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2013年11月30日 (土)

続・黒田官兵衛の足跡 その五(完) 乱世の終わりと官兵衛の終焉

天正19年(1591)、秀吉は、かつての信長の構想の一つ、朝鮮支配を企む。そして、明までも支配するという壮大な構想であった。これについては前年、聚楽第で、朝鮮使節に引見し、明への道案内を求めたところ、拒否される。これで、まず朝鮮の制圧を考えたようだ。朝鮮出兵のため、官兵衛に命じて、出撃拠点の肥前・名護屋城の縄張りをさせる。

そもそも秀吉は、信長の構想を引き継いで、なぜ大陸進出を試みたのだろうか。信長の時代に、キリスト教の宣教師たちは、明の力を利用して日本を植民地にすることを考えていたと云われる。ところが、来てみると、当時の日本は世界でも、稀に見る軍事国家。それで、植民地化は諦めた。

そして逆に、信長に、世界の状況を教え、日本が明や朝鮮を支配すべきだと吹き込む。この辺が、彼ら宣教師の強かさだ。彼らにとっては、どちらが勝っても、漁夫の利を得られる。信長が、この構想に乗ったのは、日本には領地も少なく、臣下に成果を渡す領地も少ない。そこで海外に活路を求めたと言うのが一般的な解釈。

だが、信長は光秀の討たれたため、本当のところは分らない。結局、秀吉が、中途半端に彼の意志を引き継いだというのが実情ではなかろうか。

文禄元年(1592)、官兵衛は、朝鮮外征軍の軍監となって出兵する。ただ病気のため、一旦、帰国する。この頃の官兵衛は心身共には、休む間もなく、次々と戦いに行かされる、かつての光秀の心境に近かったかもしれない。また、これまでの働き過ぎが高じて、少しずつ、彼の身体は蝕まれ始めていたかもしれない。

文禄2年(1593)、官兵衛は軍監として、再度朝鮮に渡り、文禄の役に参戦し、倭城の縄張りや亀甲車の設計に携わる。ただ三成たちは、官兵衛を軽視し、無視しており、都合の悪い時だけ相談に来るという勝手な奴で、逆に無視した所、三成は秀吉に讒訴するという愚かな行為に出る。多くの武将たちに嫌われた原因だ。

官兵衛は、止むなく、その弁解に朝鮮から許可なく帰国するのだが、勝手に帰国したことから、かえって秀吉の怒りを買う。頭を丸めて謹慎し、その後「如水円清」と名乗る。まあ、ここら辺は、キリシタンであったのに出家するという、いい加減さ。彼が真剣なキリシタンでなかったことが、ここでも分る。また秀吉も、今まで功の多い官兵衛の扱いには困ったようである。

ただ、秀吉が軍律を持ち出して、怒った背景には、大きくなり過ぎた豊臣政権の中で、いつしか、秀吉と官兵衛の間に隙間風が吹いていたことが原因だろう。それは秀吉に官兵衛が天下を望める力を持っていたことを恐れたことと、彼がキリシタンになったことが、海外勢力と組んで、別の野心があるのではないかという疑惑を強めていたからだ。

他方、官兵衛の心も完全に秀吉から離れ、秀吉亡き後の天下の形勢を考えるようになる。ただ、彼が自ら天下を彼の代で取ることを考えたかは不明。だが、長政に天下を取る器ではないと判断していたようだ。そうなると、自分で天下を取って、長政に渡すしか方法はないと判断したのではないか。

ところが、慶長二年(1597)、官兵衛も尊敬した、賢人・小早川隆景が亡くなる。ある意味、彼の唯一の理解者であった隆景が亡くなることで、若干の無常観を感じたかもしれない。この辺が文武両道の武人の一種の弱さとも受け取れる。人間の寿命を感じて、心は揺れ動く。

慶長3年(1598)、秀吉死去。朝鮮外征中止、引き揚げへ。

慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成の対立が深まる中、黒田家は、長政が、家臣を率いて家康の東軍に付く。官兵衛の指示であった可能性が高い。これは真田家の両天秤にかける、やり方と似ている。すなわち、官兵衛は、別の行動をとる。これには、東西どちらが勝っても、国が混乱すると見たのかもしれない。

当初、大勢は西軍優勢であった。それを両者互角に誘導したのも官兵衛と言えなくもない。西軍から裏切り者が出ることで、全体をバランスさせようとしている。それに乗じて、漁夫の利を得て、天下獲りのチャンスが巡ってくるかもしれないと読んだのかもしれない。

同年9月、関ヶ原の戦いを知った官兵衛は、中津城にあって兵を募り、浪人や百姓ら9千人ほど率いて、「九州の関ヶ原」と言われる石垣原の戦いなどで勝利。その後も快進撃を続け、九州の大半を制圧するが、官兵衛の予想に反して、関ヶ原の戦いは、たった1日で決着してしまい、家康の命に従い停戦する。初めて、官兵衛の目論見が狂ったことになる。ここに、あわよくば天下を握るという夢は、儚く潰える。

その後の官兵衛は、朝鮮外征時に、健康を崩しがちであったことや、天下は定まったという判断の下、官兵衛は、家康の要望に対して、あっさりと撤退をしている。ここら辺は、天下奪取に執着した感じはない。改めて、官兵衛は文化人であったことがうかがえる。

戦後、家康は、官兵衛には、一切の恩賞を与えなかったと伝えられるが、これはむしろ官兵衛の方から辞退したという話もある。徳川家は、後に、黒田家に深く感謝したというところから、家康が恩賞を与えなかったという話は、違うかもしれない(*注)。結果的に、長政には、論功行賞として、筑前52万3千石を与えた。

慶長9年(1604)3月、京の伏見屋敷で病没。享年57歳。病が重くなり、長政に「我が死期来二十日の辰の刻ならん」と告げ、次の辞世の句を与えたと云う。

  おもひおく 言の葉なくて つゐに行

      道はまよはじ なるにまかせて

ここには、やり切って思い残すことは何もない、という感じがする。悔いのない人生を終えたということだろう。それは官兵衛の実感であったかもしれない。

*注

徳川幕府は、かつて豊臣の臣下で、その後、大名になった外様大名の取り潰しに精を出すが、黒田家は対象にならなかった。むしろお家騒動などの危機があった時に、手を差しのべているくらいだ。家康から、何らかの申し送りがあったものと推定できる。

(了)

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