 (木)

年相応のスポーツ

最近は、高齢者のも元気な方が多いということで、その具体例が紹介されることが多い。例えば90歳を超えてフルマラソンに参加とかで、実年齢を思わせないことで、皆が感心するというもの。でも、これらの人々は例外だろう。

90歳まで行かなくても、前期高齢者クラスでも、身体は、年相応に劣化している。それを忘れて、無理をすれば、却って体を損なうというものだ。個人差はあるけれど、年相応のスポーツや運動が求められる。

また、歩くのも速足がいいと一般に勧められるが、それさえも万人向きではない。個人の健康状態は様々。マスコミは、あまり特別な人の紹介をしないことだ。ただ、言えることは、家に籠らないように工夫する必要はある。

無理をしてでも、毎日出かける。犬との散歩もいいが、それでは結局、犬に拘束されることになる。やはり女性と同じく、ショッピングに行くのがいい。別に何も買う必要もない。世の中に何が流行し、どこに人が集まっているのか、関心を持つだけで、結構歩くことになる。

それはダラダラ歩きになるが、それが心身をリフレッシュすることになる。健康になるという強迫観念に駆られて、無理やりスポーツをやるよりいいだろう。

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2013年11月26日 (火)

『隠﨑隆一展~事に仕えて~』に行く

山陽百貨店で、『隠﨑隆一展~事に仕えて~』が開かれていたので、見てきた。隠﨑隆一氏の作品は、確か三木美術館で初めて知った。長崎県出身、岡山県在住の作家だ。彼のデザインは独特だ。何か遊んでる感じ。そして、展覧会のパンフレットを後で読むと、彼の考え方が記しあって、なるほどと感じた。それを転記すると次のようだ。

「隠﨑隆一にとっての作陶は、土に触れ、水を感じ、火と戯れる。たったそれだけのコト。特別なことをしようとも考えないし、またしない。その時々に感じたことや思いをカタチにしているだけだ」と来る。これを読むと、流風が子供時代、泥んこ遊びをして、土を捏ねて、作っては壊ししていたのと似ている感じ(笑)。

更に続けて彼は言う。「人間が創り出すものは、宇宙の創造物と比べると、比較にらないほど稚拙なものである。いくら頑張ってみても、土も水も火も・・・何一つ創り出すことはできない。全て自然から戴いたもので遊ばせていただいている」と。確かに。作陶に限らず、人間自体、大自然の中で遊ばせてもらっているのだろう。

「私の作品は、土塊(つちくれ)と遊んだ心の記録であり、時間とともに幾重にも変化してきた。「事に仕える」とは、自然に対する畏敬の念とあるがままの心を表現するコト。自然の摂理に従順であること、魂に従順であること。これが私に与えられた使命であり、仕えることです。「事に仕えて」は、過去から現在、そして今なお留まることなく流れる私の心の姿に他ならない」と締めている。

彼の感じ方や考え方は、同感できるし、多くの方の賛同を得るものだろう。この作家を好きになりそう。でも、陶器類は実用に値しないものは買わないので、せいぜい展覧会で楽しむだけになるだろう。ただ、今後、彼の作品を見る時は、彼の考え方を頭に入れて鑑賞したい。

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2013年11月23日 (土)

続・黒田官兵衛の足跡 その四 秀吉の天下統一と官兵衛の心離れ

天正16年(1588)、官兵衛は、中津城を築城している。姫路から、多くの職人や町人が移り住んだ。中津に城を築いたのは、航路を確保するためだった。その目的は、まず京都、奈良の情報が、より速く的確に情報が得られるルートの確保だ。もちろん商業的意味合いも強い。しかし、それも、商流による情報の入手を確かなものにするためだった。物の流れは、あらゆる勢力を反映して先に動くからだ。

天正17年(1589)、ある日、天下人になった秀吉は、お伽衆たちに、次のように問う。「わしが死んだら、一人だけ天下を得るものがいる。それが誰か分るか」と。近臣の者たちは、広大な所領をもつ大大名、例えば、徳川家康、前田利家、毛利輝元など、次々と挙げるが、秀吉は首を振る。

そして言うには、「それは足の不自由な奴よ」と。官兵衛は、有岡城に土蔵に幽閉されて、足が不自由になっていた。近臣の者たちが、訝って聞くと、秀吉は「あ奴は、知力に優れ、人使いもうまい。官兵衛が、その気になれば、存命の内に、天下を取ろうとすれば取れるだろう」と言ったと云う。

周囲は、まさかと思ったが、秀吉は彼より十歩も二十歩も先が見える官兵衛に嫉妬したのだった。官兵衛は、才走るところがあって、秀吉の問いに、何でも即答し続けた。それが裏目に出たのだ。そのような官兵衛の危うさを、中国攻め以来、交流のあった小早川隆景は懸念して官兵衛に忠告していた。隆景については、以前にも記したが、中庸を重んじた人である。それに比べて官兵衛のやり方は、随分と危ない世渡りと感じたのかもしれない。

さて、秀吉の戯言とも言えるこの話を伝え聞いた官兵衛は、身の危険が及ぶことを懸念して、黒田家を守るため、急遽、隠居願いを出し、五月に、認められ、家督を長政に譲り、出家し、「如水」と号するようになる。官兵衛44歳の時であった。

天正18年(1590)、西日本を平定した秀吉は、北条家の小田原攻めを開始する。官兵衛は、黒田家が、この戦いに参戦していないのに、彼だけは連れて行かれた。だが、彼は積極的な、これまでのような進言は一切していない。戦争の仕切りは、石田三成等が中心になって行っている。

さて、この小田原攻めは秀吉が仕掛けた、関西で言う「いちゃもん」だ。これは、後、家康が、豊臣家に仕掛けたことと同類だ。北条家に落ち度はないが、難癖をつけて、戦争を仕掛けた。秀吉軍は、22万の大軍で押し寄せ、北条氏の支城を次々と落としていき、ついに小田原城を取り囲む。

だが、小田原城は堅城で、なかなか落とすことはできない。三成が、かつての官兵衛の戦いを真似するが大失敗。多くの戦死者を出している。何かが足りないのだ。官兵衛は、生涯、全戦全勝だが、それには十分な裏付けを取って戦っている。形だけ真似ても、成功しないとことが、よく分かる。

最初は、鷹揚に構えていた秀吉も、痺れを切らし、ついに官兵衛に相談する。官兵衛は交渉相手に家康を推薦するが、家康が断固として受けないため、止むなく、お鉢が官兵衛に回ってくる。秀吉は、最初から官兵衛を交渉担当にしたかったのだろうが、この辺は、お互いの気まずさから来るものだろう。

北条家は、この理不尽に強く抵抗するが、秀吉の依頼で派遣された黒田官兵衛の「勝ち目がない」との必死の説得で、取り囲まれて三ヶ月後に、北条氏政・氏直は降伏する。官兵衛は、度胸宜しく無刀で、敵陣に何回も乗り込み、ついに説得したのだった。降伏を決意した北条氏政・氏直は官兵衛に感謝して、名刀「日光一文字」と名著『吾妻鏡』を贈ったと云う。この小田原城落城後、東北を攻略し、秀吉の天下は定まる。

名刀「日光一文字」は、福岡一文字派の傑作で、北條早雲が日光二荒山(ふたらさん)より譲り受けた北条家にとっては宝物。それを礼とは言え、手放すのだから、北条氏政・氏直が官兵衛の説得を高く評価したことが判る。

これにより秀吉の天下統一が成る。ところが、今回も、官兵衛の功は非常に大きいのに、秀吉は全く評価していない。ますます、官兵衛の心は離れていく。なお、北条氏の旧領は国替えで、徳川氏に与えている。秀吉にすれば、遠ざけたつもりだろうが、豊臣政権を弱める要因になる。

次回に続く。

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2013年11月22日 (金)

秋の明石と神戸元町を散策

寒くなって冬の様相だが、明石と神戸元町を、うろうろしてきた。まず明石。明石公園は、いい感じで紅葉。この公園は、いつ来ても好きだ。そこそこの規模で、ゆったりできる。すがすがしい空気を吸いながら、紅葉狩りしながら歩いて行く。そして、明石市立文化博物館へ。今回展示されているものには、あまり関心がなかったが、折角だから入場。

今回の企画展は、「発掘された明石の歴史展 明石の古代」というもの。いろんな遺跡から発見された物か展示してある。一般的な須恵器や土器、、瓦などが展示。明石的には、イイダコ壺が展示されていたから、昔から蛸漁が盛んだったことが分る。後は、少し珍しい、木橋、木製車輪、木製櫃などがあった。昔の生活の一面に少し触れることができた。

そして、神戸元町に移動。現在、神戸では「神戸ビエンナーレ2013」が開催中(12月1日まで)。本来無料の催しと思うが、全会場セット券は1800円もする(ただし、乗船券付き)。乗船券付きとしたのは、海上アートを見てもらうためらしい。

画廊などを訪問して、絵画等見て回ってもお金はかからないが、ここはかかる。ちょっと変な感じ。これは場所代を取る神戸商法の一環だろう。ただ、最近は、各地もビエンナーレとして、お金を取る方向にある。すなわち客寄せパンダに金を取るやり方だ。

ただ、これを全面的に否定するつもりはない。無名の作家たちによるアート空間を楽しむために、来場する人たちが、それに対して、報酬を払うのは、新しいビジネスシステムと捉えられないこともない。でも、やはり、どこか、ひっかかるものがある。

ということで、今回は無料で展示してある元町高架下(モトコー)に行った。ここでは、ペインティングアート展が開催されていた。皆さん、思い思いに大胆に描いておられる。さらっと描いたもの、じっくり描いたもの、様々だ。モトコーの端から端まで歩くと結構な距離だが、それを忘れさせてくれる。

その間に、いろんな店があるものだと気づく。この催しは、多分、そういう狙いがある。以前、商店街の空き店舗にアートを展示して活性化に寄与すると聞いたことがある。でも、それは年間を通じて定期的に開催される必要があるが、実際はどうなのだろうか。

さて、その中で、ペインティングアートとは異なる絵画展が、一つあった。それは「まちなかアートギャラリー」の一つらしい。Pocket美術函モトコー(モトコー2)に展示してあった新垣優香さんによる「RAINBOW ROSES(奇跡と無限の可能性)」というもの。鮮やかな赤の色彩が否でも応でも目に飛び込んでくる。

沖縄から来たという新垣さんが積極的に説明してくれる。沖縄の伝統工芸紅型(BINGATA)をベースにしながら、彼女の新しい感性による付加、りんご、バラ、蝶という象徴を重ねて描かれている。赤いのは沖縄の太陽のためらしい。他に、沖縄の海と空を連想させる深い青の作品も有った。こちらにいれば、決して描かれることはない感じだ。沖縄という地域の工芸に彼女の新しい時代の感性を付加したものと言えるだろう。

そして、新垣さんの若く元気な明るさには、少し眩しい。作品と作者はリンクする。ちょっと応援したくなる(彼女のブログRYUKAをリンクしましたので関心がある方はご覧ください)。若いっていいなと思う。ただ、今の作品は、それはそれでいいが、新しい構図を取り入れて、次のステップに進んで欲しいものだと思う。でも、少し、楽しい感じで、姫路への帰路についた。

*追記

その他にも、元町、三宮の百貨店に寄ってみたが、バーゲンを催しているのか、平日なのに、どこも人が多かった。

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2013年11月20日 (水)

赤穂義士祭に行こうか

毎年、12月14日に、赤穂市では、「赤穂義士祭」が催されていることは知っているが、混雑するだろなと思って、いつもパスしている。以前にも記したが、赤穂にはオフシーズンに訪れている。もちろん、その時には何の催しもないが、静かに散策できる。

でも、今年は初めて「赤穂義士祭」に行ってみようかと考えている。今年で110回目だそうだ。花岳寺と大石神社では、それぞれ追慕法要と追慕大祭を中心として、様々な文化的催しがある。

そして、何と言っても忠臣蔵パレード。大石神社近くの大手門をスタートし、花岳寺近くの本部までパレードする。俳優の松平健さんも、大石内蔵助役として、義士行列に特別出演されるらしい。

小学生による金管バンドパレード、第29代赤穂義士娘による義士娘人力道中、特別編成の義士行列や市民参加の様々のパレードが見られる。また各所で、東映剣会殺陣(大手門前交差点にて12時20分よりと、義士祭本部で13時15分より)もある。

その他には、忠臣蔵ゆかりの市町や近隣の市町による「忠臣蔵交流物産市」(物産市とふれあいステージ。会場は赤穂城跡三の丸の武家屋敷公園。午前10時から午後4時まで)も開かれるとのこと。また近くで、時間は分らないが、彦根鉄砲隊奉納演武もあるそうだ。

一度訪問しておこうか、話のネタに。JR播州赤穂駅下車。

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2013年11月19日 (火)

食産業の改革が求められる

子供の頃、両親は「子供は外食をしてはならない」と決して行かせなかった。家庭の経済的事情もあったと思うが、一般に流通している食材自体、怪しい物が多かった。例えば牛肉と称して馬肉が売られていたり、それは、まだいい方で犬の肉が流通していたと云う。

確かに、子供時代に食した肉は、あまり美味しくなく、変な食感だったことが度々あった。今は、当時と比べたら、格段に食材は改善されていると思うが、食材業者や流通業者の中には怪しい食材を作ったり流している。

それは食材加工技術の向上や冷凍技術の向上があるからだろうが、彼らが食材を扱うセンスは今も昔と変わっていない。それらを品質チェックするシステムが無いからだ。つまり基準がない。業者の善意に任せられているのだ。果たして性善説でいいのかどうか。

さらに、それらを調理して料理として販売する外食産業や中食産業も、その流れの中にある。食材偽装と世間は騒ぐが、外食産業や中食産業にすれば、自分たちだけでは、どうにもならないという認識があるかもしれない。

だが、時代に合わせて自ら業界を改革して行かないと、時代遅れの外食産業や中食産業になってしまう。それにはゲリラ的な安売り外食店や中食店を排除する必要がある。なぜなら良心的な外食産業が、彼らに駆逐されているから。

その結果、消費者は変な物を食べさせられている。消費者にとっては、安全で納得のいく食材が加工されて提供されることがまず第一だ。

そう考えると、総合的に見て、全ての食産業も今までのような甘えは許されない。他業界から、いい加減な業界と揶揄されるぐらいなら、国と業界で、他の製造業やサービス業と同じく、品質管理制度や品質保証制度を確立する必要がある。

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2013年11月18日 (月)

もうすぐ姫路食博

今年も恒例の「姫路食博」が催される。兵庫県下の各地の御当地グルメと播磨近辺のグルメが一堂に集結する。あちこち旅行できない人には便利な催し。また出展者も、それぞれの地域のグルメをアピールできる。B-1グランプリとは、また違った趣がある。場所は、いつもと同じで、大手前公園特設会場。

と同時に、今年は「全国ご当地おでん・地酒サミット」が開かれる。姫路おでんは、ショウガ汁で食することで有名だが、全国のいろんな食材のおでんと食し方が披露されるのだろうか。お酒の方は、姫路市は播磨の地酒の振興に努めている。播磨は日本酒の起源発祥の地。力が入るはずだ。実際、播磨のお酒は、お酒をあまり飲まない人でも美味しい物が多い。

日程は、「姫路食博2013」の方が、11月22日午後1時からスタート。午後5時までの予定。23日・24日は、午前10時から午後5時まで。小雨決行とのこと。「全国ご当地おでん・地酒サミット」の方は、日程が少し違って、22日と24日のみ。これは午後8時まで営業とのこと。

なお、天気予報によると、3日間ともに、晴れのち曇り。催しには、まずますの天気。今の時期は、いい方かもしれない。ただ日中も気温は上がらず、冷えると思うので、暖かい服装で出かける必要はある。

*2014年11月21日追記

今年も、「姫路食博2014」が開催される。内容は例年と同じ。期間は11月22日から24日まで。また、同時開催として、「第2回全国ご当地おでん・地酒サミット」も開かれる。参加する地域は、姫路以外に、静岡、青森、沖縄、小浜、小田原、長洲、舞鶴、韓国だとか。来年からは、各地、持ち回りとなる予定とか。場所は、いつもの大手前公園。

なお、同じく11月22日から、同じ場所で、「第24回ひめじ植木いち」も始まる。こちらは11月30日まで。

*2015年11月9日追記

今年も、例年通り、「姫路食博2015」が開催される。日程は、11月21日、22日、23日の3日間、大手前公園特設会場で催される。せかいのおでんが集合する。お酒横丁もあり。今年は、「姫路城友城プロジェクト」として、「鳥取グルメ 鳥取和牛ホルモンやきそば」が参加するとか。

また、ゆるキャラも大集合する。「しろまるひめ」、「かんべえくん」に加えて、「もりりぃ」、「ひまりん」、「ふくみみ福ちゃん」、「さっちゃん」、「しょうちゃん」が登場する予定。

なお、21日から29日まで、「ひめじ植木いち」も例年通り、開催される。

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自転車の左側通行、やっと法制化

年末の道路交通法の改正で、やっと自転車の左側通行が法制化されるようだ。つまり「自転車が通行できる路側帯を道路左側のみとし、違反すると3ヵ月以下の懲役又は5万円以下の罰金」となる模様。

警察が、どれくらいチェックできるかは、車の違反同様限界があろうが、自転車を乗る者に対して、それなりのプレッシャーはかかるというもの。違反して罰金を取られたら生活に響くだろう。今は、ルールを守らず、右側通行する人が多いから、そういう人は減ることを期待。大体、こちらはちゃんと左側で自転車走行しているのに、対面でやってこられると、いつも若干の恐怖を感じる。

それを若い人たちだけでなく、主婦とかも多い。主婦の後を子供が来る時は、もっと大変だ。だから、彼らがやってくる時は、ルールを守っている方が自転車を一時停車させたりして、おかしなことが起こっているから、法制化は当然だろう。

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2013年11月17日 (日)

心を放つということ

人間と謂うものは、何かに追い詰められて心が硬くなると、何も見えなくなる。心全体がダイヤモンドのように硬くなってしまうと、自分を見失い前に進めなくなる。

でも、人間は弱いもの。時として、心が硬くなってしまうかもしれない。でも、それは一時的なものにしなければならない。それはできるだけ短い方がいい。囚われの心から脱し、心を開放すれば次が見えてくる。

心の芯はしっかりしつつ、心は自由自在。

*追記

沢庵和尚は、心の有りようを次のように言っている。

  水上の胡蘆子(ころし)を打つ、

  捺着すれば即ち転ず、と。

胡蘆子とは、瓢箪のこと。捺着とは、手で押すこと。うまい例えだと思いませんか。

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2013年11月16日 (土)

続・黒田官兵衛の足跡 その三 豊前の国守に

天正14年(1586)、秀吉は関白として、指揮するため京都・聚楽第に移る。官兵衛も、従五位下に叙せられ、勘解由次官に任命されている。簡単に隠居生活とは行かなかったようだ。

この年、秀吉は島津討伐を決意する。そこで、またまた官兵衛を、こき使うことになる。官兵衛を軍奉行に任命し、秀吉の名代として、九州に向かわせ、九州攻めの足がかりを作らせることが目的だった。この時、秀吉も、さすがに感ずる所があったのか、九州平定後は官兵衛に一国を与えると、やっと明言する。

天正15年(1587)、島津との戦いに勝ち、黒田官兵衛は、九州征伐の論功行賞で豊前6郡12万石の国守になる。やっとなれた感じ。だが、秀吉の約束の一国ではなかった。やはり官兵衛に大国を与える不安が秀吉にあったと推定されている。

官兵衛は、あまりにも自分の能力を、はっきりと発揮しすぎたため警戒された。ある意味、味方に素直すぎるのだ。組織内の嫉妬を理解できなかったと言うべきか。能ある鷹は爪隠すと言うが、それが出来ない。しかし、それは播州気質でもある。

秀吉直臣の者たちは、官僚派は秀吉周辺に侍り、また武闘派と言われる人々とも官兵衛は格段の差のある扱いだった。秀吉の天下への貢献度抜群の官兵衛だけは、軽量級の大名扱いで、更に九州に追いやられた格好である。

官兵衛が、いくら人間が出来ていたとしても、秀吉との隙間風は、当然増していく。官兵衛は、少しずつ秀吉と距離を置くようになる。いくら貢献しても、秀吉は認めてくれないと思っただろう。

更に、不幸にも、与えられた領地で厄介なことが起こる。前領主の宇都宮鎮房(しげふさ)が、国替えに抵抗するのだ。頑強に抵抗する鎮房に対して、官兵衛は止むなく、合元寺(ごうがんじ)で家来共々謀殺する。もっとやり方はなかったのかとも思うけれど、時間的に猶予がなかったことが官兵衛に結論を急がせた結果だ。後世、これを非情の処置と言っている。

また太閤検地により年貢が厳しくなったことで起った豊前一揆を自力では鎮圧できず、関係のよかった毛利家の援軍を得て鎮定している。彼の、それまでの毛利家への貢献が役立ったのだ。九州では、他の藩でも一揆は起っており、それを鎮定できないと、秀吉から切腹させられた者もいるから、官兵衛も危うい所であった。

同年6月、秀吉は宣教師が、我が国の子供たちを海外へ奴隷売買(奴隷業者への仲介)しているとして激怒し、バテレン禁止令を出す。この裏には、戦争によって多くの孤児が出たことがあると推定される。バテレン禁止令に、高山右近は、これに頑強に拒絶したが、黒田官兵衛は、簡単に受け入れ、すぐ棄教している。

また長政にも棄教させている(*注)。これからもキリスト教入信は手段であったことが明らかだ。残っている文書から、そうではなかったと解説する学者もいるが、無理に曲解している。宣教師の残した文書など、彼らに都合よく書かれていることを忘れている。官兵衛が軍師として、その要件である強かな二面性の持ち主であったことを忘れてはならない。

なお、この年に、大阪城二の丸が完成している。

*注

ただ、黒田家の中には、義弟のようにキリスト教に入信して棄教できなかった者もいたらしい。彼を官兵衛は、性分として密かに守った可能性はある。

次回に続く。

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2013年11月15日 (金)

理髪店でマッサージ

一ヶ月ぐらい前から右肩に違和感があり、腕を上げると少し痛くて、まっすぐに上げられない状態が続いていた。いろんな運動を施すも効果なし。一般に、よく言われる五十肩なのかなと思いながら、不愉快な日々を過ごしていた。

で、先日、少し髪が伸びてきたので、行きつけの理髪店で髪を切ってもらい、すっきりした後、マッサージをやってあげるというので、やってもらったら、肩がすっきり。かなり強めのマッサージだったが、効き目は見事にあった。これまでの肩痛が、嘘のよう。

日頃、マッサージは行かないが、今回のことを考えると、効果はあるのだろう。最近は、女性のマッサージ店が多く、女性客のみならず男性客も受け入れると言う。時々、店頭で勧誘を受けるが、彼女らでは、理髪店で受けたマッサージほどの力強いものは期待できないと思う。やはりマッサージは男の担当がいいと思う。流風の場合は、理髪店で十分だ。

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2013年11月14日 (木)

減塩食を作る その十一 減塩ポトフ

今回の減塩食は、「減塩ポトフ」。ポトフはフランス発祥の料理だそうだが、極めて簡単な料理だ。フランスでは、おでんのことを「日本のポトフ」と紹介しているようだが、具に結構、塩分の多い食材を使うから、減塩ということでは、あまり良い食事ではない。

もちろん、ポトフと言っても、純粋にフランス式ではなく、多少オリジナル。それは濃い出汁を使うこと。それによって塩の使用量を減らす。以前、「和風ポトフ」として紹介したことがあるが、冬場に、これを食すると体の状態が極めていい。それは汁に溶けだしたビタミン、ミネラル、カリウムを摂取するからだろう。そこが日本のおでんと根本的に異なるところ。

作り方は、肉を用意。牛肉が基本だが、豚肉でも美味しい。後は野菜。まず絶対外せない物がカブラ。そしてニンジン、タマネギ、ジャガイモ、場合によっては、その他の根菜類。色目をよくするため、豆類などいい。これらを適当なサイズに切って、出汁、酒、コショウ、塩少々で煮るだけだ。

先ほど述べたように、汁もおかずの一つ。決して捨ててはいけない。これに栄養素が溶け込んでいる。冬場、水炊きとか鍋物を食することが多いが、あれはポン酢等で、結局、多くの塩分を摂取することになるので、減塩という意味ではポトフが優れている。

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圓山記念日本工藝美術館に行く

姫路市の広報に「圓山記念日本工藝美術館(公益財団法人 五字ヶ丘文華財団が運営)」が紹介しされていた。前々から一度行ってみたいと思っていたので、この美術館に初めて行ってきた。姫路市内にあるのに、意外と知られていないようだ。

この美術館の「圓山」は、今は亡き「井尻進」氏の号。大正年間に、彼はジャワ島にある世界遺産「ボロブドゥル」を日本に初めて紹介し、その研究は世界的に知られていたらしい。「ボロブドゥル」は、ジャワ島中部にある世界最大の仏教遺跡だ。今は知らない人はいないと思うが、当時は画期的なことだったらしい。

また彼はヨーロッパ近代精神が席巻し、多様な文化が失われ、その行く末を心配していたと云う。彼は民俗的な多様な文化が、伝承・継承することは大切なことと考え、子孫に残していく重要性を感じていた。

この美術館は、彼の、その意志を継ぎ、彼が一時姫路に寓居したこともあり、平成3年に開館されたようだ。館は、行き届いた感じで、非常に美しく整備されていた。日本の工藝関係、すなわち、竹工芸、染織、漆工芸、組み紐、金箔、陶芸、香炉など幅広い人間国宝によるものなどを展示している。

また日本建築の内装も美しく、庭も、簾がかかっており、どこかの旧家のように整備されている。二階には、世界遺産「ボロブドゥル」関係の資料の展示等がされてあった。別に工藝に興味はなくても、時間があれば、一度訪問して見れば、井尻氏の問題意識が理解できるかもしれない。

ただ、茶室で休憩できるというが、そんなに気楽には利用できない感じ。もう少しリラックスできる空間があればと思う。また工藝に興味の薄い人間には、なかなか、その奥深いことは理解できない。いろんな催しもされているようだが、その辺を、どのように解決するかが、この美術館に問われていると思う。例えば、美術館から出た催し企画も求められる(工藝の旅など)。

*参考 圓山記念日本工藝美術館

  姫路市西今宿1-1-8

交通は、姫路より、神姫バスで、「日赤病院前」経由で、琴丘(ことがおか)高校前下車、そこから歩いて2分。

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2013年11月13日 (水)

減塩食を作る その十 減塩みそ汁

夏の間は、野菜ジュース等の摂取で、野菜不足を補えるが、さすがに冬となるとジュースは厳しい。そこで、野菜スープとかみそ汁の出番となる。野菜スープはともかく、みそ汁は塩分を多く含んでいるので、減塩が必要になる。

そこで、今回の減塩食は、「減塩みそ汁」を取り上げる。具は何でもよいが、冬は、やはり根菜類中心に、後はネギ、揚げや豆腐類ぐらい。そして昆布と鰹節で作った出汁使用。あまり量が少ないと作りにくいので、二人分作る。

出汁のうまみと野菜から出る煮汁が合わさると、それだけでも、ある程度、飲めるスープになるが、味が弱ければ、砂糖を隠し味として少し加えるとよい。そして、多少の味噌(出来れば減塩味噌)を溶かす。量は二人分で、小さじ一杯のすり切り。初めは、味が薄いと感じるかもしれないが、慣れれば、こんなものかと思うようになる(笑)。

外食で出される、みそ汁は、依然、濃いみそ汁。そういうものは、減塩みそ汁を飲んでいると、段々飲めなくなるから不思議。体が要求しなくなるのだ。みそ汁は飲まないので、注文する時にお断りするようにしている。「値段は変わりませんよ」と言われるが、それでもいい。ただ、みそ汁はオプションにして欲しいものだ。

*追記

一部の味噌メーカーが「無塩味噌」を開発し、販売するようだ。ただ「味噌」に塩が含まれないと「味噌」とは表記できず、「味噌風調味料」となるらしい。早く発売して欲しいものだ。そして、多くの味噌メーカーも追随して欲しい。

*平成26年3月4日追記

医学研究の中には、「みそ汁の塩分は血圧に影響しない」という見解もあるそうだ。むしろ、みそ汁には、食塩の体外への排出を促し、血管を拡げ、血圧を低下させるという。

ただ、鵜呑みにはできないと思う。味噌業界に沿った研究内容だろうし、そこには偏ったデータを使っている可能性がある。

もちろん、みそ汁を飲む事だけが高血圧に問題を及ぼすとは言い切れない。そこには、多くは、みそ汁の作り方に問題があると言える。

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ヘルシーフード・グランプリの必要性

今年も、B-1グランプリは相変わらず、集客力がすぱらしい。地域の活動の圧倒的な集客力には、いつも驚かさせられる。流風は、B-1グランプリを最初、冷やかに見ていた口だが、これを企画した人を高く評価せねばなるまい。もともと、官庁関係の団体の活性化の意味があったようだが、今は、完全に地域の活性化に役立っている。官庁主導でも成果は挙げられた例だ。

ただ、この催しに行くと、いつも思うのだが、必ずしもヘルシー・メニューでないことだ。結構カロリーも高く、塩分も高い。ここら辺の見直しは検討されてもいいだろう。つまり、ヘルシーフード・グランプリの必要性を感じる。そうすれば、全国からヘルシー・メニューの地域食が多く提案され、更にバージョン・アップし、幅広い消費者に支持されるだろう。

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2013年11月12日 (火)

笑って過ごすも一生、泣いて過ごすも一生ということ

以前にも記したが、父は少し楽天的な思考の持ち主であった。母は、父とは真逆で、全てに於いて悲観的に考える方だった。父は、母の、そのような考え方にうんざりしていて、時々「笑って過ごすも一生、泣いて過ごすも一生と言うではないか(泣いても一生、笑っても一生、のことで、父は、なぜか逆に言っていた)」と、母に諭していたが、一生改まることはなかった。性分というものは、そんなものかもしれない。

流風は、両親の影響を受けているが、子供時代は、母の影響を強く受け、社会人になってからは、徐々に父の影響を受け、父の言うことがよく理解できた。要するに母の悲観的な見方は、世間を狭く見過ぎている結果だと判った。悲観的な母を親に持ったことは、子供にとって災難かもしれないが、常にリスクを考える習慣はついたことは、良かったのかもしれない。ただ、物事を消極的に考えて、多くの機会を失ったこともある。

総合的に考えると、ある程度、楽観的に物事を考えた方が、生きるには、いいのだろう。ことわざに、「塞翁が馬」とか、「禍福は糾える縄のごとし」とか、「捨てる神あれば、拾う神あり」とか、「成るようになる」等、人生の節目節目にアドバイスしてくれたのは父だった。厳しい父だったが、どこか心の明るさを持った人だった。

*追記

父は、石橋を叩いても渡らない慎重居士でもあったが、母は、逆に、時々、大胆なことをやって周囲を驚かせた。悲観的な人間ほど、大胆なのかもしれない。それに対して、父がブレーキを掛けると母は不満そうで、いつも揉めていた。晩年まで、よく喧嘩をしていたが、今から考えると、案外、バランスが取れていたのかもしれない。

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2013年11月11日 (月)

真のエリート教育が求められる

本来、学歴と仕事とは異なるべきだろうが、戦後の学問は、戦災からの復興を急いだため、教養を身につけるより、実際的な教育が歓迎された。そのことが、復興を終えた後も、延々と続いている。大学のカリキュラムも、初めは教養に、ある程度、重きを置いていたが、今は完全に軽視している。

ところが、学歴は、戦前と同じ感覚で、学生たちは、学歴に相応しい職業を望んでいる。自分たちは、エリートと思っているのだ。これは親の世間体ということが大きく影響している。最近は、バブル崩壊後は、若干、その影響は薄らいでいるが、企業側の賃金体系が、学歴を、まだ重視している。最近、大学改革というが、これは企業側と一緒に行う必要があるだろう。

戦後の大卒のトップリーダーには、戦前ほどの教養は備えていない。それは問題を起こした企業トップの発言からも分る。もちろん、彼らだけではない。財界人もだ。要するに、現代の大卒は、狭い意味での専門的学問はできるが、視野が狭く、教養がない人々が跋扈している。日本の危機の根底は、まさに、そこにあると言える。教養を備えた真のエリート教育が求められる。

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2013年11月10日 (日)

人の行く裏に路有り

「人の行く裏に路有り」とは、株式投資の格言らしい。ちょっと意味は違うが、これはビジネスでも言える。大勢に乗った商売は、概ねピークが判らなくなり、退き時を逃しがちだ。その結果、過剰投資のつけが残ったり、在庫が大量に残ったりする。

ただ、人の行かない「路」は概して険しい。その路は、「道」のように、きちんと整備されていない。人が歩いた跡はあるが、なんとか歩ける程度。でも、案外、気をつけて歩くから怪我はしない。細々とした商いは、大変だけれど、大きく失うこともない。

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続・黒田官兵衛の足跡 その二 秀吉天下統一への貢献

今回から、天下の大勢は秀吉に傾いた、その後のことから記す。天正11年(1583)、秀吉は「賤ケ岳の合戦」で柴田勝家を討ち、天下を大きく引き寄せる。一方、官兵衛は、高山右近に導かれ、キリスト教に入信する。洗礼名はドン・シメオンであった。ただし、官兵衛としては、キリスト教入信は、ポルトガルから硝石を速やかに入手する方便だった。

これは多くのキリスト大名も同様である。鉄砲や大筒は、戦争の武器として大きな役割を果たしつつあったが、問題は鉄砲の弾や大筒の弾の原料となる硝石の入手の解決だった。官兵衛は、その他にも、彼らが持っている世界の動静の情報入手の目的もあった。彼にとっては、そちらの方が大きかったかもしれない。

しかしながら、後に、そんなことは知らない秀吉と官兵衛の間に、妙な隙間風が吹き始める。彼がキリシタンになったことは、彼の意図を把握していなかった秀吉に言いしれぬ不安感を持たせた。後年、秀吉は、キリスト教の宣教活動に、日本侵略という隠された意図があると知り、不信感を持ったことから、官兵衛が信徒になったことは警戒感を持たせる要因の一つになってしまう。

さて、そんなに、まだ関係が悪くなかった、この年に、秀吉は、石山本願寺の跡地に大阪城の築城が開始する。城造りに長けた官兵衛を、普請総奉行に任命し、城の縄張り、すなわち設計を担当させる。他に、浅野長政、福島正則、杉原家次らによつて普請が行われた。官兵衛は、築城に達者で、姫路城、大阪城の他に、後に中津城、朝鮮の役での倭城に取り組んでいる。

なお、官兵衛は、築城の傍ら、毛利との境界画定に奔走している。毛利側が、確定していた境界に対して、秀吉と柴田勝家との争いの終結を見届けるまで、駆け引きに利用したため、確定が遅れていたのだ。最終的には勝家には勝ったが、秀吉側の事情で毛利側の要請を受け入れ妥協している。

天正12年(1584)、秀吉の媒酌により、蜂須賀正勝の娘が、官兵衛の嫡子、長政に嫁ぐ。所謂、政略結婚である。秀吉としては、秀吉傘下の家臣団の強化の意味もある。これで実際、両家の結びつきは、更に強くなる。

更に、宍粟郡を与えられ、山崎の城、すなわち現在、篠の丸城(現・宍粟市山崎町に城址)と呼ばれている城を居城とする。ここには、豊前に天正15年(1587)に移封されるまで領有したようだ。また、ここで次男、熊之助が生まれたと云われる。

この年の3月、実質、秀吉と家康の戦いの、小牧・長久手の戦いが始まるが、当時、官兵衛も蜂須賀正勝も参戦しておらず、苦戦している。むしろ負けぎみだった。しかしながら、家康が表看板にした織田信雄が、秀吉と単独講和し、家康は戦いの大義名分が無くなり、実質、秀吉の勝利となるが、失ったものも大きかった。

この戦いで、長年、秀吉に従ってきて、竹中半兵衛が自分の後継者と言った神子田正治が、長久手の戦いで大敗し失脚している。泣いて馬謖(ばしょく)を斬る心境だったのだろうか。ただ、その扱いは厳し過ぎるようだ。

この頃から秀吉の何かが変化していたのかもしれない。この変化に対して、彼に従ってきた臣下たちは微妙に警戒を始める。秀吉は権力の罠に嵌ってしまったのかもしれない。それは驕りであったかもしれない。あるいは何かの病に罹ってしまったようにも思える。彼本来の良さが失われつつあった。

と同時に、彼の取り巻き連中の官僚の石田三成等に組織がコントロールされるようになり、武人たちとの距離が生まれ始める。石田三成は、何かと秀吉に忠実であったがためとも捉えられる。危うい裸の王様になっていく。秀吉がイエスマンを周囲に侍らせた側近政治を始めた結果とも言える。

天正13年(1585)、4月、大阪城本丸が完成する。なお官兵衛の父、職隆は、国府山城で、62歳の生涯を閉じている。

同年6月、四国全土を制圧していた長宗我部元親の討伐に、官兵衛も参戦し成果を上げるが、何の恩賞も与えられなかった。官兵衛は、これまで様々の戦いに参戦し、結果を出しているのに、不思議と何の恩賞も与えられていない。これは秀吉が官兵衛の才能に嫉妬したからと云われている。男の嫉妬は怖いのだ。特に権力者の嫉妬は。ここら辺が、信長と秀吉の違いということか。仕える上司で、運命が左右される。

同年十一月、天正大地震が起る。近畿、中部、北陸にわたって大被害が生じた。

次回に続く。

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2013年11月 9日 (土)

他人の空似はある

先日、あるドラマを視ていると、どこか気にかかることがあった。なぜだろうとドラマが終わってから、分ったことがある。それは出演していた、某女優さんだ。でも、かつて見たことがあるけれど、名前が判らない。ネットで、いろいろ検索して、やっと分かった。

それで、その女優さん(宝塚歌劇出身らしい)を、じっくり見ると、はっと気づいた。今は亡き父に似ているのだ。若かった父を女性にした感じ。出身地は遠く離れているし、親戚にもいない。父が、あちらに出張して過ちを犯した可能性は極めて低い(笑)。

やっぱり、他人の空似ということはあるんだと思った次第。そして、この女優さんに親近感を持つようになった。ただ、ファンとしての連絡先もよく分からない。まあ、嫌だと思われかねないので、知らせない方が賢明だ。静かに今後の活躍を見守る。

*追記

でも、彼女を見ると、父の面影と重なり、ちょっと緊張する(笑)。

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2013年11月 8日 (金)

続・黒田官兵衛の足跡 その一 官兵衛の評価

今回から、官兵衛の後半の人生を見ていきたい。現在、官兵衛物の出版物が増えているが、内容は様々。過大評価してものもあれば、本当に調べて書いたのか疑いたくなるような過小評価したものもある。

官兵衛の評価は、確かに別れることはあるかもしれない。ただ、彼は文武両道の人であり、武辺一辺倒の人ではない。また、決して、諜報活動による戦術だけに通じていたのてはないことは確かで、戦術だけでなく戦略にも長けていた(彼の配下に戦術に通じていて、あるいは、その配下に戦術に長けた人物がいたことは確かで、戦いの手法は、赤松時代から流れるゲリラ的な新戦法を採用している)。

官兵衛の戦略的志向や、その能力は、信長が高く評価しており、彼の志に通ずるものがあった。また、それは信長の志を表面的にしか分らなかった秀吉とは異なり、新しい日本をどのように導くか考えている(*注)。

更に、一般庶民の立場から、物事を見ていることだろう。それは父親の影響が強いかもしれない。秀吉は農民出身でありながら、不思議と、あまり庶民のことを考えていない。それに対して、官兵衛の戦略の底辺は、庶民を守るという強い意志がある。それは播磨精神でもあるとも言える。ここら辺を見誤ると、全て、おかしな解釈につながる。

そして、もう一つの見方が別れるのは、果たして天下を狙ったのかとか、そして狙える資質は持っていたのかということだ。それは秀吉との確執から、心が離れ、秀吉後の混乱に乗じて、チャンスがあれば狙うような心境になったことは確かなようだ。

但し、初めから天下を狙っていたわけではない。当初は、秀吉に誠心誠意を以って尽くしている。多分、天下への野心は持っていなかっただろう。彼に、そのように仕向けたのは、皮肉にも秀吉ということになる。

*注

官兵衛の真意は『黒田家譜』に次のように記しされている(一部現代かなに修正)。

「如水は秀吉公に仕え給うは、その本志にあらず。信長公に仕えん事を求め、岐阜にて初めて拝謁し、信長公より直書を度々拝領して長政を信長へ参らせらる。その志は元来信長公に仕えるに有り。その後、播州を秀吉に給わりし故、その国に居て、その国主に叛らい難く、止むを得ず秀吉に従うのみ。此方より仕えを求め、身を委ねて、臣と成り給うにあらず」

ただ、これは徳川家の時代になった後の、徳川家への言い訳でもある。よって本当の官兵衛の真意は不明である。

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2013年11月 7日 (木)

減塩食を作る その九 茹でナスとコーンのお酢和え

今回の減塩食は、「茹でナスとコーンのお酢和え」。お酢料理は減塩の基本。お酢に慣れると、自然と塩分摂取は減る。ただ、すし飯のように塩分の多く入るやり方は避ける。

今回の手順は、まずナスは半分に切って、お湯に皮を下にして茹でて、数分後ひっくりン返して、柔らかくなったら取りだし、自然に冷めるまで待つ。冷めたら、薄切り。同時に別鍋で、コーンを茹でる。

同量の出汁とお酢に、砂糖と醤油を、ほんの少し混ぜ、たっぷりのすりゴマを入れ、茹でナスとコーンを和える。料理として簡単で、手間要らず。ナスをこのように調理したのは初めてだが、なかなかいける。

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2013年11月 6日 (水)

大人の人見知りは損をする

若いお母さんと幼児が歩いていると、誰もが、思わず声を掛けたくなるようで、先日、知り合いなのか若い男が、近寄って声を掛けると、幼児は無視。顔をそむけていた。さすがに、その男は、一瞬、むっとした表情だったが、お母さんが「まだ人見知りするから許してね」と声を掛けていた。

人見知りは、多くの人に揉まれて、無くなるが、人との接触が少ないと、大きくなっても人見知りするようになる。他人が怖いのだ。ただ、これでは世間を狭くし、交際はできない。会話を通じて、相手を見抜く練習もできない。諭吉も、「つまらぬものは大人の人見知りなり」と言っている。

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2013年11月 4日 (月)

避難の知識はお持ちですか

最近の大災害では、避難のあり方が問題になっている。役所の避難指示がうまく発せられるとよいが、急激な気候変更に間に合わないケースも多い。何もかも行政に依存するのは危険ということが分る。防災アドバイザーの高荷智也氏は、行政の指示を待たずに行動すべきとアドバイスしている。

しかし、一般人に、それぞれの災害に、どのように対応すべきか判断材料があまりない。災害が起こると、報道で、いろんな専門家が解説するが、自分の身に起らねば、忘れてしまいがちだ。結局、災害が起こってから右往左往するのが常だ。危険の察知をして、どのように行動すべきか。

それを適切に分りやすく解説した冊子がある(有料。65円。14ページ)。行政から配布される資料より、子供にも分る内容だ。それは財団法人 日本防火・危機管理促進協会の作ったもの。風水害、竜巻・落雷、土砂災害、地震災害、津波災害から身を守るための基本的なことが記してある。日頃から自分の住まいの周辺地域情報を確認して、リスクに対応準備しておくことは大切だ。

これらは学校の教材になっているかもしれないが、案外知らないのが一般人。日頃から災害対応を各家庭で話し合って、それぞれの災害に対応する避難の心構えを持っておれば、被害を最小限に食い止められるかもしれない。価格も安いし(送料は別)、一家に一冊常備されてはどうだろうか。なお、ネットで協会にアクセスし、注文できる。

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2013年11月 3日 (日)

「第19回太子あすかふるさとまつり」に行く

本日は、天候が悪いという天気予報の中、「第19回太子あすかふるさとまつり」に、行くべきか行くべきでないか迷ったが、ブログでも紹介したわけだし、行かぬ訳にも行かないだろうと、晴れ男ということを信じて、早朝、行動開始。但し、普段より少し寝坊。

今回は、JR網干ルートにする。JR網干の「あれあいフェア2013」の無料送迎バス利用を考えた訳で、JR網干駅に着くと、送迎バスのお迎え。人が異常に多い。ふーむ、こりゃなんだ。やはり鉄道マニアが多いのだろう。バスは満員で、次から次へとやってくる感じ。目的は、ふれあいフェアではないが、無料パスを利用するには致し方ない。

バスは、「ふれあいフェア」会場に。どどっと人が降りる。全体を見渡すと、鉄道マニアらしき人々と家族ずれがほとんど。せっかくだから、会場を一応見て回った。うーん、どこが面白いのか分らない(笑)。でも、だだ広い会場は熱気むんむん。更に見て回っていくと、こういう楽しみ方もあるのだろうとやっと少し分った感じ。

しかし、目的は「あすかふるさとまつり」。開催時間の10時が過ぎていく。ああ、ちょっと後悔。パレードは見られないだろうな。そして、やっと「あすかふるさとまつり」行きのバスがやってきた。JR網干のサービスだから仕方ない。「ふれあいフェア」経由なのだ。

しばらくすると、「あすかふるさとまつり」の会場、あすかホールに到着。急いで会場に行くと、やはりパレードは終わっていた。ただ屋外のイベント会場前には、衣装をつけた方々が集まっており、雰囲気は味わえた。開会式を経て、イベントの案内をよく見ると、全体が子供向けで、大人たちが支えている催しだとよく分かった。大人には、家族でないと、あまり面白くないかもしれない。

そして館内には、異常に人が並んでいる。何かと思うと、昼から「嘉門達夫ライブ!」があるらしい。懐かしい感じだ。こんなところで頑張っているんだ。無料ということも有るだろうが、まだ人気はあるということが分って変な感心。

少し、会場を見回って、少し物産を買い求めたり(残念ながら予測した物産は、あまりなかった)、催しのイベントを少し楽しむ。後は、太子町立歴史資料館で『太子町の聖徳太子』展を観覧。これは太子のいろんな姿を鑑賞できて、正直よかった。なお当日は、まつりのため入場無料だったことは少しラッキー。

地区外から来た人は期待はずれという声もあったが、地域のまつりだから、こんなものだろう。実際、多くの人が集まっていたし、地区の人々の期待は大きいに違いない。まつりは、どんな規模であろうと、地域を活気づけることは明らか。物産展を多くの高齢者や高校生が笑顔いっぱいで元気そうに働いておられたのが印象的。

その後は、地元産のそばを昼食として頂いて、「あれあいフェア2013」で歩き疲れたこともあり、会場を後にした。結局、天候の方は、少し雨がぱらついた程度で、大雨にはならなかった。何とか晴れ男を維持(笑)。

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出来立ての黒ねじり棒

父は、播州の黒いかりんとうが大好きで、晩年もよく食していた。いつだったか、黒いかりんとうを頼まれ買いに行ったのだが、買ってきたのが東京のメーカーの黒かりんとうであったので、不満たらたら言われたことがある。理由は、柔らかくて噛み応えがないというのだ。

でも、父は、もともと歯が悪く、固い物は食べにくいはず。でも、子供時代に食した黒かりんとうが忘れられないのだろう。一般に、それは黒ねじり棒とか呼んで区別しているものもある。かりんとうの一種には違いないが、市販されている物より太くて硬い。

止むなく、もう一度、買い求めに言って、どうにかこうにか入手したところ、非常に喜んで、噛み切れないので、なめなめしながら、長い時間をかけて食していたことを思い出す。

さて、その黒ねじり棒を先日、買い求めてきた。それも出来立て。今、姫路では11月5日まで、小規模の催しだが、『第5回姫路菓子まつり』が開催されている。そこの1コーナーで販売されていた。出来立ての黒ねじり棒は、これはまた別の味。冷えても美味しいが、こういう出来立てのものを、いつも販売できないものか。

昔は、煎餅職人が、煎餅を店頭で作り、販売している店があったが、今はない。こういうショップ型の店は、もっとあってもいいと思うのだが、最近は、なぜか少ない。多様な作り売りは、商店街を活性化させると思うのだが。次は、いつ、出来立ての黒ねじり棒を頂けるだろうか。

*追記

ちなみに、父が「黒ねじり棒」と言っていたものは、業者によると、「播州ひねり(黒)」が正式名らしい。中身が詰まっていて、黒蜜をかけて仕上げたもの。常盤堂製菓というところから、現在も販売されている。ルーツは、播磨に戦国時代に伝わった「オランダ菓子」らしい。もしかしたら、黒田官兵衛も食したかもしれない。

*平成26年11月2日追記

今年も、「姫路菓子まつり」で、出来立ての黒ねじり棒購入。冷えても、美味しい。やはり、「まつり」では、実演販売が受けるようだ。普通の菓子も販売されているが、どこでも入手できる。もっと実演販売を増やしたらと思う。

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『日本の男服』展に行く~神戸ファッション美術館

神戸ファッション美術館で開催されている『日本の男服~メンズファッションの源泉~』展を見に行ってきた。いつも美術館に行くと、「観る」方が多いが、今回は単に「見る」だけだった。今回の催しのパンフレットは手元になく、詳しく内容を把握せず、新聞の広告だけを見て行った。

ただ、行ってみて、思ったような内容ではなかった。内容は、洋服が明治以降に入ってきて、軍服、礼服、制服、学生服が、どのような変遷を辿ったきたかというような内容。確かに「男服」には違いないが、別に「男の洋服の変遷」でも、よかったのではと思う。

要するに、昔の洋服屋さんが過去を懐かしがっているというような内容なのだから。それを「男服」としたことで、焦点がずれてしまっている。「男服」に対する概念を狭く把握されたことが、表現と実際が異なる違和感を感じさせる。

確かにジーンズが申し訳程度に展示されていたが、企画としてはイマイチの印象。催しのテーマ付けは重要な意味を持つ。もちろん、今回の展示が意味がないとは言わない。それはそれなりに評価する人もいるだろう。ただ、教科書的な企画をせずに、この美術館は他の美術館と違って、もっと観覧客の役に立つことを意識して企画して欲しいものだ。2014年1月7日まで。

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2013年11月 2日 (土)

陶器市でマグカップと湯呑を買う

毎年のことだが、姫路では、全国陶器市が今、開かれている。今年で26回目の催しらしい。全国から集まった各産地の陶器が販売されるのだが、いつも、うろうろして、案外、自分の気に入ったものが見つからない。結局、ウインドウはないけれど、「ウィンドウ・ショッピング」に近いものになっていた。

今年は、目に入ったシンプルなマグカップが処分品で安かったので購入した。そして、湯呑を探していたら、備前焼のコーナーで、持った感じ、全体のデザイン、飲み口の仕上がりなど、少し気に入った湯呑があったので購入。銘はなかったので、有名な作家によるものではなさそう。でも、家に帰って使ってみたら、いい雰囲気。久しぶりの当り(笑)。売り場と家で見るのは、違うものだが、大きさといい、仕上がりデザインといい、お買い得だったと思う。しばらく、これで茶を頂くことになる。

*追記

そういうと、現在、姫路市書写の里・美術工芸館では、「湯呑茶碗展」が開催されているらしい。パンフレットによると、明治時代末期から昭和前期の全国の日本の湯呑茶碗を約270点紹介されるとのこと。これらを使ってお茶を飲めば、随分美味しいことだろう。平成25年12月1日まで。

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自分の都合通りにはならない

世の中、自分の都合に合わせてはくれない。ところが、案外、世の中は自分の都合に合わせてくれると思いがちだ。それはビジネスでも、人間関係一般でも、そうだろう。しかし、それでは、うまく行かない。やはり、ほどほどに自分を変えて、他に合わせていくことは求められる。

もちろん過剰適応して、自分を見失っては何にもならない。その塩梅は難しいが、適度に世の中に合わせていくアンテナは持ちたいものである。過去の成功経験にしがみつく頑固一徹だけでは、時代に取り残される可能性が高い。軸はぶれずに、柔軟に対応できる心の余裕を持ちたい。

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2013年11月 1日 (金)

ブランドビジネスの難しさ

高級ホテルのレストランの食材のすり替え・偽装が問題になっているが、ホテルの総合的品質管理に問題があったということだろう。そもそもブランドの品質維持は大変難しい。基本的には、ブランドも人間が作るものなので、その供給には限界がある。だからブランドの大量生産はあり得ない。そこでは希少価値が失われるからだ。

問題を起こしたホテルの経営者は、ブランド意識が低すぎたということだろう。知らず知らず売上中心主義になってしまったことが大きな原因だろう。今一度、ブランドの意義を再認識して、顧客に対して本当のモノやサービスを提供するという基本に戻らなければならない。

ただし、高い山から転げ落ちた信用は簡単には取り戻せないだろう。問題を起こしたホテルのみならず、ホテル業界全体の問題として、業界は取り組んで欲しいものだ。

*追記

ホテルの中は入っているレストランの原価率は、一般のレストランより低い。だから、安くて美味しいものを食したいのなら、ホテルのレストランを利用することは割が合わない。ホテルのレストランは、それをカバーするため、ホテル全体の雰囲気やレストランの内装、あるいは高級感のある従業員のおもてなしに依存している。

それでも、現在のホテルのレストランの価格はメニューによっては高すぎると思う。価格体系の見直しも必要だ。仕入品を適宜使えばいい。顧客に対して、それを正直に示せば問題はない。まず内容の伴わない売上志向を止めることだ。

*追記

一般にブランドビジネスとかサービス業、及び外食ビジネスは、上場してはならないとされる。これらは、人材に強く依存する所が多く、本来、事業拡張には限界がある。ところが、上場会社になれば、株主より、そんなことは関係なく利益の追求を要求される。ここら辺のことを経営者が強く認識しないと、利益に追われ事業の本質を忘れた経営になりがちだ。

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