« 姫路城全景を、どこから見るか | トップページ | 今更ながら、姫路城内観光コース案内 »

2014年6月25日 (水)

幾度かの危機を乗り越えた姫路城

長い歴史の中で、姫路城は、一度も、戦や火災に巻き込まれなかった。そのため、姫路城は、「不戦・不焼の城」と言われ、強運の城とも言われています。それゆえ、国宝や重要文化財の指定を受けた建造物が八十二棟もある。もちろん、姫路城の危機は何回もあった。姫路城は、奇跡的に今まで残ったが、それまで何回も危機を乗り越えている。

戦乱の時代にも、不思議と、この城での戦闘記録はない。官兵衛も秀吉も、館にはしているが、戦場にはなっていない。徳川時代は、もちろん、戦争の記録はない。明治初期になって、ちょっと危ない時期はあった。

徳川家に近かった姫路藩は、鳥羽伏見の戦いが終わると維新政府は旧幕府側についた姫路城に追討の兵を向ける。1500人の兵に囲まれたが、重臣たちは、藩主の酒井忠惇が慶喜に同行して江戸に向かう時、「決して防戦はしてはならない」と言い残していたことも有り、開城の決意を伝えた。

ところが、交渉の行き違いで、男山に陣取った砲列が姫路城に向かって火を噴く。実際は空砲が多かったようだが、実弾も有り、福中門の瓦がいくつか吹っ飛んだ。でも、最終的に姫路藩は降伏し、これくらいのことで終わっている。

ただ、次なる危機がやってくる。明治初期に城郭は無用の長物とされ、有用性がないと指摘された。なぜなら城は保存するのに莫大な費用がかかるからだ。廃城令により、全国の多くの城は取り壊され、あるいは売りに出された。それは姫路城も例外ではなかった。

姫路城は競売にかけられ、当時のお金で、23円50銭で、姫路市米田町の神戸(かんべ)清一郎という人物に落札されたと云う。使用してある金物の価値を見込んだのだが、取り壊しに相当な金がかかると分り、権利を放棄している。

それで、結局、公費で取り壊されることになった。ただ、1877年(明治10年)に、少佐の飛鳥井雅古より、姫路城天守閣の修繕について伺い書が初めて提出された。翌年、陸軍省第四局長代理の中村重遠大佐(高知県宿毛市の出身)が姫路城解体を惜しむ。

彼は豪快だったが、文武に通じていたと云う。それで、陸軍卿山県有朋に、後世に伝えるべき文化遺産だと建白書を提出して訴える。彼が強く訴え続けた結果、漸く理解されて、それが受け入れられ、明治12年(1879)、陸軍省による保存修理が決定。ただ、資金が足りず、大掛かりな修理には取りかかれなかったが、これが保存の一歩になったのは大きいと指摘されている。

1908年には、姫路市民が自分たちで城を守ろうという意識が芽生え、「白鷺城保存期成同盟会」を結成して、保存修理を請願している。その結果、1910年(明治43年)には本格的な保存工事がなされた。天守の傾きを止めるため、筋交い柱や支柱の補強を施した。更に屋根の補修や壁面の塗り替えを行い、外観保持をした修理が行われた。それは1934年(昭和9年。但し戦争のため中断)、1956年(昭和31年)の修理、そして今回の修理に引き継がれている。

太平洋戦争末期、姫路の市街地は米軍機の空襲による焼夷弾で、大半が焼けたのに、城は残った。城に迷彩(擬網)は施されてはいたものの、母は米軍機が姫路城を文化財として保護して爆弾を落とさなかったのだろうと言っていたが、これは間違いで、米軍に、そのような配慮は全くなく、一部爆弾は投下されたが、不発で終わって、助かったようだ。

更に、後で分ったことだが、米軍の予備偵察では、爆撃の範囲に、姫路城は、すっぽり入っていたらしい。米軍は、レーダーで陸が映し出されると、そこに爆弾を投下していたのだが、海が映れば、投下を中止していた。

これは城に、擬網を施したことによる効果だけとは考えにくい。当時、城以外の市街地北部も、海か湿地のような空間と捉え、結果的に陸地と思わず、爆弾を投下しなかったようだ。つまり爆撃を受けなかったのは奇跡で、強運の城と言えよう。運をもらうなら姫路城ということか。

*追記

終戦後、戦地に駆り出された人々が、外地から姫路に戻ってきた。その途中に見る景色は、どこも爆撃で焼け野原。姫路の街も空襲で焼けていると聞かされていた。ところが、姫路の駅に降り立った時、焼け野原が続く中、白い姫路城だけは、忽然と立っていたことにびっくりしたという。実際、戦地から、やっと戻ってこれた親戚の人は、姫路城には魔物のような力があるではないかと感慨深げに語り、これがあるから復興しようと頑張れたと後日語っていた。

|

« 姫路城全景を、どこから見るか | トップページ | 今更ながら、姫路城内観光コース案内 »

姫路と播磨」カテゴリの記事