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2014年11月 3日 (月)

河合寸翁のこと その二 河合家、お家断絶

藩主酒井忠恭(ただずみ)は、寛永2年7月に江戸を発ち姫路に向かう。ところが発った2日前に、姫路城下は、豪雨で水害の被害に遭っていた。降り続いた豪雨で船場川が決壊し、多数の死者を出し、多くの家が流されたり破壊されたのだった。

その頃、川合定恒は先遣隊として、すでに姫路に着いていたから、その被害を目の当たりにしていた。彼は、皆の反対を押し切り、独断で住民を避難、保護した。蔵を開け、被災者に米を振舞い、炊き出しもした。家を流した者には、現代で言う被災者支援として、お金まで渡している。

そうした中で、酒井忠恭が姫路城に入城すると、城下の者たちは喜んで歓迎した。だが、この洪水被害で、姫路藩は、大幅な減収になって、藩政の危機に陥る。さらに、姫路藩に転封になったとあって、商人たちが、以前とは、態度を変え、ほいほいと金融貸し付けしていた。ところが、自然災害の窮状に借金が重なってしまう。大きな期待が期待外れになったのだ。

川合定恒にすれば、大権現徳川家康様の申し渡しを無視して、転封を画策した年寄の犬塚又内(ゆうない)と家老の本多光彬(みつあき)が許せない。いろんな不満が鬱積していた。彼らに、大水害の独断処理で藩財政が苦しくなったのだと、ぐじぐじと責められたのかもしれない。とうとう堪忍袋の緒が切れて、両名を切り捨てる。そして、自らは自刃する。そのため、川合家は、お家断絶することになる(*注)。

この頃、姫路藩は、転封効果は全くなく、財政破綻寸前で、73万両の負債(石高にして62万石に相当)を抱えていた。藩の石高が15万石だから、実に4倍以上。とても、借金を返済できない状況だった。

*注

断絶前は、河合家。断絶して名乗れなくなり、一時的に川合家。後、河合家に、戻るが、寸翁の祖父や父親は、川合姓のまま残る。

次回に続く

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