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2014年6月29日 (日)

今更ながら、姫路城内観光コース案内

今回は、今更とも思えるが、一般的な姫路城観光のコース案内を念のため記しておこう。来年1月には改修を終え、再オープンすることもある。

まず姫路駅に降り立ち、展望デッキで姫路城を、先ず見る。そこからは神姫バス(二つ目の「姫路城大手門前」下車)、あるいは徒歩で、50メートル道路をひたすら城に向かって行き、桜門橋を渡り(左側通行)、大手門をくぐって、三の丸広場に入る。右手には、姫路市立動物園があり、それとは逆の方向に歩いて行くと、左側に千姫ぼたん園がある。季節によっては美しい花々に出会える。

*いよいよ正面登閣口。ここでに入場料を支払って、入ると、間もなく「菱の門」が見える。ここの右側に「三国堀」がある。それとは逆の左側に進路を取り、まず「ワの櫓」に入り、「ヲの櫓」を経由して、「長局(百間廊下)」を歩き、「化粧櫓」に着く。

●「菱の門」(重文)

全体的に、安土桃山時代の様式を残し、城内で最も大きい門だ。左右に連なる塀の狭間から敵を迎え撃つ構造になっている。両柱の上の冠木に木彫りの菱の紋がある。華灯(火灯)窓が珍しく、時代劇でも、度々登場する。

なお、中村大佐顕彰碑がある。彼のお陰で、明治の廃城令の中、姫路城は救われた。

●「三国堀」

菱の門内にある堀で、31メートル四方の捨て堀。二の丸の本道と間道要所を抑えている。元々、空堀で、敵を追い込むために作った。今は雨水が溜まっている。池田輝政が、播磨・備前・淡路の三国を領したことから名づけられた。

●「長局(百間廊下)」

西の丸にある中書院を囲むように造られた。長さが300メートルある。千姫は、毎朝夕、この廊下から男山を拝んでいた。男山千姫天満宮は姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社で、千姫が本多家の繁栄を願って建立したもの。なお廊下に並ぶ部屋には、千姫に仕えた侍女たちが住んでいた。

●「化粧櫓」

西の丸長局より男山を拝んだ千姫が、身支度や化粧直しをするために休憩所としたところから名付く。御殿のような造りになっている。千姫の化粧料10万石で建てられたものだ。そこで、この名がついた。

*ここから一旦、外に出て、櫓の真ん中にある武者窓が印象的な「はの門」(門の礎石に注目)をくぐり、「二の丸」に入り、迷路のような道を行き、櫓門の「にの門」から「ほの門」をくぐって、油壁を見て、天守閣が間近に感じる。「水一門」をくぐって、更に「水五門」をくぐり、西小天守を通って、天守閣の地階に入る。後は階段で、1階、2階、3階、4階、5階、そして最上階の6階に上がる。町並みや景色を眺める。

●「大天守」

高さ14.85メートルの天守台の上に建つ31.5メートルの大天守。姫山の上に建つため、海抜92メートルになる。外観は5層、内部は地下1階・地上6階になっている。

なお最上階には、「刑部(おさかべ)神社」がある。長壁大神が祭られている。以前にも拙ブログでも記したが、姫山に祭られる土地神である刑部親王と、その王女の富姫があった。それを池田輝政が築城時に、城内に祭った。1748年に、長壁大神と改名。明治になって、明治12年(1879)に播磨国総社に移されるも、後に勧請されて、大天守六階に祭られるようになった。

*大天守から階段を下に降りると、備前丸(現在、建物はない)に到着、そこを経過して、「備前門」をくぐって、北へ「への門」まで行く。この門の北側に「塩櫓」が並んでいる。「との門」を経て、南下して、「帯郭櫓(腹切丸)」に行き、「りの門」をくぐると、間もなく「お菊井戸」が見える。

●「小天守」

大天守の「東」「西」「乾(北西)」にある3つの小天守。大天守と渡櫓で連結されている。

●「帯郭櫓(腹切丸)」

別に腹を切る場所ではない。正式名「帯郭櫓(おびくるわやぐら)」の俗称。この櫓の一階に鉄砲狭間を連ねた武者台がある。その形が検視台のように見えることから、「腹切丸」と呼ばれるようになったと云う。通常、罪人の切腹は、屋敷内の庭先等で行われていた。城内は神聖で、あり得ない話と云う。

●「お菊井戸」

お菊については、以前、拙ブログで記したので、ここでは記さないが、その時にも述べたように、お菊が投げ入れられた井戸では決してない。なぜなら、この井戸は江戸時代に作られたことがはっきりしているから。お菊の話は、姫路城の城主が小寺氏の時代だから明らかに矛盾する。

*その後は、「ぬの門」をくぐって、石垣の「扇の勾配」を確認する。そして、「るの門(穴門)」を経由して、「三国堀」に出て、再度「菱の門」に至る(終)。

●「扇の勾配」

上に行くほど反り上がり、開いた扇の曲線に似ていることから名づけられた。敵に容易に、よじ登らせない工夫だ。

●「るの門(穴門)」

石垣の間に造られた小さな門。別名、埋門(うずみもん)。いざという時、敵の侵入を防ぐため、ここを埋めてしまう。

以上が一般的なコースの案内で、所要時間1時間30分から2時間ぐらいかかる。だが、時間的に短くするコースカットの方法もあるが、ここでは省略する。

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2014年6月25日 (水)

幾度かの危機を乗り越えた姫路城

長い歴史の中で、姫路城は、一度も、戦や火災に巻き込まれなかった。そのため、姫路城は、「不戦・不焼の城」と言われ、強運の城とも言われています。それゆえ、国宝や重要文化財の指定を受けた建造物が八十二棟もある。もちろん、姫路城の危機は何回もあった。姫路城は、奇跡的に今まで残ったが、それまで何回も危機を乗り越えている。

戦乱の時代にも、不思議と、この城での戦闘記録はない。官兵衛も秀吉も、館にはしているが、戦場にはなっていない。徳川時代は、もちろん、戦争の記録はない。明治初期になって、ちょっと危ない時期はあった。

徳川家に近かった姫路藩は、鳥羽伏見の戦いが終わると維新政府は旧幕府側についた姫路城に追討の兵を向ける。1500人の兵に囲まれたが、重臣たちは、藩主の酒井忠惇が慶喜に同行して江戸に向かう時、「決して防戦はしてはならない」と言い残していたことも有り、開城の決意を伝えた。

ところが、交渉の行き違いで、男山に陣取った砲列が姫路城に向かって火を噴く。実際は空砲が多かったようだが、実弾も有り、福中門の瓦がいくつか吹っ飛んだ。でも、最終的に姫路藩は降伏し、これくらいのことで終わっている。

ただ、次なる危機がやってくる。明治初期に城郭は無用の長物とされ、有用性がないと指摘された。なぜなら城は保存するのに莫大な費用がかかるからだ。廃城令により、全国の多くの城は取り壊され、あるいは売りに出された。それは姫路城も例外ではなかった。

姫路城は競売にかけられ、当時のお金で、23円50銭で、姫路市米田町の神戸(かんべ)清一郎という人物に落札されたと云う。使用してある金物の価値を見込んだのだが、取り壊しに相当な金がかかると分り、権利を放棄している。

それで、結局、公費で取り壊されることになった。ただ、1877年(明治10年)に、少佐の飛鳥井雅古より、姫路城天守閣の修繕について伺い書が初めて提出された。翌年、陸軍省第四局長代理の中村重遠大佐(高知県宿毛市の出身)が姫路城解体を惜しむ。

彼は豪快だったが、文武に通じていたと云う。それで、陸軍卿山県有朋に、後世に伝えるべき文化遺産だと建白書を提出して訴える。彼が強く訴え続けた結果、漸く理解されて、それが受け入れられ、明治12年(1879)、陸軍省による保存修理が決定。ただ、資金が足りず、大掛かりな修理には取りかかれなかったが、これが保存の一歩になったのは大きいと指摘されている。

1908年には、姫路市民が自分たちで城を守ろうという意識が芽生え、「白鷺城保存期成同盟会」を結成して、保存修理を請願している。その結果、1910年(明治43年)には本格的な保存工事がなされた。天守の傾きを止めるため、筋交い柱や支柱の補強を施した。更に屋根の補修や壁面の塗り替えを行い、外観保持をした修理が行われた。それは1934年(昭和9年。但し戦争のため中断)、1956年(昭和31年)の修理、そして今回の修理に引き継がれている。

太平洋戦争末期、姫路の市街地は米軍機の空襲による焼夷弾で、大半が焼けたのに、城は残った。城に迷彩(擬網)は施されてはいたものの、母は米軍機が姫路城を文化財として保護して爆弾を落とさなかったのだろうと言っていたが、これは間違いで、米軍に、そのような配慮は全くなく、一部爆弾は投下されたが、不発で終わって、助かったようだ。

更に、後で分ったことだが、米軍の予備偵察では、爆撃の範囲に、姫路城は、すっぽり入っていたらしい。米軍は、レーダーで陸が映し出されると、そこに爆弾を投下していたのだが、海が映れば、投下を中止していた。

これは城に、擬網を施したことによる効果だけとは考えにくい。当時、城以外の市街地北部も、海か湿地のような空間と捉え、結果的に陸地と思わず、爆弾を投下しなかったようだ。つまり爆撃を受けなかったのは奇跡で、強運の城と言えよう。運をもらうなら姫路城ということか。

*追記

終戦後、戦地に駆り出された人々が、外地から姫路に戻ってきた。その途中に見る景色は、どこも爆撃で焼け野原。姫路の街も空襲で焼けていると聞かされていた。ところが、姫路の駅に降り立った時、焼け野原が続く中、白い姫路城だけは、忽然と立っていたことにびっくりしたという。実際、戦地から、やっと戻ってこれた親戚の人は、姫路城には魔物のような力があるではないかと感慨深げに語り、これがあるから復興しようと頑張れたと後日語っていた。

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2014年6月22日 (日)

姫路城全景を、どこから見るか

マスコミの一部には、「白すぎる姫路城」と報道していたが、以前の昭和の改修時にも、白くなっていたそうで、塗り替えたのだから当然のことだ。今まで、くすんだ姫路城を見慣れているものだから、少し違和感を覚えたのであろう。よって本来の白鷺城をしばらく見ることができるということだ。多くの人には、くすまないうちに早く見て欲しいものだ。

ところで、姫路城を見る絶景?ポイントはどこだろうか。菱の門手前のお堀端から見上げている人は多いと思うが、一応、知る限りのお城の周辺からのポイントを記しておこう。

①まず、姫路駅前にある展望デッキのポイント。お城を正面に見ることができる。

②次に、ちょっと交通に注意しなければならないが、大手前通りから見上げるポイント。

③一番よく知られているのが、お城の東南方向にある城見台公園のポイント。原寸大の鯱瓦の間から見ると美しい天守閣が。石段に上って見るのが美しいとされる。

④イーグレ五階の屋上庭園は、お城に近く、全景が見える。流風のお薦めポイント。午前8時30分から北側入口エレベーターが利用できる。東から、帯の櫓、大天守、西小天守、ちの櫓、菱の門、化粧櫓、カの櫓、ワの櫓等が一望できる。但し、午後6時までだ(夏期は午後9時まで)。望遠台も設置され、これは有料で100円だ。

⑤ついでの時は、三木美術館の五階の応接室もいい。美術館への入館が必要だが、じっくり見ることができる(但し、五階で催しがあると不可)。

⑥お城の東側にある姫路市立美術館の庭園から見るポイントもある。なお市立美術館は旧陸軍の兵器庫として利用していたレンガ造りの建物で個人的には、姫路城の景観を邪魔しており、お城とのマッチングは悪いと思う。

⑦更に行くと、兵庫県立歴史博物館がある(有名な建築家・丹下健三氏の設計)。そこの西の窓ガラスに写り込む姫路城もいいと言われる。また館内の2階にエスカレーターで上がった所から見る姫路城も美しい(ここまでは入館無料)。常設展示場(有料)には、城関係の展示も有り、参考になる。

⑧県立歴史博物館を西に行くと、シロトピア記念公園がある。東小天守と乾小天守をつなぐロの渡櫓が見える。ただし、昼間は逆光。朝早く行くか、夕方に行くのが良いというのが専門家の見方。

⑨お城の北西にある姫路文学館から見る姫路城も、また違った風情だ。時期によっては、絶景と感じる。近くにある男山配水池公園の上からも見てみたい(石段が200段あるので、少しきついけれど)。

⑩お城の南西の方角から見るポイントは、あまり有名過ぎるが、斜め方向から見る、ここもいい。南西とは言えないが、家老屋敷公園から見る姫路城もいい。ただ、門外ではなく、門内から見た方が絵になるという人もいるが、今回は、門外から見るポイントを挙げている。

もっともっと見学スポットはあるだろうが、これくらいにしておく。更に姫路城の四季も楽しんで欲しい。同じ姫路城なのに、雰囲気がまるで違う。季節ごとに楽しんで欲しい。

また、これらは城周辺観光ループバスの1日券(大人300円、小人150円)を利用すると少し楽だし経済的だ。ただし、3月から11月の間は毎日運行しているが、12月から2月の間は、土曜・日曜・祝日のみなので注意。

もちろん、貸し自転車の利用(観光案内所にて手続き。無料)してもいいし、歩くのに自信がある方は、時々休憩しながら、城の周囲をぐるっと見て歩くのもいいだろう。また、大きい自転車は苦手という方には、有料(基本料金一日100円)だが、貸し自転車「姫ちゃり」というのであれば、小型自転車のなので、誰でも乗れるだろう(利用にはクレジットカードが必要)。

*平成27年2月25日追記

なお、世界遺産登録を記念して、公募で選んだ「世界遺産姫路城十景」というものもある。記事で挙げたものと重複するものもあるが、一応紹介しておく。どちらかというと、遠景も取り上げている。

 一、増位山

 二、シロトピア記念公園(兵庫県立歴史博物館周辺)

 三、姫路市立美術館

 四、城見台公園

 五、姫路城三の丸広場

 六、男山配水池公園

 七、名古山(霊園のあるところ)

 八、景福寺公園

 九、大手前通り

 十、手柄山

*平成27年10月22日追記

今年で10回目になる催しを紹介しておく。それが、「第10回 ぐるっと360度姫路城スタンプラリー」というもの。平成27年11月29日の日曜日に催される。主催は、「大好き!姫路」つくろう会。問い合わせは、佐賀とも子氏(090-2191-9189)とのこと。

◎受付場所 イーク゜レひめじ1階 西北入口

◎受付時間 午前10時より10時30分まで。

◎定員 100名。先着順

◎参加費 無料

◎所要時間 約1時間30分

◎コース 

イーグレひめじ1階→イーグレ姫路5階屋上→大手前公園→城見台公園→護国神社北側→東御屋敷公園西の道→喜斎門前内濠→内濠東沿い(姫路市立美術館西側)→県立歴史博物館→シロトピア公園→北勢隠門跡→姫路神社→濠の始まり勢隠濠沿い→紅葉の小径→南勢隠門跡→好古園前

◎完歩賞 好古園入場券

一人で行くには、不安だという人に向いているかもしれない。姫路城をいろんな角度から楽しんで欲しい。

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2014年6月21日 (土)

『万葉集』の唐荷の島の歌

『播磨国風土記』に、唐荷の島について書いてあることを記した。今回は、『万葉集』で、その唐荷の島について詠った歌を備忘録として記す。それは山部赤人の歌。現代で言う出張を命ぜられて、心細い瀬戸内海の船旅をしながら(どこに向かって行っていたのかは不明。四国辺りだと云われている)、大和に残してきた妻を懐かしむ歌だ。

「唐荷の島を過ぐる時に、山部宿禰赤人が作る歌一首」

 あじさはふ 妹が目離れて 敷栲(しきたえ)の 

 枕もまかず 桜皮(かには)巻き 作れる舟に

 真楫貫き 我が漕ぎ来れば 淡路の

 野島も過ぎ 印南都麻 唐荷の島の

 島の際(ま)ゆ 我家を見れば 青山の

 そことも見えず 白雲も 千重になり来ぬ

 漕ぎたむる 浦のことごと 行き隠る

 島の﨑々 隈も置かず 思ひぞ我が来る

 旅の日(け)長み

「あじさはふ」と「敷栲(しきたえ)の」は、それぞれ「目」と「枕」の枕詞。訳としては、「愛しい妻と別れて、枕も交わすこともできず、桜の皮を巻いて作った船に櫂を貫き、漕いで来てみると、淡路島の野島を過ぎ、加古の印南都麻も過ぎ、唐荷の島にやっと着いた。その島の間から、妻のいる、我が家の方を見やると、青々とした山しか見えず、空には白い雲が、幾重にもなっている。漕いで浦々や、進むと隠れてしまう島の﨑々も行けばいくほど、旅が長くなるにつれて、故郷の家のことがますます忍ばれる」てな感じ。

それに対して、反歌三首があるが一首のみ掲げておこう(*注)

 玉藻刈る 唐荷の島に 島廻(み)する

  鵜にしもあれや 家思はずあらむ

「玉藻刈る」は、海の景色に対する枕詞。唐荷の島に対するイメージを湧かせる。実際に玉藻を刈っているかどうかは、関係ない。訳としては、「唐荷の島々で遊んでいる鵜だったらいいのになあ。鵜ではないから、家のことを思わないでいられない」という望郷の気持ち。

瀬戸内海は、日本海や太平洋と比べれば、波は、そんなに高くないと言えるが、当時は、瀬戸内海と言えども、小さい船で航海することは大変だったようだ。それに海賊のようなものも出ていたろうから、ある意味、命がけ。彼が心細く感じて歌にしているのがよく分かる。

昔は、旅をするのも命がけ。現代であれば、未開の世界を航行するようなのに近いかもしれない。

*注

他の二首は次のようになっている。

 島隠り 我が漕ぎ来れば 羨(とも)しかも

  大和へ上る ま熊野の船

(自分たちとは行く方向が逆の大和へ向かう船を羨ましがった歌)

 風吹けば 波か立たむと そもらひに

  都太(つだ)の細江に 浦隠り居り

(風が吹いて波が立った来て、様子を見るため、都太という細い入江に停泊している様子)

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2014年6月20日 (金)

『播磨国風土記』を読む その十四 「韓荷島」のこと

姫路を過ぎて、行くと、相生近くに、以前も取り上げた室津がある。この室津の突き出ているところに、藻振り鼻がある。そこから南の海上に三つで構成された唐荷ノ島がある。すなわち、地ノ唐荷、中ノ唐荷、沖ノ唐荷だ。

『播磨国風土記』の揖保の郡に唐荷ノ島の謂れが記してある。ただし、表記は「韓荷島」だ(*注)。これは、韓人(からびと)の破れた船から物が漂い、この島にたどり着いたことから命名されたと云う。当時、瀬戸内海を朝鮮半島から船が往来していたということを示すものだ。

*注

『万葉集』では、「辛荷島」と表記されているものもある。

*追記

ついでに記すと、「室津」の謂れは、室津が、ちょうど風を防ぐような「室」のような港だから、そのように言った。当時は、造船技術も拙く、瀬戸内のちょっとした風でも転覆していたらしい。それで室津は重宝がられ、栄えた。

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2014年6月19日 (木)

三木美術館・夏季展『青と白~やきもので感じる涼』展を観覧

三木美術館で開催されている夏季展『青と白~やきもので感じる涼』展(展示内容は*参考参照)を観覧してきた。季節の相応しいテーマ。青磁と白磁の展示。流風は、白磁より青磁の方が好きだ。それも高麗青磁より中国青磁の色の方がいい。

青磁は生前、母の還暦の祝いに青磁の壺と湯呑茶碗を贈ったことがある。母は少し喜んだが、あまり使っていない感じだった。母の好みとは異なったのかもしれない。湯呑は5個セットの内、一個を母ではなく、父がずっと使っていた。でも、母は使わなかった。女性へのプレゼントは親でも難しいと思ったものだ(苦笑)。

さて、展示の方は、青磁は、色がやや薄い青磁だった。それに白磁の展示だから、全体的に白っぽい。夏を強く意識して、そうされたのかもしれない。形状的に特異なものはなかったが、中田博士氏の白磁の作品は、少し変わっていたが、流風の好みではない。青磁や白磁は、伝統的な、あきりきたりのタイプが好み。古いのかなあ。

後は、常設展の隠崎隆一の作品と絵画の展示。今回の絵画は伊東深水の『爽秋』と『蛍』、牧進の『清爽』が目に付いた。最後に、五階に上がって、セルフコーヒーを飲みながら、日に日に現れてくる姫路城を見て、後にした。

*参考  展示内容 

       http://www.miki-m.jp/category/1224162.html

      平成26年8月24日まで。

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2014年6月18日 (水)

一言主神のこと

今回は、一言主神について備忘録的に記す。世の中、一言多い人とか、一言居士とかがいらっしゃるが、一言主神という神もいる。この神は、「悪事も一言、善事も一言、言い離つ神」ということらしい。よって、託宣神、言霊の神とも言われる。

この神に祈ると、一生に一度の願いを叶えるとも聞く。また、この神についての伝説としては、次のものがある。ある時、役(えん)の行者が諸神を集めて、金峯山と葛城山の間に橋を架けろ命じる。

ところが、早くできないので、一言主神を呪い、深い谷に縛り付ける。ところが、一言主神が、「役の行者が朝廷を傾けようとしている」と託宣し、ついに橋は架からなかったと伝えられる、というもの。

この話の背景には、もっと深い事情があるのだろうが、把握していないので、ここでは記さない。世の中、急いでいいこともあるが、大体、急ぐとろくなことがない。神にしろ、人間にしろ、そのスピードには限りがある。

それを無理すると、あとあと、困ることになる。某マンションは基礎をしっかり作らなかったとかで傾いているそうだが、国の作る法律もそうだろう。あれ、一言多かったかな(笑)。

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2014年6月17日 (火)

文字のきれいな女性

最近はワープロ全盛だから、本人の自筆を見る機会は少ないので、気になる女性がきれいな文字を書くかどうか確認することは、なかなか難しい。

昔は、水茎も麗しい文字のきれいな女性から手紙を頂くと、果たして、どんなに美しい女性かと想像してしまったものだ。実際は、声美人と同じで、大体が落差が大きいけれど(笑)。逆に、美人の方は、今までお会いした限りでは、割と字が下手。そういう錯覚は、美人が頭がいいと思うのと似ている。

ところが、以前にも記したかもしれないが、ある大先輩が、文字のきれいなタイプは、体裁を装う傾向があるので、公私共にパートナーにするには警戒せよとのことだった。実際、そうなのかな。かつては、かな釘流は身分が低く教養のない女性とされたものだ。

きれいな文字の手紙を頂くと、気持ちがよくて嬉しい(時々、あまり達筆過ぎて読めないけれど)。でも、先輩の言うように、下手な字の方が、内容にもよるが人柄が出て、いいとも考えられる。果たして、あなたは?(笑)。

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2014年6月14日 (土)

恋まじないの歌

七月七日は言わずと知れた七夕。牽牛星と織女星が天の川で出逢われるという。当夜に、この星を祭って思うことを祈れば、叶わぬことが無いというもの。

さて、江戸時代には、滅多に会えない異性に対して、恋まじないに使われる歌があった。会えない状況は様々。多分、花柳界の女性の心情から始まったものだろう。それが、次の百人一首(九十七番)にもある藤原定家の歌。

 こぬ人を まつほのうらの 夕なきに

   やくやもしほの 身もこがれつつ

現在の兵庫県の淡路島の北端の明石海峡に面したところにある「松帆の浦」で焼いている藻塩を題材にしたもの。でも、現代人に藻塩と言っても分らない。これは古代から行われていた製塩法の一つ。

海藻に海水をかけて日に干し、その藻塩草を焼いて、それを水に溶かして、更に上澄みを煮て塩を得るやり方。だが、藤原定家の頃には、もっと効率的な製塩法が普及していた。この歌は万葉集をベースにしているので、懐古的な題材になっている(*注)。元歌は男の歌だから、それに対する女性の返しのような歌の内容になっている。

さて、歌の解釈は、「あの松帆の浦の夕凪時に焼いた藻塩が焦げるように、通っては来てくれぬ人を待つ気持ちは、身を焼く思いで待ち焦がれている」という情熱的なもの。この歌は定家が女性の気持ちを代弁したものと言える。

これがなぜ恋のまじないに使われたのかは分らない。ただ筆の鞘を焼きながら、上の句を三回唱えると、待ち人が来ると云われた。そして運よく念願の男が来たら、その男と口をきく前に、下の句を三回唱えなければならないということだ。

まあ、このようなまじないは、現代では学生のような閑人(?)が考えそうなこと(笑)。いつの時代も、こういう遊びは廃れない。

*注

万葉集巻六の九三五の歌が元歌。

「三年丙寅の秋の九月十五日に、播磨の国の印南野に幸(いでま)す時に、笠朝臣金村が作る歌一首」

 名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島

 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ

 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘女

 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ

 ますらをの 心はなしに たわや女の

 思ひたわみて た廻(もとほ)り

 我れはぞ恋ふる 舟楫(かぢ)をなみ

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2014年6月11日 (水)

間違った危機感が危機を招く

どうも安倍自民党政権は危機感が足りないようである。マスコミの批判的言動を抑え込み、政権に余裕がないことは明らか。多分、自信がないのだろう。それに安倍政権が目指す方向は、どうも周回遅れのようである。

もちろん全ての政策がそうとは言わない。ただ安全保障の問題については、時代遅れの間違った危機感で、政策を強力に推し進めようとしている。この政権の目指していることは、冷戦時代のやり方。当時は、現在より、安全保障面で危険な状態にあったが、日本は何もできなかった。現在は、時代は当時と比べれば安定的であるのに、やたらと危機を煽り、保守勢力の持っていた不満を今とばかりに爆発させている感じだ。

だが、当時と現在の国際状況は大きく異なる。中国についても十分に読み切れていないし、過剰に変に意識している。もちろん、中国の政治情勢は部分的に危うい面があるが、それは一面的だ。

ところが、何を意識しているのか分らないが、特定秘密保護法にしろ、集団的自衛権を含む安全保障体制も、現在の国際情勢を考えると、かなり古い発想で、日本を守るどころか、かえって危機に陥らせる可能性が高い(これが成立すれば、自衛隊も崩壊しかねない。隊員は、誰も他国のための傭兵にはなりたくないだろう)。

集団自衛権を行使できるようになれば、危機を回避するどころか、むしろ日本に米軍基地がある以上、日本もテロの対象になるのは、はっきりしている。どこの国にも正義はあるからだ。集団的自衛権も、自らの正義を振りかざすテロには無力だ。第三者の争いには、武力で介入しない方がいい。日本は別の役割があるはずだ。それは多くの専門家が指摘しているのに耳を傾けようとしない。

哲学なく、能力が低く、思い込みの強いリーダーが実行力を持つ最悪のパターンだ。結果的に、今まで、自民党を、是々非々で支持してきた人々が、危なかしくて、今後は必ずしも支持できないという方々が多くいるようになってしまった。

要らぬことに手をつけたがために、次の選挙で自民党が勝てる保証は何もない。彼らに、そういう危機感はあるのだろうか。今は、政権崩壊を招いた民主党政権と同様、裸の王様状況が極めて似ている。危ういかな、危ういかな。

*追記

今政権に必要なことは、将来を見越した国内経済の立て直し(アベノミクスは、いずれ崩壊するので)と、中国との関係改善だ。そこにエネルギーを投入すべきだろう。集団的自衛権などに時間を割く時間がもったいない。一体全体、自民党内に、まともな人材はいないのだろうか。これは小選挙区と政党助成金の産みだした弊害なのだろうか。

*追記

麻生氏の集団的自衛権の例えとして、いじめ問題を絡める不適切発言をしたり、福島問題絡みで、石原環境大臣の「金目でしょ」という発言といい、都議会での自民党議員によるセクハラ発言といい、自民党には強いお灸が必要なようだ。最近の自民党には驕りが感じられる。当然のことながら、驕れる者、久しからずだ。そのことは、いずれ骨身に沁みることだろう。

*平成26年6月28日追記

米国紙及び米国紙が、独裁的な安倍政権による憲法改正をせずに憲法解釈の変更で集団的自衛権の行使可能に走ろうとしていることをついて、これはクーデターと捉えている。誰が考えても将来的に危険な道を日本は歩もうとしている。また政権与党の公明党も政権にしがみつき、「平和の党」を放棄するようだ。

これらは米国政権の要求を何が何でも呑まなければ、日本は守れないという誤った考え方がある。基本は自国は自国で守らなければならないし、いかに同盟していても、同盟国が守ってくれるわけでもない。自民党や野党の保守派と云われる方々は大きな勘違いしている。集団的自衛権ほど、あてにならないものはない。行使されても、行使しても、厄介な問題を引き起こすだけだ。

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2014年6月 9日 (月)

年金の大幅カットの通知で考える

日本銀行は、景気に強い足取りを感じているようだが、流風は、あまり景気には昔から関心はない。しかしながら、少し前に通知が来た年金大幅カット通知には、少し落胆している。通常の年金のカットもあるが、それは、景気に準じたものであろうから納得はいくものの、厚生年金基金の廃止に伴う年金の大幅カットは痛い。

所属する厚生年金基金は廃止こそならなかったとはいえ、継続の条件が厳しくなり、結局、年金の内、企業年金の部分が大幅カットになったという。企業年金は年金とは聞こえはいいものの、ある意味、退職金の先延ばしに相当するもので、つまり実質、退職金がカットされたということになる。

中途退社だから、実害は小さいものの、老後の書籍代として期待していたので、やや、あてが外れた気分。そういうと、国は、年金の運用を株式で運用する割合を増やすようだが、果たして、うまくいくのだろうか。運用で失敗すれば誰が責任を負うのだろうか。その辺が極めて曖昧。

将来の年金受給者のことを考えると憂慮せざるを得ない。厚生年金の大幅カットなんて、悪夢だろう。国民年金は、今のところ費用対効果の高い有効な投資で、将来も国は何とか維持をするとは思うが、厚生年金はどのようになるのだろうか。年金の支給年齢繰り下げが俎上に上る今日、若い人たちが年金に不信感を持つのもやむを得ない。でも、年金は老後には必ず必要。どのように折り合いをつける知恵を出すか。

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