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2014年11月24日 (月)

『老子』第五章を読む~虚心

今回は、『老子』第五章を取り上げてみる。いろいろに解釈されている。「虚用」と解釈する向きもある。流風では、その全体の意図を把握しがたいが、「虚心」ではないかと思う。次に、書き下し文を示す。

 天地不仁、万物を以て芻狗と為す。

 聖人不仁、百姓を以て芻狗と為す。

 天地の間、其れ猶槖籥(たくやく)のごときか。

 虚にして屈きず、動いて愈(いよいよ)出づ。

 多言は数(しばしば)窮まる。

 中を守るに如かず。

見慣れない文字がある。まず「芻狗」とは、「草を結んで犬の形をしたもの」で、「祭の前に、箱に盛られ、刺繍を施した布で覆われ、祭りを司る人が斎戒して、これを供える。ところが、祭りが終わってしまえば、路傍に捨てられる」ものらしい。また「槖籥」とは、ふいごのこと。捏ねまわさず、全体を解釈すれば、次のようになる。

「天地に、特別愛するものはない。万物は、必要があれば用いられ、必要が無くなると捨てられるようなものだ。あるようにある。聖人も、民に対して、同様な扱いをする。誰も特別扱いはしない。

天と地の間は、ふいごのようなものである。天と地の間には何もなく、それでいて尽きることもなく、動いても留まる事を知らない。それは言葉もそうであろう。作為のある多弁は、必ず自らを追いやるものである。言葉を多くしないで、心に何のわだかまりもなく、さっぱりとした心で生きることが望ましい」というような感じ。

人間、なかなか、この領域に達するのは難しいが、最終的には、彼の考え方に帰着するのかもしれない。煩悩の多い流風には、当面無理か(苦笑)。そういうと、最近の世間は、もっと騒がしいのだが。

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