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2014年7月 1日 (火)

姫路城の楽しみ方 第1回 要塞機能としての城(上)

今回から、現在は地元に住んでるけれど、長く姫路を離れていたので、改めて姫路城初心者として、その楽しみ方について記してみる。地元に居ると、いつでも見れる気持ちから、姫路城について、ある程度知っているが、かえって、あまり深い知識がないこともある。それを以下に記してみる。

姫路城に関しては、多くの書籍や優れたブログ記事もあるので、記事にするのは少し恥ずかしい気持ちもあるが、覚えとして残しておく。姫路城未経験の方は、少し参考になるかも。

現在の姫路城は、1601年に着工し、1609年に完成した。実に、足掛け9年もかかっている。動員された延べ人数は、約2500万人以上と推定されている。池田氏当時は、300石以上の武士が500人余りいて、本多氏の時代になると、足軽、小者まで含めて、約4000人もいた。榊原氏の時代になると若干減って3000人ほど。更に最後の城主の酒井氏の時代になると船手組を合わせても2200人程度に減っていた。

さて、姫路城観光というと、菱の門から入って、櫓をひたすら歩き、「は」の門をくぐって、天守の入り口に入り、天守閣を上るというのが一般的なパターン。最上階まで、ふうふういいながら上り切って、姫路市内周辺をくるりと眺めて、満足満足となる。

もちろん、それでもいいのだが、観光の持ち時間を最大限活かして、城のいろんな風景を見て欲しいと思う。かくいう流風も地元だから、いつでも行けると思って、今まで、そんなに細かい所まで、見ていなかった。今、ちょうど、恥ずかしながら、再確認しているところだ。その辺をブログに記して、姫路城観光初心者の方々の参考になればと思う。

まず、美しい姫路城を見る時、その美しさに捉われて、要塞だという点を忘れてはならないだろう。その要塞機能の中心となるのが、「縄張り」で、黒田官兵衛が得意としたもので、姫路城には彼の考え方も部分的には残っているかもしれない。現在の城の縄張りは、池田輝政が行った。江戸城と似ていると言われる。

その「縄張り」とは、城全体の戦いに備えた戦略的構造のことを意味する。それは城の設計だったり、全体の配置、仕組みを総合的にプランニングしたものだ。よって、その善し悪しで、城が守れたり、攻め落とされたりする。

姫路城の場合は、姫山と鷺山の地形をうまく活かしつつ、複雑巧妙な形を採っている。防御線が三重の螺旋形になった螺旋式縄張りで、頂上にある大天守を中心に南へ左巻きに渦を巻くように構成されている(江戸城は逆)。一周目を「内曲輪(うちくるわ)」、二周目を「中曲輪」、三周目を「外曲輪」と言う。

すなわち、天守閣を中心として、二の丸、三の丸、西の丸という広場がある。そして、内堀、中堀、外堀という三重の堀をらせん状に形成し、防御線をしっかり固めている(一般に、観光で見るのは、内堀のみ。中堀は、現在の国道二号線辺り。外堀は姫路駅辺りと想像してください)。

面積にして、「内曲輪(うちくるわ)」以内で、約23万平方メートル、「外曲輪」まで含めると、約234万平方メートルと言うが、ピンと来ない。甲子園球場のグラウンドの約173倍と例える人もいるが、余計に分らない(笑)。要するに広大な敷地に城があったということ。お城だけを見ずに、そういう中での要塞の城であったと理解してほしい。

次回に続く。

*参考

◎内曲輪

城主の屋敷や役所があった。

◎中曲輪

城の南の大手には身分の高い武士が住み、東の搦め手には、次の位の武士が、そして、城の北には、中級・下級武士が住んだ。

◎外曲輪

身分の低い武士の屋敷があった。

なお寺社は、城の東側に集められ、戦いになった場合は、武士が立て籠って戦えるようにしていた。

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