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2013年11月16日 (土)

続・黒田官兵衛の足跡 その三 豊前の国守に

天正14年(1586)、秀吉は関白として、指揮するため京都・聚楽第に移る。官兵衛も、従五位下に叙せられ、勘解由次官に任命されている。簡単に隠居生活とは行かなかったようだ。

この年、秀吉は島津討伐を決意する。そこで、またまた官兵衛を、こき使うことになる。官兵衛を軍奉行に任命し、秀吉の名代として、九州に向かわせ、九州攻めの足がかりを作らせることが目的だった。この時、秀吉も、さすがに感ずる所があったのか、九州平定後は官兵衛に一国を与えると、やっと明言する。

天正15年(1587)、島津との戦いに勝ち、黒田官兵衛は、九州征伐の論功行賞で豊前6郡12万石の国守になる。やっとなれた感じ。だが、秀吉の約束の一国ではなかった。やはり官兵衛に大国を与える不安が秀吉にあったと推定されている。

官兵衛は、あまりにも自分の能力を、はっきりと発揮しすぎたため警戒された。ある意味、味方に素直すぎるのだ。組織内の嫉妬を理解できなかったと言うべきか。能ある鷹は爪隠すと言うが、それが出来ない。しかし、それは播州気質でもある。

秀吉直臣の者たちは、官僚派は秀吉周辺に侍り、また武闘派と言われる人々とも官兵衛は格段の差のある扱いだった。秀吉の天下への貢献度抜群の官兵衛だけは、軽量級の大名扱いで、更に九州に追いやられた格好である。

官兵衛が、いくら人間が出来ていたとしても、秀吉との隙間風は、当然増していく。官兵衛は、少しずつ秀吉と距離を置くようになる。いくら貢献しても、秀吉は認めてくれないと思っただろう。

更に、不幸にも、与えられた領地で厄介なことが起こる。前領主の宇都宮鎮房(しげふさ)が、国替えに抵抗するのだ。頑強に抵抗する鎮房に対して、官兵衛は止むなく、合元寺(ごうがんじ)で家来共々謀殺する。もっとやり方はなかったのかとも思うけれど、時間的に猶予がなかったことが官兵衛に結論を急がせた結果だ。後世、これを非情の処置と言っている。

また太閤検地により年貢が厳しくなったことで起った豊前一揆を自力では鎮圧できず、関係のよかった毛利家の援軍を得て鎮定している。彼の、それまでの毛利家への貢献が役立ったのだ。九州では、他の藩でも一揆は起っており、それを鎮定できないと、秀吉から切腹させられた者もいるから、官兵衛も危うい所であった。

同年6月、秀吉は宣教師が、我が国の子供たちを海外へ奴隷売買(奴隷業者への仲介)しているとして激怒し、バテレン禁止令を出す。この裏には、戦争によって多くの孤児が出たことがあると推定される。バテレン禁止令に、高山右近は、これに頑強に拒絶したが、黒田官兵衛は、簡単に受け入れ、すぐ棄教している。

また長政にも棄教させている(*注)。これからもキリスト教入信は手段であったことが明らかだ。残っている文書から、そうではなかったと解説する学者もいるが、無理に曲解している。宣教師の残した文書など、彼らに都合よく書かれていることを忘れている。官兵衛が軍師として、その要件である強かな二面性の持ち主であったことを忘れてはならない。

なお、この年に、大阪城二の丸が完成している。

*注

ただ、黒田家の中には、義弟のようにキリスト教に入信して棄教できなかった者もいたらしい。彼を官兵衛は、性分として密かに守った可能性はある。

次回に続く。

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