« 秋の明石と神戸元町を散策 | トップページ | 『隠﨑隆一展~事に仕えて~』に行く »

2013年11月23日 (土)

続・黒田官兵衛の足跡 その四 秀吉の天下統一と官兵衛の心離れ

天正16年(1588)、官兵衛は、中津城を築城している。姫路から、多くの職人や町人が移り住んだ。中津に城を築いたのは、航路を確保するためだった。その目的は、まず京都、奈良の情報が、より速く的確に情報が得られるルートの確保だ。もちろん商業的意味合いも強い。しかし、それも、商流による情報の入手を確かなものにするためだった。物の流れは、あらゆる勢力を反映して先に動くからだ。

天正17年(1589)、ある日、天下人になった秀吉は、お伽衆たちに、次のように問う。「わしが死んだら、一人だけ天下を得るものがいる。それが誰か分るか」と。近臣の者たちは、広大な所領をもつ大大名、例えば、徳川家康、前田利家、毛利輝元など、次々と挙げるが、秀吉は首を振る。

そして言うには、「それは足の不自由な奴よ」と。官兵衛は、有岡城に土蔵に幽閉されて、足が不自由になっていた。近臣の者たちが、訝って聞くと、秀吉は「あ奴は、知力に優れ、人使いもうまい。官兵衛が、その気になれば、存命の内に、天下を取ろうとすれば取れるだろう」と言ったと云う。

周囲は、まさかと思ったが、秀吉は彼より十歩も二十歩も先が見える官兵衛に嫉妬したのだった。官兵衛は、才走るところがあって、秀吉の問いに、何でも即答し続けた。それが裏目に出たのだ。そのような官兵衛の危うさを、中国攻め以来、交流のあった小早川隆景は懸念して官兵衛に忠告していた。隆景については、以前にも記したが、中庸を重んじた人である。それに比べて官兵衛のやり方は、随分と危ない世渡りと感じたのかもしれない。

さて、秀吉の戯言とも言えるこの話を伝え聞いた官兵衛は、身の危険が及ぶことを懸念して、黒田家を守るため、急遽、隠居願いを出し、五月に、認められ、家督を長政に譲り、出家し、「如水」と号するようになる。官兵衛44歳の時であった。

天正18年(1590)、西日本を平定した秀吉は、北条家の小田原攻めを開始する。官兵衛は、黒田家が、この戦いに参戦していないのに、彼だけは連れて行かれた。だが、彼は積極的な、これまでのような進言は一切していない。戦争の仕切りは、石田三成等が中心になって行っている。

さて、この小田原攻めは秀吉が仕掛けた、関西で言う「いちゃもん」だ。これは、後、家康が、豊臣家に仕掛けたことと同類だ。北条家に落ち度はないが、難癖をつけて、戦争を仕掛けた。秀吉軍は、22万の大軍で押し寄せ、北条氏の支城を次々と落としていき、ついに小田原城を取り囲む。

だが、小田原城は堅城で、なかなか落とすことはできない。三成が、かつての官兵衛の戦いを真似するが大失敗。多くの戦死者を出している。何かが足りないのだ。官兵衛は、生涯、全戦全勝だが、それには十分な裏付けを取って戦っている。形だけ真似ても、成功しないとことが、よく分かる。

最初は、鷹揚に構えていた秀吉も、痺れを切らし、ついに官兵衛に相談する。官兵衛は交渉相手に家康を推薦するが、家康が断固として受けないため、止むなく、お鉢が官兵衛に回ってくる。秀吉は、最初から官兵衛を交渉担当にしたかったのだろうが、この辺は、お互いの気まずさから来るものだろう。

北条家は、この理不尽に強く抵抗するが、秀吉の依頼で派遣された黒田官兵衛の「勝ち目がない」との必死の説得で、取り囲まれて三ヶ月後に、北条氏政・氏直は降伏する。官兵衛は、度胸宜しく無刀で、敵陣に何回も乗り込み、ついに説得したのだった。降伏を決意した北条氏政・氏直は官兵衛に感謝して、名刀「日光一文字」と名著『吾妻鏡』を贈ったと云う。この小田原城落城後、東北を攻略し、秀吉の天下は定まる。

名刀「日光一文字」は、福岡一文字派の傑作で、北條早雲が日光二荒山(ふたらさん)より譲り受けた北条家にとっては宝物。それを礼とは言え、手放すのだから、北条氏政・氏直が官兵衛の説得を高く評価したことが判る。

これにより秀吉の天下統一が成る。ところが、今回も、官兵衛の功は非常に大きいのに、秀吉は全く評価していない。ますます、官兵衛の心は離れていく。なお、北条氏の旧領は国替えで、徳川氏に与えている。秀吉にすれば、遠ざけたつもりだろうが、豊臣政権を弱める要因になる。

次回に続く。

|

« 秋の明石と神戸元町を散策 | トップページ | 『隠﨑隆一展~事に仕えて~』に行く »

姫路と播磨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 秋の明石と神戸元町を散策 | トップページ | 『隠﨑隆一展~事に仕えて~』に行く »