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2013年11月10日 (日)

続・黒田官兵衛の足跡 その二 秀吉天下統一への貢献

今回から、天下の大勢は秀吉に傾いた、その後のことから記す。天正11年(1583)、秀吉は「賤ケ岳の合戦」で柴田勝家を討ち、天下を大きく引き寄せる。一方、官兵衛は、高山右近に導かれ、キリスト教に入信する。洗礼名はドン・シメオンであった。ただし、官兵衛としては、キリスト教入信は、ポルトガルから硝石を速やかに入手する方便だった。

これは多くのキリスト大名も同様である。鉄砲や大筒は、戦争の武器として大きな役割を果たしつつあったが、問題は鉄砲の弾や大筒の弾の原料となる硝石の入手の解決だった。官兵衛は、その他にも、彼らが持っている世界の動静の情報入手の目的もあった。彼にとっては、そちらの方が大きかったかもしれない。

しかしながら、後に、そんなことは知らない秀吉と官兵衛の間に、妙な隙間風が吹き始める。彼がキリシタンになったことは、彼の意図を把握していなかった秀吉に言いしれぬ不安感を持たせた。後年、秀吉は、キリスト教の宣教活動に、日本侵略という隠された意図があると知り、不信感を持ったことから、官兵衛が信徒になったことは警戒感を持たせる要因の一つになってしまう。

さて、そんなに、まだ関係が悪くなかった、この年に、秀吉は、石山本願寺の跡地に大阪城の築城が開始する。城造りに長けた官兵衛を、普請総奉行に任命し、城の縄張り、すなわち設計を担当させる。他に、浅野長政、福島正則、杉原家次らによつて普請が行われた。官兵衛は、築城に達者で、姫路城、大阪城の他に、後に中津城、朝鮮の役での倭城に取り組んでいる。

なお、官兵衛は、築城の傍ら、毛利との境界画定に奔走している。毛利側が、確定していた境界に対して、秀吉と柴田勝家との争いの終結を見届けるまで、駆け引きに利用したため、確定が遅れていたのだ。最終的には勝家には勝ったが、秀吉側の事情で毛利側の要請を受け入れ妥協している。

天正12年(1584)、秀吉の媒酌により、蜂須賀正勝の娘が、官兵衛の嫡子、長政に嫁ぐ。所謂、政略結婚である。秀吉としては、秀吉傘下の家臣団の強化の意味もある。これで実際、両家の結びつきは、更に強くなる。

更に、宍粟郡を与えられ、山崎の城、すなわち現在、篠の丸城(現・宍粟市山崎町に城址)と呼ばれている城を居城とする。ここには、豊前に天正15年(1587)に移封されるまで領有したようだ。また、ここで次男、熊之助が生まれたと云われる。

この年の3月、実質、秀吉と家康の戦いの、小牧・長久手の戦いが始まるが、当時、官兵衛も蜂須賀正勝も参戦しておらず、苦戦している。むしろ負けぎみだった。しかしながら、家康が表看板にした織田信雄が、秀吉と単独講和し、家康は戦いの大義名分が無くなり、実質、秀吉の勝利となるが、失ったものも大きかった。

この戦いで、長年、秀吉に従ってきて、竹中半兵衛が自分の後継者と言った神子田正治が、長久手の戦いで大敗し失脚している。泣いて馬謖(ばしょく)を斬る心境だったのだろうか。ただ、その扱いは厳し過ぎるようだ。

この頃から秀吉の何かが変化していたのかもしれない。この変化に対して、彼に従ってきた臣下たちは微妙に警戒を始める。秀吉は権力の罠に嵌ってしまったのかもしれない。それは驕りであったかもしれない。あるいは何かの病に罹ってしまったようにも思える。彼本来の良さが失われつつあった。

と同時に、彼の取り巻き連中の官僚の石田三成等に組織がコントロールされるようになり、武人たちとの距離が生まれ始める。石田三成は、何かと秀吉に忠実であったがためとも捉えられる。危うい裸の王様になっていく。秀吉がイエスマンを周囲に侍らせた側近政治を始めた結果とも言える。

天正13年(1585)、4月、大阪城本丸が完成する。なお官兵衛の父、職隆は、国府山城で、62歳の生涯を閉じている。

同年6月、四国全土を制圧していた長宗我部元親の討伐に、官兵衛も参戦し成果を上げるが、何の恩賞も与えられなかった。官兵衛は、これまで様々の戦いに参戦し、結果を出しているのに、不思議と何の恩賞も与えられていない。これは秀吉が官兵衛の才能に嫉妬したからと云われている。男の嫉妬は怖いのだ。特に権力者の嫉妬は。ここら辺が、信長と秀吉の違いということか。仕える上司で、運命が左右される。

同年十一月、天正大地震が起る。近畿、中部、北陸にわたって大被害が生じた。

次回に続く。

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