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2014年7月19日 (土)

二つの「横笛」のこと その五

他方、時頼と言えば、『平家物語』に描かれているように、十九歳で往生院に閉じこもり、仏道修行していた。それは、まるで何かを忘れたいがためのように只管打ち込み、周囲も感心するほどだった。その時の心情を常々、次のように詠っていた。

 何とただ 筧の水の 絶え絶えに

   音づれきては 袖濡らすらむ

その心は「筧の水の音は、所々で切れても、また音が始まるように、人の「訪れ」を繰り返し思わせて、昔のことが思い出されて、ただ涙に曇る」と未練を捨てきれない様子かな。

その頃、横笛の方は、時頼の噂を聞いて、仰天する。ただ、彼女は彼に別のいい人が出来て、捨てられたのではなくて、彼が仏門に入ったことで、少し安堵する。それなら、自分も一緒に、その道を歩むべきかなと思うようになる。

そうは思いつつも、あまりの恋しさに耐えかねて、嵯峨の方を彷徨うのは、『平家物語』と同じ。異なるのは、『御伽草子』では、より心の綾を詳しく記している。探し回るが、なかなか見つからないので、次の歌を詠う。

 せきあへぬ 涙の川の 早き瀬は

   逢ふよりほかの しがらみぞなき

「堰きとめられぬ私の涙の流れる川の早瀬は、最早、あの方と逢うしか手立てはありません」といった感じ。この思いは、眠っている間も続き、ついには、夢で、老僧から、現世で会うことは叶わないとも告げられ目が覚める。

それでも、神仏に祈って、その後も探し歩き、漸(ようよ)う往生院に辿り着くのであった。しかしながら、女人禁制のため、会わせてもらえない。ここで、横笛の長々とした「くどき」とも言える恨みの言葉を連ねる。さすがに、滝口は、これでは、あまりにも無慈悲と思ったのか、せめて声だけはと思い、次の歌を詠いあげる。

  梓弓 剃るを恨みと 思ふなよ

   まことの道に 入るぞうれしき

これに対して、横笛は、嬉しさのあまり、次の歌を返しながら、泣きじゃくるのであった。

  梓弓 剃るを何しに 恨むべき

   ひきとどむべき 道にあらねば

次回に続く。

 

 

 

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