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2014年11月 2日 (日)

河合寸翁のこと その一 姫路藩に転封

今回から、以前にも少し書いたが、姫路藩の名宰相、河合寸翁(かわいすんのう。1767~1841)について、もう少し詳しく触れて行きたい。河合寸翁は全国的には、あまり知られていないが、彼の先端的な仕事は、後に、渋沢栄一が参考にしたと伝えられる。

寸翁は69歳で引退してから名乗った名前で、それまでは河合道臣(みちおみ)が正式名だが、姫路では、寸翁の方が通りがいいので、こちらの名を使用する。彼は、姫路藩酒井家の家老として、忠以(ただざね)、忠道(ただみち)、忠実(ただみつ)、忠学(ただのり)の4代の城主に仕えた名家老。

実際、姫山公園内に、観光客には、あまり知られていないが、「寸翁神社」がある。それは比較的新しく、1957年(昭和32年)に地元の経済人らの手によって創設された。当時の戦後の苦境にあった経済人らが、姫路藩の再建に尽くしたことに重ね合わせて、尊崇の念を表したのであろう。

今回は、彼を語る前に、そもそも河合家が姫路にやってきた経緯を記そう。河合家は、河合宗在(むねあり)以降、代々、酒井家の家老であった。そもそも、前橋藩(上野国・厩橋)は、家康が幕府を開いた後、北方の脅威から守る砦として、酒井重忠に「永代で守れ」と命じていた。

それから、150年。前橋藩は、石高15万石だったが、実収は、その半分ほどで、苦しい状態が続いていた。藩財政は苦しく、俸禄も、十分に渡せない状況が続いた。当時の藩主、忠恭(ただずみ)は悩む。

そこで年寄と別の家老が組んで、移封工作をする。ちょうどいい具合に、当時の姫路藩主・松平明矩(あきのり)が亡くなった後、世継ぎが無く、転封となる情報を得る。当時、姫路藩も、前橋藩と同じ石高で15万石。更に、いいことは実収が前橋藩と違って、3割も多い。

これに飛びつきたいのも分る。移封工作は藩主忠恭を巻き込んで成功する。だが、寸翁の祖父で家老であった川合定恒(*注)は強く反対する。それは家康から、酒井家が前橋城に入る時、よい城だから大事にして、守れと言われていたから。経済的に苦しいからと言って、簡単に移封するとは何事だと怒ったのだった。

しかしながら、多勢に無勢。藩の窮状には勝てない。移封は強行される。1749年(寛永2年)7月に江戸を発っている。そして、なんと川合定恒に先遣隊が命じられる。やれやれ、嫌味な周辺の人たち。それでも、宮仕えは仕方ない。

*注

本来「河合」だが、後に、お家断絶して、名乗れなくなり、しばらく「川合」となる。道臣の時代には、「河合」姓に戻っている。

次回に続く。

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