秋の雨と万葉集
明日から3連休なのに、天候の方は、あまり宜しくない予報が出ている。秋雨になりそうな雰囲気だ。だが、晴れた秋空もいいが、雨を楽しむのもいい。今回は、『万葉集』の秋を楽しもう。
まず、大伴利上の歌。彼については、よく分かっていない。
秋の雨に 濡れつつ居れば いやしけれど
我妹がやどし 思ほゆるかも
(巻第八 一五七三)
大意は、「秋の雨に濡れながら佇んでいると、粗末でむさくるしいけれど、あの娘がいる家が思われる。どうしているのだろうか」てな感じ。今すぐにでも、行きたいけれど、行けない事情があるのかもしれない。人恋しい季節でもありますな。
もう一つが、藤原八束の歌。彼は、藤原不比等の孫。藤原房前(ふささき)の子ども。春日を題材にした歌だ。
ここにありて 春日やいづち 雨障(あまつつ)み
出でて行かねば 恋ひつつぞ居る
(巻第八 一五七〇)
大意は、「ここから見て、春日は、どの辺りなのだろうか。雨が降って邪魔されて、出掛けたいのに出かけられないので、より一層、思いが募るばかりである」というような感じかな。春日には、どなたか想い人がいるのかな。
春日野に しぐれ降る見ゆ 明日よりは
黄葉(もみち)かざさむ 高円(たかまと)の山
(巻第八 一五七一)
大意は、「春日野に、ちょうど細い糸みたいにさーっと、しぐれ雨が降っている。明日からは、高円の山は、すっかり、もみじ色に飾られるのだろう」という風な感じなのだろうが、春日野には行ったことが無い。実際、足を運ばなければ、本当の意味は分らないかもしれないが、何となく、雰囲気は分る気がする。
なお、当時の「もみじ」は「黄葉」で、「もみち」と濁らない。「紅葉」より「黄葉」の変化を楽しんでいたようだ。赤く変化する木々の葉より、黄変する木々が多かったのかもしれない。いずれにせよ、一雨ごとに秋は深くなり、人の心も動かされるということだろう。紅葉のためには、雨が降るのも仕方ない。今年は、どこに紅葉狩りに行こうか。
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