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2014年9月30日 (火)

宰相の後継者選び

春秋時代に、斉の桓公を覇者にした管仲は、宰相の条件を次のように指摘している。

 一、心がしっかり定まって動かないこと

 二、きちんとして正しいこと

 三、誠実であること

 四、欲が少ないこと

ただ、これは「守成」の場合の宰相の選び方であろう。管仲は、どちらかというと、「創業」(実際は創業ではなく、表現的には後で示すように微妙だが、中興の祖に近い。ただ、その仕事ぶりを見ると、創業的だ)に与した宰相だ。彼は、後継者に、国を固める宰相を考えたのだろう。実は、彼が決めた宰相の条件というのは、彼が病の床にある時、後継者を誰にすべきか、桓公に問われた時、答えたものだ。

管仲には、これらの条件に合致する意中の人物はいたし、彼を推薦したのだが、桓公は聞き入れなかった。公は、既に自分が考えた後継者候補を持っていたが、管仲の薦めた人物は入っていなかった。管仲は桓公の選んだ人物たちは、情が無かったり、亡国の人物であったり、取り入ろうと権謀術策を使う人物であるから宰相には相応しくないと指摘したが、桓公は理解しなかった。

桓公は、管仲亡き後、自分の意中の人物を宰相に起用する。しかし、桓公の色好みと嫉妬深さが禍して、彼らが桓公に取り入ろうとする結果、国を亡ぼしていく。というのは、桓公が三婦人、六寵姫に、現を抜かして、政治が疎かになったからだ。

桓公は死亡しても、子どもたちの後継者争いのため、その屍は、2ヶ月以上放置されたと云う。太公望呂尚に始まった斉の国は、桓公の時代に、管仲によって最盛国になったが、彼の死によって、一気に滅んでいった。これらの話は、いろんなことを示唆してくれる。

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2014年9月29日 (月)

『100年前の世界のファッション』展(神戸ファッション美術館)観覧

久しぶりに、神戸ファッション美術館に行ってきた。テーマは、『100年前の世界のファッション』。100年前の世界各地のファッションが、パネル写真と実物が展示されていた。以前より、若干展示に工夫がみられ、企画展のスペースも、少し広く感じられた。

100年前の世界のファッションと言うと、やはり、それは各地での上流階級の女性たちのものだ。もちろん、庶民に於いても、ハレの場面でのファッションは有りうるのだろうが、それでも、ファッションは、身分社会の象徴のようなもの。

現代の様に、誰でも、ファッションを楽しめたということはないだろう。また上流階級の女性たちも、楽しむと言うより、いかに差別化、権威付け化するかが、ファッションの決め手になる。女性の優越感を満足させるものというのは、現代でも同じかもしれない。

もちろん、細部を見て行くと、ファッションには機能的に様々な意味が含まれていることもある。ただ、文化的には、いかに区別していくかが、その起源であろう。それを各国のファッションの違いと進化を見て行くことは、価値があることだろう(*注)。

*注

ただ、今回は、世界と言いながら、全世界ではなく、国(地域)は、まだまだ限られている。調べれば、もっと多様なファッション形態が見られるかもしれない。展示スペースの限界はあるが。

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2014年9月27日 (土)

キンモクセイの花と茨木のり子の詩

先日、外出先から戻ってきて、見ると、キンモクセイの花が咲いていた。そして、今も、いい香りを漂わせている。この枝の切り込みにも強い木は、剪定ミスには、あまり気づかない。ただ気をつけていることは、剪定は、花後ということを守っているだけ。

キンモクセイを見ていると、木は、どのようにして秋を感じ取り、人は、どのようにして、秋を感じるのだろうと思った。そこで、昔、読んだ、茨木のり子の詩が、少し気になった。といっても、熱心なファンではない。うろ覚え。そこで、確か、彼女の詩集を、かなり前に購入したはずだと思いだし、探したが、見つからず。止むなく、書店で探すことにした。

彼女の詩作は、非常に多く、とても全集には目を通せない。ふと見ると、岩波のコーナーに、『茨木のり子詩集(谷川俊太郎選)』というのが、目に入った。ぱらぱらとめくっていると、例の詩が見つかる。ああ、これだったのか。

  題 「詩」

 昔のひとが

 はた と風の音に驚いて

 さらさらと歌に詠んでくれたので

 今の人も気づくのだ

 昨日と今日の風の違いに はたと

 たくさんの詩人が日本の秋をうたってきた

 詩の耳目を通して

 秋を感じてしまっているのを

 私たちは忘れている

 それはいいことだ

  (以下略)

茨木のり子は、人の秋に対する感じ方は、先人の詩によって左右されているとしているのは、確かに意識の中に刷り込まれて、そうなるのだと思う。多かれ少なかれ、過去の文化が、潜在的に意識の中に刷り込まれているだろう。もちろん、暦の影響も大きいのだが。

でも、樹木の場合は、単に気温の変化だけなのだろうか。もっと複雑な条件が重なった結果なのだろうか。彼女の詩(今回、買った詩集を読む限り)では、答えは示されていなかった。彼女は、植物学者ではないのだから、当たり前なのだが。

*参考

  『茨木のり子詩集(谷川俊太郎選)』(岩波文庫刊)

*追記

茨木のり子の上記の書籍を読んでいると、本テーマには「見えない配達夫」の方が相応しいかもしれない。その一部を紹介すると、次のようになっている。

 地の下には少しまぬけな配達夫がいて

 帽子をあみだにペダルをふんでいるのだろう

 かれらに伝える 根から根へ

 逝きやすい季節のこころを

 世界中の桃の木に 世界中のレモンの木に

 すべての植物たちのもとに

 どっさりの手紙 どっさりの指令

 かれらもまごつく とりわけ春と秋には

 以下省略

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使用済小型家電のリサイクル始まる

姫路大手前公園で、「ひめじ環境フェスティバル」が開催されている(平成26年9月28日まで)。環境について、気づく、考える、楽しむという毎年開かれる催し。ゴミ問題は、アジアの国々の中では、日本はゴミ処理先進国だが、更に深化させていく。

その中で、今回は、平成25年4月1日に施行された「使用済小型電子機器等の再資源化の促進に関する法律」に基づき、「使用済小型家電のリサイクル」が、いよいよ実施される案内があった。今まで、粗大ごみとして捨てられ、ごみとして処理されていた物をリサイクルするという。但し、サイズは、回収ボックス50センチ×15センチに入るものとしている。回収ボックスは市役所、支所、出張所等に設置される。

対象とする回収物としては、携帯電話、ノートパソコン等、電話機、デジタルカメラ、DVDレコーダー等、デジタルオーディオプレーヤー等、USBメモリー等、電子辞書、ゲーム機、カーナビ、電子書籍端末、電卓、電子血圧計、電子体温計、理容用機器、懐中電灯、時計、ゲーム機、カー用品、付属品等となっている。

ただ、粗大ごみとして、排出することも可能としている。その時は、ごみとして処理される。課題としては、指定場所まで、捨てに行く手間が、ちょっとという感じかな。

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自分の意見を通すには

昔から、ゴルフ営業というのがある。得意先や新規開発したい顧客になりうる人物をゴルフ接待するものだ。ゴルフをするということは、長時間、行動を共にする。もちろん、その後の食事もある。こうすることによって、人間関係は急速によくなる。これで営業は、極めてしやすくなるというものだ。

さて、自分の意見を通すには、歴史上の人物も苦労している。殷の湯王(とうおう)の名宰相と言われた伊尹(いいん)も、最初は認められるまで時間がかかっている。実は、王に意見を具申し続けても、一向に聞いてもらえなかったのだ。

彼は意見が、なかなか通らないので、ついに王のために、三度の食事の準備を自らしている。その上で、王の好みを知り、生活思考を熟知した。王の方も、伊尹の人柄を理解し、信用するようになった。そこで、改めて、意見を具申すると、ことごとく意見は通ったと云う。

人間関係を築くというと、難しそうに聞こえるが、基本は極めて単純。対象の人間をよく知るために何をすべきか考えて行動すればいい。意見を言う前にすべきことがある。

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2014年9月26日 (金)

第54回姫路美術協会展を観覧

イーグレ姫路で、『第54回姫路美術協会展』が開催されていると聞いて、観覧してきた。日本が、洋画、彫塑、工芸、写真、書、デザインが、200点弱出展。

流風が見た限りでは、書と写真がよかった。書については詳しくないが、何となくいいと感じたものが多かった。どれも秀作揃い。これほどにいいと感じた展覧会は少ない。姫路には、優れた書道家がたくさん、いらっしゃるのかもしれない。

写真についても、割とよかった。流風は写真嫌いだし、写真の趣味はないが、全体的に対象の選定と構図がよかったと思う。なかなかのセンスだ。彫塑、工芸、デザインについては、あまりよく分からなかった。

日本画と洋画は、個人の好みの問題だが、1,2点を除けば期待外れ。題材の取り方、構図も、これと言ったものはなかった。それに、なぜか、全体をぼかす手法が多く取り入れられていた。あの霞がかかっているようなやり方だ。どれも同じ様に感じられて、いいとは思わなかった。もちろん、流風なんて評論する資格もないのだが。

まあ、入場料は只だし、これ以上記すのは止めておこう。秋晴れの中で、美術展観覧は、一つの贅沢。お城見物の帰りに寄ってみて損はないだろう。平成26年9月28日まで。

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2014年9月25日 (木)

秋の端唄 その二

昼は、天が高く、秋らしく、すっきりした空。夜は、段々闇が深くなる。そういう秋の端唄「秋の夜」。

秋の夜は

長いものとは

まん丸な

月見ぬ人の

心かも

ふけてまてども

こぬ人の

音ずるものは

かねばかり

かぞふるゆびも

寝つ起きつ

わしや

てらされてゐるわいな

異性を待つ気持ちは花柳界の女性でなくても、誰でも、こんなものだろう。そして待ちくたびれる。そんな長い秋の夜も、やがて更けてくる。でも、待ち人があることは嬉しいことよ。

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秋の端唄 その一

最近は、端唄を唄う老人も少ない。そういう風情と言うか、遊び人は減ったのかもしれない。昔は、花柳界で浮名を流して散財し、その時に覚え習った端唄を思い出して謳うというパターンは、各地で見られたようだ。

今回は、秋の端唄を紹介しておこう。

 ぬしのたよりを

 わしや菊月の

 月より心は

 うはのそら

 とんとこのごろ

 蘭菊の

 おまえはわたしを

 捨菊や

 そふいふき菊と

 しら菊と

 ほかのつまをば

 かさねぎく

 まだ秋はてる

 ころでなし

 月にばつかり

 うかれずと

 雁にもたよりを

 しやしやんせ

秋を象徴する菊。まだ白い菊も黄色い菊も咲いていないけれど、秋や菊に言葉を重ねる技。飲み屋の姉さん方も、季節に合わせて、これくらい、洒落た歌を詠って欲しいものです(笑)。

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2014年9月24日 (水)

地方の文化施設への交通の便の悪さ

今回は、地方の文化施設への交通の便について記してみたい。地方に行くと、文化施設のある場所は、交通の便が相対的に悪い。駅から遠い所にあることが多い。基本的に、車での移動を前提としているためだ。

電車で移動して、駅に降り立っても、バスなどは、一時間に1本あればいい方だ。ひどいところになると、朝晩各1便しかない。まるで、来るなと言われているみたい。タクシーがあればいいのだが、呼び出し電話も駅に無いことが多い。

よって、車以外で地方の文化施設に行くには、団体旅行ぐらいしかない。もちろん、計画的に旅行した場合も問題はないだろう。それは、どうしても行きたいと思った人が、不便な交通を利用して行くぐらいだ。結果的に、地方の文化施設は、団体旅行客が来ない限り、どこも閑散としている。

これからの文化施設は、駅周辺に集めるのが望ましい。あるいは、それなりの交通の便を考えるべきだろう。もちろん、ある程度は徒歩でいける距離であれば問題ない。それでも徒歩10分以内だろう。既に不便な所にある文化施設をどうするのか、地方の裁量が問われる。

*追記

地方創生は、地方の駅前・周辺開発がポイントと思う。どんな小さな駅でも、その周辺開発をして、地域住民・観光客の利便性を高めることは大切だ。その上で、「道の駅」と繋いで、線・面開発をしていくのがいいのではないでしょうか。

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2014年9月23日 (火)

軽い罪に重い罰のためには

一般に、重い罪に重い罰、軽い罪には軽い罰と考えられている。それが法治の基本と考える人は多いかもしれない。しかしながら、大きな犯罪の元は、小さい罪だ。それを軽い刑にするから、段々犯罪が悪質になる。

ここで言う「犯罪」とは当局に逮捕されるものだけではない。法律すれすれの行為でも、社会に不安を与えれば、厳しく取り締まる必要がある。法の適用範囲は幅があるが、あまり寛大になり過ぎると、よくないことを考える人々がいることを忘れてはならない。

よって、軽い罪に重い罰というのも有りだ。これは見せしめと言えないこともない。軽犯罪のようなものでも、厳しく罰することは無駄ではない。大きな犯罪の予防になる。

そうすれば、国民の方は、考える。それは家庭教育にも及ぶだろう。往来しぐさも改善するかもしれない。例えば、道路の真ん中を歩く行為も減るかもしれない。道で、人が行き違った時は、相手を尊重する意味で軽く会釈し、お互い道を譲ったり、雨が降っておれば、傘かしげもするだろう。

あるいは、清掃されている町や街では犯罪が少ない。家の周辺の手入れも、もっときちんと行うかもしれない。家の周りをきちんと手入れしていれば、人の気配を察して、心理的に防犯の役目を果たす。そうすれば、自然と周囲にも関心を持つようになる。

冤罪は極力避けるべきだが、軽犯罪のような軽い罪であっても、厳しく取り締まることが望まれる。現在、交番が減っているが、望ましいことではない。一般警察組織とは切り離して、地域に根差した警察組織は大切だ。それに見合った組織、評価体系や俸給体系が求められる。結果的に、一人ひとりが、生活の姿勢を正すことは社会にとって意味の有ることだろう。

*追記

本日だけでも、自転車の右側走行が、1時間あまりの間に、6件も見られた。こういうことを放置している限り、よくならない。きちんと罰金が科されれば、それだけ各種事故を防げ、社会は改善されたことになる。

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2014年9月21日 (日)

『游墨会水墨・墨彩画展』(明石市立文化博物館)観覧

水墨画は観るのは好きだが、自分で描いたことはない。子どもの頃、習字を習っていて、あまり面白くないので、筆で落書きしていたら、父から、そんなことをさせるために、学ばせているのではないと、叱られた。それ以来、筆で描くということはしていない。親の何気ない言葉は、一生の枷になる。

さて、明石の明石市立文化博物館に行った時に、入場料無料の催し『游墨会水墨・墨彩画展』を鑑賞してきた。師匠と弟子の作品展だ。こういう催しは各地でされていることだろう。姫路市でも、イーグレ姫路で、よく催されている。誰でもそうだが、少し習えば、その成果を発表したいもの。今回も、作品の出来は様々。強い主張の有るもの、高齢者が描かれたような枯れた感じのもの、プロに近い作品といろいろあった。

ただ、少しびっくりしたのが、神戸時代、作品展を観て、絵葉書も購入したことがある、「吉織葉月」氏の賛助作品が出品されているのだが、「故人」になっておられたことだ。当時、年輩者ではあったが、若々しく元気な女性と感じていた。絵の方は、男の描くようなしっかりしたもの。年賀状をもらったこともある。改めて、ご冥福をお祈りする。それにしても、人の命は儚い。悔いのない人生を送りたいものだ。

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『私の好きな やきもの展』(明石市立文化博物館)観覧

例年、明石市立文化博物館で開催される『私の好きな やきもの展』を観覧してきた。日本陶磁協会明石後援会主催によるもの。いつものことだけれど、見ごたえのある陶磁器が55点、展示されていた。もちろん、好き嫌いはある。でも、これだけ、いろんな陶磁器のボリュームで展示されることは少ない。

桃山時代のもあれば、江戸時代初期・後期・末期、明治・大正・昭和の作品もあり、期間も広い。その他に、タイ、ベトナム、中国(明代)の作品も展示。現代の作品も少し展示。よって、いろんなキャラクターの陶磁器が並んでいる感じ。的を絞った展覧会もいいが、こういった総覧的な展示も、時には違いが分って面白い。

入館料は、何と無料。平成26年9月28日まで。

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『明石藩の世界Ⅱ』展(明石市立文化博物館)観覧

昨年の『明石藩の世界Ⅰ』展に続き、『明石藩の世界Ⅱ』展が、明石市立文化博物館で開催されているので、観覧してきた。今回のテーマは「藩士の日常」。

この催しは、前回も記したが、旧明石藩主の松平家ならびに重臣であった黒田家のゆかりのものが明石市に寄贈されたから。一挙に解読研究できないので、予定では3回に分けた催しになっている。

今回の催しは、「藩士の日常」で、「藩士の衣食住」、「藩士の慶弔と年中行事」、「黒田家の私生活」、「明石藩主松平斉韶」、「黒田家のあそび」、「黒田家日記からみえる藩士のうごき」等から成っていた。

観覧した限りでは、藩士たちの生活は、質素な感じだ。衣服も粗末だ。ハレの冠婚葬祭などメリハリをつけながらも、日常のケの生活は地味だったと推察される。また少し気になったのが、明石藩主松平斉韶のいろんな事情での隠居後の行動。完全に隠居というわけではなく、明石藩をきちんと見ている。やるべきことは、やりながら、趣味に生きたようにも見える。

展示スペースは、一階でそんなに広くはない。ただ、各解説文の文字が大きくて、よかった。でも、現物に何が記してあるかは、明確には分らないので、以前と同様、解説がされた100ページ程度の図録(800円)を購入。これから読み込む予定。これから行かれる方は、観覧だけでもいいとは思うが、理解を深めるには、図録は必要と思う。

入館料は大人200円。平成26年10月13日まで。

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国の分裂は国家の弱体化の象徴

国の分裂は国家の弱体化を象徴している。今回の英国のスコットランド独立運動も、そうだし、スペインでもカタルーニャ独立運動が起こっている(*注)。米国でも、地域外への税金の支払いを拒否する“国内国家”の出現がある。

多くの理由は、自分たちは、国に貢献しているのに、見返りが少ないから、独立するというものである。ただ、第三者から見れば、自分たちさえ、よければいい、というような短絡思考が見え隠れする。

だが、凡そ、自己の存在は、一人では生きられないのは明らか。誰かに貢献して、回りまわって自分に恵みが来る。彼らの独立志向は、ある意味、わがままに近い。もちろん、それぞれの国には、政策の歪みがあるのかもしれない。

国内に、そういう騒動が持ち上がるのは、国の政治力が衰え、国家が弱体化の方向にあることを意味している。それを無理やり抑えつけるやり方もないではないが、常に危機を孕むようになる。

それでも、小国の独立国家が行く末は、どこも厳しい。皆が皆、民族自決などと言い出したらキリが無い。多少の違いはお互い認めて、国家として守っていくことは意味有ることだろう。

それにしても英国の弱体化は目を覆う。第二次大戦後の大英帝国の崩壊は、かつて植民地に旗として残ったが、今後も独立問題が出るようであれば、国家としての凋落は止められない。国連の常任理事国としても相応しくなくなる。改めて『大国の興亡』(ポール・ケネディ)を読み直してみたくなった。

*注

先進国の独立運動は、その他に、英国の北アイルランド、カナダのケベック、ベルギーの北部オランダ語地域等がある。これらの地域の動きは、日本にも影響するので、常々観察しておく必要がある。

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2014年9月20日 (土)

寄付・ボランティア依存の政策でいいのか

あの阪神淡路大震災以後だと思うが、我が国でも、各地の災害被災に対して、寄付やボランティアが定着した。困った人々を助けようとする、その気持ちは尊重するし、実際、被災者にとっては大変ありがたい。ただ善意には限界がある。

国や行政の動きを見ていると、寄付やボランティア前提の政策が時に見え隠れする。それは明らかにおかしい。善意は善意だ。政治と善意が、交わることはない。国や行政は、決して、寄付やボランティアという善意に甘えてはならないだろう(彼らは決して、そういうつもりではないと言うだろうけれど)。

*追記

もちろん、災害に対しては、国や行政にできることは限界がある。ただ善意にしろ、行政にしろ限界があることを皆が再確認しなければ、誰も将来に対して備えないし、共助の精神も養えないと思うのだ。善意に甘えてはならないのは、何も国や行政だけではないのも確かだ。

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2014年9月19日 (金)

姫路市が姫路城「中曲輪」内の整備に動く

姫路市が、姫路城「中曲輪」内の整備に動き出すようだ。そもそも、2011年3月にまとめた「特別史跡姫路城跡整備基本計画」では、2020年度までに整備を行うと定めていたという。「中曲輪」とは、姫路城の内堀と中堀の間で特別史跡に指定されているもの。観光客を呼び込むためにも、早く整備して欲しいものだ。

市によると、「現在の施設では、歴史的・学術的価値や、城下町の歴史や暮らしを学習できる機能が低い」ので「市民や観光客が、城への理解を深める環境作りが重要」としている。また「城関連の資料の体系的収集」や「市立美術館や城内図書館といった既存施設の機能向上」を課題としている。その上で、「城周辺の回遊性を高める」方策の必要性に言及している。

これらの動きは評価できるが、更に市立文学館、県立歴史博物館も含めて検討して欲しい。市立文学館については、以前にも記したが、「(仮称)姫路市立播磨歴史文化博物館」に転換することが望ましい。また県立歴史博物館も姫路市に無償譲渡してもらって、展示内容も姫路城及びお城関係の内容に再編して、「(仮称)姫路お城の博物館」にすることが望まれる(*注)。

その他には、武道との関連で、兵庫県立武道館とか、馬術クラブとの連携も望まれる。また姫路お城まつりで見られる、殺陣師を活用した時代劇村の創設も望まれる。そして、それら全ては、基本的に観光客参加型の仕組みを作ることが望ましい。そのようにして、新たな人の動きを作って、姫路がもっと活性化されることを望む。

また各施設をつなぐ交通システムも大切と思う。観光客の回遊を促すには、気軽に利用して動けることが必要。ループパスもいいが、時間的に制約が多く、持ち時間が限られた観光客向けに、多様な要望(人数、予算)に応えられる城周辺観光タクシーの充実も求められる。

*注

県立歴史博物館は、非常に好い施設とは思うが、割と利用されていない。観光客の認知度が低いこともあると思うが、立地上のハンディもある。それに一般に、お城を見学してから、わざわざ見に行くことは可能性が薄い。姫路城との関係性を活かせていない。

よって、仮に、県立歴史博物館にある、お城関係の展示品を移設して、新たに「(仮称)姫路お城の博物館」を造るとすれば、姫路駅前か、現在ある「ひめじの黒田官兵衛大河ドラマ館」(家老屋敷跡公園内)のある辺りが望ましいが、姫路駅前には、適当な場所が無いし、今回の中堀内となると条件も違うから適当でない。また家老屋敷跡公園内は仮設になってしまうので、あまり宜しくない。となると、イーグレ姫路か、姫路城情報センターの拡充ということになるかもしれない。個人的には、大手前通りに面した施設の方がいいのではと思う。

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納豆のタレは必要か

かなり前から納豆を常食している。若い頃、関西人の流風が納豆を覚えたのは、あの牛丼屋。朝定食にあったから。初めは、少し勇気がいった。食し方も分らない。周囲の人の真似をして、こうして食べるのかと思ったものだ。それ以後、よく食するようになった。

初め見た食べ方は、納豆に、ウズラ卵、ネギ、おかか、辛子、醤油をかけて、ぐるぐるかき混ぜ、御飯にかけていた。その後、ウズラ卵を抜き、ネギもおかかも止め、最近は、辛子も醤油もかけない。要するに納豆のみ。

ところが市販されている納豆のほとんどがタレが付いている。全てゴミ。タレ要らないから、その分安くして売ってくれないかな。そんなことをしたら付加価値を付けられなくなって、儲からないという声が業者から聞こえそうだが、納豆自体の品質を上げれば、それは可能では。

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2014年9月18日 (木)

官兵衛創作人形展観覧

大河ドラマ「軍師 官兵衛」は、後半に入って、舞台は、播磨から福岡に移ってしまったが、姫路の官兵衛熱は、冷めない。姫路各地では、まだ様々な催しをしている。今回は、たまたま寄った兵庫県立歴史博物館のロビーで催されていた「官兵衛生誕の地 播磨 創作人形展」に遭遇。

人形作家、萩野美功代(はぎの みさよ)氏によるもので、紙粘土、古布、和紙などによって作られている。官兵衛幼少の頃、御輿入れ、幽閉された時の様子、黒田24騎等、黒田官兵衛の生涯が蘇る。ドラマの各場面を彷彿とされるものが多く展示されていた。

観覧料は無料で、歴史博物館がオープンしている日程で見られる。平成26年9月24日まで。

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色紙絵を「栗」にする

朝晩が、涼しくなってきたので、色紙絵を「朝顔」から「栗」に変更した。朝顔自体は、まだ咲き続けているが、そろそろ終わりかけ。秋の絵としては、何がいいか、迷ったが、「栗」にした。籠に盛った割れた、いが栗と、籠の外に、こぼれ出た剥き栗。なかなかの構図。秋に相応しい、いい雰囲気にしてくれる。後は、早く口にしたいだけ(笑)。

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2014年9月17日 (水)

現代の煽り商法

人々の不安を煽って、ビジネスを展開する商法がある。多くの詐欺商法は、そういう不安心理に付け込む。人々は、多かれ少なかれ将来に不安を抱えていることは確かだろう。将来のことは誰も分らないから、それは仕方ない。

しかしながら、それを煽るような商法が堂々と許されていいのか。例えば、現代で、典型的なものが、生命保険関係であろう。先日、某生命保険大手が、夫婦二人が老後に、ゆとりある生活を過ごすに必要な生活費は、月30万円以上と煽った。意識調査の上での結果というが、アンケート自体に問題はなかったのだろうか。

もちろん、老後に、たくさんのお金があり、余裕の有る方がいいのは確かだろう。だが、「ゆとり」とは、何だろうか。それに対する個人の考え方は、大きく異なる。例えば、都市部に住むのか、田舎に住むのかで、経済的にも大きく違ってくる。また、生活自体も、何を以て、ゆとりと言えるのか。

また、アンケートした対象者は、どのような人たちなのだろうか。一流会社勤めか、そうでないのか。彼らは、凡そ、自分たちと同じレベルの生活者を対象として、アンケートを出しているのだろうか。

将来の経済状態は不透明で、誰も分らない上、アンケート対象者も不明。誘導された質問内容で、情報は操作される。不安を煽る商法は、もういい加減に止めるべきだろう。むしろ、個人においては、必ずしも必要ではない生命保険の見直しが必要だろう。彼らの商売に煽られてはならない。

生命保険会社も、高度成長期の手法から脱し、真に顧客に役立つ情報を流すよう努めるべきだろう。多様化した意識の顧客に、柔軟に情報発信することが大切で、旧態依然とした手法では、生き残るのは困難であろう。

*追記

彼らが作ったアンケートデータは、各金融機関に販促資料として利用され、数値だけ一人歩きして、拡散する。その結果、人々は余計に不安になり、貯蓄に回して、消費に回されない。生命保険業界の我田引水が、デフレ解消の重荷になる。毎回、迷惑なことだ。

見方によれば、保険業界と金融業界は、ライバルであり、同時に現在は共存関係にある。呉越同舟とも言えるが、敵側の作ったデータを利用しているのが、金融機関。そして金融機関も保険商品を斡旋している。

ということは、保険に入るか、貯金するか、迫られているとも言える。若い人たちは、彼らにカモにされないよう、じっくり商品を精査評価し、考えよう。自分でできないのであれば、独立系のファイナンシャル・プランナーに相談するのがいい(有料だけれど、長期に見れば、割に合うはず)。ついでに言えば、単身者や一線を引いた定年退職者は、保険より貯蓄の方が大切だろう。

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2014年9月16日 (火)

芸能界の犯罪に甘いマスコミは姿勢を正せ

芸能界の犯罪にマスコミは依然として甘いようだ。スポーツ界では犯罪を犯せば、永久追放になる場合もある。子どもたちの規範となるべきだから、その制裁は当然だろう。それは芸能界も同様だろう。子どもたちは、芸能界の動向を注視している。

よって、芸能界だから、特別扱いをマスコミが許してはならないだろう。むしろ一般人より厳しい制裁が必要だ。やはり事件を起こしたり、犯罪行為をした芸能人は、マスコミから永久追放する措置を講じなければ、マスコミ自体が疑われるようになるだろう。

『韓非子』に、「盗賊を恵むものは、良民を傷(やぶ)る」という言葉がある。悪に対して、寛大な態度を取ると、それは禍を生むのだ。悪を徹底的に排することは必要だ。また、何かと悪い誘惑の多い芸能界は、人材の質の管理に、より一層努力することが求められる。なお、犯罪を犯した芸能人について、同情的な発言をする芸能人も、同様に謹慎・再教育させるべきだろう。それは、彼らが犯罪予備軍になりかねないからだ。

*追記

現在は、事件を起こした芸能人について、大騒ぎして、過剰に報道する例が多いが、早期に「永久追放」の措置を講ずれば、該当芸能人の扱いは、「一般人」になり、現在のような意味のない報道も必要がなくなるだろう。

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2014年9月15日 (月)

落ち葉の下

朝晩は涼しく、昼は暑いという状況が続いている。ただ、もう少しすれば、本格的な秋だろう。そして、今年は、冬が早く到来しそうな感じである。間もなく、落ち葉が増えるかもしれない。

今の話ではないが、初春の頃、落ち葉を集めていたところを少しはぎ取ってみると、蛇がいた。冬眠していたのかもしれない。あわてて元に戻した。彼らも寒さに耐えて、冬を越したのかもしれない。

さて、人は誰でも、下積みの時代はある。それを無理やり避けたところで、いいことはない。下積みを経験するから、偉くなっても、下積みの気持ちを、くみ取ることができる。『荀子』に、「居るところの隠ならざる者は、思うこと遠からず」とも見える。今が辛いと、目先ばかりに捉われている者は、大したことができない、ということだ。

また、古歌に次のようなものもある。

 行く末は 海となるべき 谷川も

  暫し木の葉の 下くぐるらむ

将来への大望を抱きつつ、今は人に仕える「困難」に耐える。「困難」の種類は、人それぞれだ。やりたくない仕事、嫌な上司、理解してもらえない葛藤、面倒な人間関係等々。でも、それも一つ一つ乗り越えてこそ、未来はある。それには、まず与えられた仕事で、問題意識を持つことだ。

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2014年9月14日 (日)

幸せを呼ぶ「無財の七施」について

先日、「無財の七施」の「房舎施」を紹介したが、その他の六施についても簡単に記しておこう。そもそも「無財の七施」は『雑宝蔵経』にあるもの。現代的には、幸せを呼ぶ七つの言葉と言えようか。無財の施とは、お金をかけずに、他者に施しができること。それが七つある。流風的解釈で示しておこう。

一、眼施

目の印象は他者に深い影響を与える。昔、上司に、顔は笑っているが目は笑っていない人がいたが、部下としては、心を許すことは出来なかった。そのようにならないように、普段から、穏やかな目つきにすることが求められます。そのためには、普段から素直な心を持つことが大切と言われます。そうすれば、他人に、いい印象を与えます。

二、和顔悦色施

単に「顔施」という場合もあるようです。笑顔は、人を惹きつけます。それは幸せをもらえるという感覚になるからでしょう。結果的には、人が集まります。まさに、「笑う門には人来る」状態になる。いつも笑顔というのは、男は、なかなか難しいですが、女性は必須かもしれません。笑顔の少ない女性はパートナーに選ぶなという先人の言葉も有ります。また男の方は、女性の笑顔が絶えないよう努めることは求められます。

三、言辞施

基本的に前向きな言葉で、明るい雰囲気を醸し出すこと。言葉で、自分を暗くしたり、周囲を暗くさせない。例えば、陰口を言ったり、愚痴をこぼさないこと。また危機に遭っても、積極的思考をする。

四、身施

以前、商売人の行動原則を「腰低く、腰軽く」と紹介したが、別に商人でなくても、立場に関係なく、身体を他者より早く動かして、テキパキ行動し、動くことで他者に貢献する。

五、心施

基本的に、真心で人に接すること。それ以上の説明は不要でしょう。

六、床座施

文字からすると、他人に席を譲ること。譲って、譲って譲り続けると、やがて、自分の席ができる。自然と譲られる雰囲気になるのです。相手を尊重し、謙譲の精神を持っていると、万事うまくいくということではないでしょうか。何でもかんでも、自分が、自分がとやっていると、やがて人は去っていきます。

七、房舎施

前のブログで紹介しましたが、房舎とは住まいのこと。住まいや身の回りをきれいにしておくこと。これが他者にいいい印象を与える。結果的に人が集まる。また、そうすることで心身の健康も保てる。

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2014年9月13日 (土)

都市脳と地域脳

民放の某元アナウンサーが、最近の一部若者が農村志向しているのを批判していた。農業で飯は食えないという見方だ。都会で暮らしていると、上から目線で、昔の田舎感は抜けないかもしれない。それを仮に都市脳と言ってみよう。そういう区分で見ると、都市脳と地域脳というものがあるかもしれない。

都市脳というのは、都市に住んでいると養われる感性や考え方だ。都市は機能的には便利に作られている。よって個人は、他人に依存しなくても、なんとか生きていける。そして、度々、誤解する。自分ひとりで何とかなると。しかし、裏では見えない多くの人たちが支えている事実がある。ところが、それが分らなくなる。便利さが当たり前と錯覚しているのだ。

こういう人たちを「都市バカ」というのだろう。日常的に、それが当たり前になると、それが現実と錯覚する。それでも、多くの人たちは、便利な機能がある都市を目指してきた。便利さを求めるのは、「脳」の指令だと言う人もいる。

逆に、地域脳というのは、基本的に広い土地に少ない人たちが住んでいる。よって全てのことを自分だけでこなすのは困難。よってお互い助け合うようになる。だから、人間関係の密度は自然と高くなる。結果的に、親類縁者のような錯覚に陥る。ある部分では、息苦しい面もある。

またお互いの依存心も高くなる。その中でリーダー的存在がいると、タテ社会になりがちだ。地域は都市から来た人を受け入れる場合、思考の違いをまず理解することが求められ、徐々に地域に溶け込めるような配慮が必要だ。

都市脳、地域脳、それぞれいい面もあるし、課題もある。現代人は、両方の脳を持つことが求められているのではないか。そういうことを自然にしている人もいるけれど、冒頭の某アナウンサーのように感覚が麻痺している人もいる。でも、これは案外、多くの都会人がしているかもしれない。また地域の人も、都市の人々の思考は理解する努力も求められる。いずれにせよ、若い人たちが、地域に行って、農業に新風を吹き込むことはいいことだと思う。

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2014年9月12日 (金)

本来の趣旨と異なる姫路文学館は廃館に

姫路市には、あの安藤忠雄氏設計による建物の姫路文学館がある。地域の文学館としては立派すぎる施設だ。しかしながら、その催しは疑問が多い。姫路及び播磨地区の文学者の紹介は常設展にしているが、それとは別に定期的に企画展が催される。

しかし、その企画展、全く姫路とは関係ない催しが多い。要するに地元の文学者とは関係のない客寄せの催しだ。本来は、姫路の文学者(広くは播磨関係の文学者)の企画展の充実が求められるのだが、姫路の文学者ではなく、全国的に有名な作家とか漫画家によるものが最近は多い。

これは本来の地域の文学館の有るべき姿ではあるまい。地元出身の文学者の展覧会は、それほどなく、おざなりになっている。今のままでは、この文学館は閉館せざるを得ない。そして、別の文化施設に衣替えする必要があるだろう。

それは例えば、現在の姫路市立美術館(移設か廃館が求められる)を閉館した場合を想定して、地域の美術館機能も併設した「(仮称)姫路市立播磨歴史文化博物館」ぐらいが、いいかもしれない。いずれにせよ、今のままでは、大幅な改変が求められる。地域の特色を無視した文学館は不要であろう。

*追記

姫路市は、播磨地区の地方中枢拠点都市を目指しており、文化施設も、見直し、改廃する必要に迫られることは明らかだ。文化施設は、地域を特徴づける施設にする事が求められる。

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2014年9月11日 (木)

この世の中のこと~『菜根譚』より

この世の中で幸せになるには、一つの法則があると『菜根譚』は指摘する。それは次のようだ。

一苦一楽、相磨練し、練極まりて福を成すは、

その福始めて久し。

一疑一信、相参勘し、勘極まりて、知を成すは、

その知始めて真なり。

訳すると、次のようになるかもしれない。

「苦しんだり、喜んだりしながら、その果てに行きつき成した幸福は、いつまでも続くものだ。また、ある時は疑い、ある時は信じ、これを繰り返し、深く考えて得た知識は、真実になる」と。

人生は、すぐには答えが無いということかな。また答えを急ぐなということかもしれない。

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2014年9月10日 (水)

『お気に召すまま』再読

シェイクスピアの『お気に召すまま』を読み直してみた。この喜劇は、割と気楽に読める。そして、楽しい。特に、ロザリンドという旧公爵の娘の言葉が面白い。彼女は、オーランドウに恋するのだが、今回は、男装したロザリンドが、自分の本心を隠して、オーランドウに恋の手ほどきをする場面を取り上げよう。オーランドウは、ロザリンドが男装していることは知らず、ロザリンドへの恋の告白の練習をしている。

彼に、「彼女を我がものにした上は、いつまでも離さないでいるか」と問うと、彼は「永遠に、一日の限りまで」と答えたのに対して、ロザリンドは言う。原文では、次のようになっている。

Say 'a day',without the 'ever.' No,Orlando;

men are April when woo,December when they wed;

maids are May when they are maids,but the sky

changes when they are wives.I will be more jealous

of thee than a Barbary cock-pigeon over his hen.

more clamorous than a parrot against rain, more

new-fangled than an ape,more giddy in my desires

than a monkey:I will weep for nothing,like Diana

in the foutain,and I will laugh like a hyen,and

that when thou art inclined to sleep.

要するに、男も女も、恋している時はいいが、結婚してしまえば、お互い変わると言っている。それは全世界共通のようだ。特に女性は嫉妬深いし、ちょっとしたことで騒ぐし、浮気っぽく多情になり、男が気分いい時を狙って泣いたりする。また眠りたい時に、話しかけ笑いかけてくる。男には、そういう難儀が待ち構えていると。

どうも、これはシェイクスピアが、男装のロザリンドをして言わしめている感じ。多くの男は、同意するだろうから笑いを取れる。そんな感じかな。シェイクスピアの作品は、通読するのもいいが、人物に絞って、その発言だけを読み取っていくのも面白い。

*参考

シェイクスピア作 『お気に召すまま』 阿部知二訳(岩波文庫)

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2014年9月 8日 (月)

「書写山」の早口言葉

早口言葉は、ボケ防止に役立つそうだ。発声という意味ではカラオケも悪くないのだろうが、過ぎれば、喉を傷める。その点、早口言葉は、どこでもできて、脳の活性を促す。今回は、姫路市の書写山を題材にした早口言葉を紹介しておこう。

 書写山の沙猩々(しょうしょうじょう)、

 上方(じょうほう)僧 書写山

 社僧の総(惣)名代、

 今日の奏者は、

 書写じゃぞ書写じゃぞ、

 沙猩々。

とりあえず、3回言ってみましょう。ご存じない方は、早口言葉にリストアップをして、広めてください。また姫路の書写山に登った折りには是非(笑)。

*追記

出典は、よく知らないのですが、京都の歌謡、上方地唄三弦曲「ごんぎゃう寺」ということです。

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2014年9月 7日 (日)

金にきれいな政治家

政治家に金にきれいになれと言っても、なかなか難しいようだ。最近は、地方の県会議員レベルでの不適切な金の使い方を指摘されているが、それはずっと前から続いていたようだ。政治家は、国民の税金を使っている感覚が薄いのだ。

確かに、政治家は清濁併せ呑む面も否定できないが、昔のような慣習は最早許されない。改めないと、まともな政治家を追い込むことになりかねない。悪貨は良貨を駆逐すると言うが、悪い政治家が良心的政治家の活動を不活性にしかねない。

そこで思い出すのが、西郷隆盛。彼は金に淡白な政治家の代表だろう。征韓論を唱えたが、意のままにならず、鹿児島に帰る。その時、東京の邸宅を処分する。買い取りを部下に相談すると、買い取りたいという金持ちが現れ、「いくらぐらいをお考えか」と言ってきた。

その時、物価は上がっていて、邸宅の価格も、かなり上昇していたが、西郷は「買値でいい」と言ったので、金持は目を丸くしたと言う。「いくらなんでも、それでは」と金持ちが言うと、隆盛は、「いやいや、拙者は商人ではないから、金儲けするわけではない。それでいいのじゃ」と答えた。今時の政治家も、西郷を見習って欲しいものだ。あまりにも政治を職業(生業)とする政治家が多過ぎる。

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2014年9月 6日 (土)

『じゃじゃ馬ならし』再読

シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』については、以前にも取り上げたが、先日、映画をDVDで観たところ、かつて読んだ印象と、やや観点が違うのではないかと改めて再読してみた。ご存じのように、『じゃじゃ馬ならし』は、美人だけれど、妹ビアンカと違って、親にも手に負えないじゃじゃ馬のカトリーナ。

もちろん、結婚相手は見つからない。そこに父親の知人の息子、ペトルーキオーがやってくる。彼は、嫁探しに、どんなじゃじゃ馬でも構わないと言う。俺の手で飼いならすと自信ありげに言うので、それではと、結婚話がトントン拍子に進むが、カトリーナは、なかなかの難敵。

それでも、ペトルーキオーは、へこたれずに、彼女を鍛え直し、やがて意のままに操るようになる。ついには、カトリーナは、多くの女性の前で、滔滔と、ご主人に仕える大切さを論じて、彼女は、ついにペトルーキオーに飼いならされたということで終演となる。

一般的には、そのように理解されているが、深く読んでいくと、実は、女性は、その上を行っているようだ。というのは、カトリーナは、飼いならされているふりをして、逆に、ご主人をコントロールしている、というのがシェイクスピアの深意のようだ。これは、まさに戦前の日本の賢婦人のやり方。賢い女性というのは、世界共通のようだ。

ただ、じゃじゃ馬も、鍛え方で賢夫人になるけれど、誰でも、そうなるのではないということをお断りしておこう(笑)。

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2014年9月 5日 (金)

大交流時代のリスク~デング熱

代々木公園でのデング熱が問題になっているが、今まで、このような問題が出なかったこと自体不思議だ。多分、今までにも似たようなことは起っていたのだろうが気づかずに終わっていたのではないか。

島国の日本では昔から、病は海外からやって来ると言われてきた。鎖国時代はともかく、現代のような大交流時代には、海外から人が病を持ちこんでくる(デングウイルスは人から人に伝染することはないようだが蚊を媒介として伝染する)。それを食い止める仕組みは不十分だろう。人の防疫システムは、今後は、もっと精度の高いものが求められるかもしれない。

観光旅行者を増やす政策も、このような負の側面を持っている。人々が交流して、相互の理解を深めることは大切だが、マイナス効果は極力小さくしたい。特に日本のような、除菌に神経質な国民性は、却って自らの免疫力を弱める。それに対応した仕組みを作ることも、社会の混乱を防ぐ意味でも、止むを得ない。

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地域創生に反する東京オリンピック

安倍首相が世界を無理やり説得して招致した東京オリンピック。これ自体は、評価すべきことかもしれないが、これ以上東京に資源を集中していいのだろうか。東京オリンピックは、地方にも、その効果は波及すると言うが、わずかなものだろう。大体、オリンピック開催期間は短く、地域への経済的効果は、全く期待できない。

結局、開催までの東京周辺の公共投資が増えるだけだ。それは民間建築投資にブレーキをかける。東日本大震災の復興や福島原発事故後の処理は、今も続いているわけで、建設業界は人材不足に加えて、資材の高騰は続いている。更にオリンピックの投資が加わり、それが地域を苦しめる悪循環。

地域創生と言うなら、東京圏解体プロジェクトが、まず必要。集中し過ぎた東京圏は、国家リスクでもある。巨大自然災害が予測される今日、東京圏から地方に人が移動するような仕組みの確立が求められる。地域創生は、それに絡めた問題だろう。

東京オリンピックは、既に誘致してしまったのだから、立派にやり遂げる必要はあるだろうが、選手たちを除けば、あまり熱くならずに、仮説として、大自然災害とバランスの悪い人口構成による“破綻する東京”をイメージして、冷静に、今後の日本のあり方について、各人が考える必要があるだろう。

*追記

地方では、すでに色々な問題が出ている。リフォームを頼んでも、人材が大都市に流出し、残っているのは、無理やり駆りだされた高齢の職人か、腕の悪い職人たち。あるいは急ごしらえの職人歴の浅い人たち。簡単な工事も、納期が遅れがちだ。中途半端にクレームをつけるとやってもらえない。ましな所は、価格がかなり高い。そこに付け込んだ怪しいリフォーム業者も多い。

*追記

地方は、東京圏から人を招くシステム作りが必要だ。彼らが不安なくやってこれるように、生活環境や生活コスト等メリットの発信と共に、仕事の確保、社会システムの充実、情報システム等、仕組む知恵が求められる。それには、まず過剰に東京圏を市場としないシステム作りが求められる(東京圏を市場開発するのは短期的には楽だが、そうすると、逆循環で、いつまでも、地方は豊かにならない)。

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2014年9月 4日 (木)

唇亡ぶれぱ歯寒し、ということ

テレビを見ていて、時々、歯ぐきを見せて笑う女優や女性タレントがいる。みっともないことだと思う。昔は歯を見せて笑うこともいけないとされたようだが、最近は、そこまで言わない。適度に歯を見せて笑っても、品がよければ、いい。ところが、歯ぐきまで見せると、明らかに品が無くて、おかしい。彼女らは、仕事柄、もっと自分を美しく見せる研究をして欲しいものだ。百年の恋も一度に冷める。ファンの方も嫌だろう。

さて、表題の「唇亡ぶれぱ歯寒し」は、『春秋左氏伝』にあるもの。『春秋左氏伝』については、いろんな見方があるようですが、『春秋』の解釈と『左氏伝』が合体したものとして見ておきます。これ以上のことは専門家の範疇で、流風が説明しきれるものでもありませんので省略(笑)。

この話の内容は、賄賂で同盟を崩されようとしている虞の国の王に対して、賢臣の宮之奇(きゅうしき)が諌めるために持ち出した話の中にある。当時、すでに、「輔車相依り、唇亡ぶれば歯寒し」という諺があったようだ。

唇が無くなってしまうと、歯がむき出しになるので、風をそのまま受けてしまうと、寒い。折角、今まで同盟して援けあってやってきたのに、間違った強欲のために、それを崩せば、双方、失うものが大きいと、諫言したのだ。

しかし、この諫言は、聞き入れられることなく、王は変な欲を出し、罠にはまって、虞の国は滅んでしまう。こういうことは現代でも見られる。国のことはともかく、企業では、よく見られること。一時の迷いが不幸を招く。

経営者には、多くの甘言・儲かり話などで誘って、近づいてくる輩がいる。経営者というのは、いつも不安だから、そこに付け込むのだ。しかしながら、そういうことには左右されない確固とした経営姿勢は必要だ。簡単に儲かる話など、この世の中にはない。

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2014年9月 3日 (水)

一休の三品

庶民は凶作で苦しんでいるのに、将軍足利義持の贅沢三昧が続いていた。そこで、一休和尚が一つ策を練る。義持は珍しい美術品を蒐集していたことを知っていた一休は、茶会に招かれた折り、「私も珍しい古い物を集めています」と持ちかける。

義持は、早速興味を示して、「一体、どのようなものか」と言うと、一休応えて、「天智天皇月見の筵(むしろ)、老子の杖、周光坊の茶碗の三品があります」と。そうすると、義持は「値はいくらか」と問う。一休は、「それぞれ前金で一千貫でお願いします」と答える。

将軍は高いなと言いつつ、買い上げる。ところが、一休の用意したものは、乞食が捨てたような筵、垣根の腐った古竹、猫飯用の欠け茶碗。これを見て、将軍は激怒。ここからが一休の本当の出番。呼び出されて、クレームをつけられるが、逆に将軍の奢侈を詰って、諌める。さすがに将軍も贅沢を戒めたと伝えられる。

これは事実かどうか分らないが、例え話としては面白い。凡そ、美術品とは、そんなものだろう。価値があると思うから価値がある。美術品を形作っているのは、所詮、紙や木や粘土。どんなに価値があるからと言って、有難がっても、どれほどのものでもない。そんなものに、お金を使う余裕があるのなら、別のことに使った方がいい。

為政者に限らず、トップ層は、お金の使い方(私財で趣味として購入はまだいいとして)を考える必要がある。

*追記

実際、明治維新以後、没落士族は、美術・工芸品等を生活のために、二束三文で処分した。また戦後は、没落貴族や、農地解放で没落した大地主が、美術品等を同様に安値で買い叩かれ処分せざるを得なかった。危急の時、美術工芸品は何の役にも立たないことは明らかだ。そういうものは、国家レベルで保存するしかない。

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2014年9月 2日 (火)

漢詩『泊湧金門』を読む

朝夕、特に朝方が涼しくなってきた。寝る時は、まだ掛け布団が要らないと思う時もあるが、朝方は、掛け布団が無いと幾分寒い。昼間は、まだ暑いが、それでも、一時の様ではない。過ごしやすく、読書が進む。ガーデニングでも、蚊の数が減ってきた感じ。やはり秋到来なのだろうか。

そういうことで、秋を題材にした漢詩『泊湧金門』を取り上げてみる。作者は、林鴻とされるが、詳しいことは分っていない。

  煙は楊柳に生ず 一痕の月

  雨は荷花を弄す 数点の秋

  此の景 此の時 描き尽くさず

  画船帰り去れば漁舟有り

特に解釈は不要だろうが、敢えて次のようにしてみた。

「霧で覆われ、柳の木には、まるで煙がかかっているようだ。ただ、その中に欠けた月がきらりと見える。強い雨が、蓮の花を弄んでいる。ああ、秋が来たことよ。このような景色は、なかなか描き尽くせるものではない。そう思って、ふと見たら、船体に派手に描かれた大きな観光船が去ってしまって、今は小さい漁舟だけが残っている」

漢詩には、裏の意味があると言われるが、この詩には、流風の読解力では、特に感じられない。ただ作者が、絵を描く人のようにも考えられる。秋の絵のテーマを探しに出かけた時の感遇かな。一瞬、一瞬を刈り取る作者の感性が詩から読み取れる。

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2014年9月 1日 (月)

鶏口となるも、牛後となるなかれ、ということ

父に、「鶏口となるも、牛後となるなかれ」とよく諭された。「牛後」のように、大きな組織の中に入ると、歯車になってしまって、自分自身が見えなくなる。結局、無意識に組織の決めたことについていくことになる。そして、自分自身を見失う。大きな組織に居るには、相当強い意志を持たないと、埋没してしまう。だが、多くの人は安寧を求めて、楽な道を選んでしまいがちだ。その人生航路は、迷路に入ったも同然となる。

一方、鶏口の方は、小さい組織だから、すぐ自分がリーダーシップを発揮しなければならない。人間の能力自体は、若い人も年輩者も、そんなに変わらない。異なるのは経験だけだ。ということで、若い人をリーダーにしても、目標が明確であれば、周囲がある程度支えてやる必要はあるが、問題はない。もちろん、そこには他人には言えない苦労があるだろう。でも、大きい組織の中で育った者より、早く成長する。

もちろん、全てが全て、「鶏口となるも、牛後となるなかれ」が正しいとも思わない。人には、それぞれ適性がある。ただ、今の日本に求められるのは、この精神かもしれない。

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