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2014年9月 6日 (土)

『じゃじゃ馬ならし』再読

シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』については、以前にも取り上げたが、先日、映画をDVDで観たところ、かつて読んだ印象と、やや観点が違うのではないかと改めて再読してみた。ご存じのように、『じゃじゃ馬ならし』は、美人だけれど、妹ビアンカと違って、親にも手に負えないじゃじゃ馬のカトリーナ。

もちろん、結婚相手は見つからない。そこに父親の知人の息子、ペトルーキオーがやってくる。彼は、嫁探しに、どんなじゃじゃ馬でも構わないと言う。俺の手で飼いならすと自信ありげに言うので、それではと、結婚話がトントン拍子に進むが、カトリーナは、なかなかの難敵。

それでも、ペトルーキオーは、へこたれずに、彼女を鍛え直し、やがて意のままに操るようになる。ついには、カトリーナは、多くの女性の前で、滔滔と、ご主人に仕える大切さを論じて、彼女は、ついにペトルーキオーに飼いならされたということで終演となる。

一般的には、そのように理解されているが、深く読んでいくと、実は、女性は、その上を行っているようだ。というのは、カトリーナは、飼いならされているふりをして、逆に、ご主人をコントロールしている、というのがシェイクスピアの深意のようだ。これは、まさに戦前の日本の賢婦人のやり方。賢い女性というのは、世界共通のようだ。

ただ、じゃじゃ馬も、鍛え方で賢夫人になるけれど、誰でも、そうなるのではないということをお断りしておこう(笑)。

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