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2014年11月 9日 (日)

河合寸翁のこと その八(完) 仁寿山鱟を開校

御国産木綿会所を設立した文政5年(1822年)の前年、文政4年(1821年)に、河合寸翁は、仁寿山鱟(にんじゅさんこう)を開校する。実は、財政改革が軌道に乗り始めた、この年に、藩主・忠実から、阿保山を別荘地として与えられた。彼は、これを仁寿山と命名し、自分の思いを伝える私塾を開いたものだ。

彼は財政改革を通じて、若手の人材育成の必要性を痛感したからであった。また日本が海外から開国を迫られており、時代に柔軟に対応できる人材が求められていることもあった。教授としては、頼山陽ら多数の知識人を招いて、朱子学を軸にしたものだった。ただし、時代に即応できる内容になった。

彼の学問に対する姿勢は、「実際の役に立たない人間をつくるような学問は学問ではない」というものであったという。これは現代で言う「実学」に近い。また庶民教育のために彼の建言で、以前ブログで取り上げた「申義堂」(高砂)が設けられた。これは郷校と言うべきものであった。

なお、天保5年に負債を返し終え、余剰金16000石が残った。藩内は、喜びに沸いた。それを記念して、姫路の銘菓「玉椿」が誕生する。彼の命名によるものだ。これは、彼の命で、加賀の羽二重餅に学んだ菓子職人が作ったもの。現在も販売されている(伊勢屋本店)。

この7年後、75歳で亡くなっている。辞世の句は次のようになっている。

 甲斐もなく 我がもの顔に 死ぬるかな

   君に許せし 命なりしを

やることはやったと満足感が聞こえてくるようだ。スムーズに改革できたということはないだろう。だが、多くの人々に支えられて、結果を出せたということだろう。もちろん、彼のリーダーシップが最も大きいのだが。

*参考 河合寸翁 略歴

1767年 誕生

1787年 21歳で家老になる。

1808年 諸方勝手向(しょかたかってむき。藩の財政を統括)に就任

      木綿江戸積開始

1821年 切手会所を設立

      仁寿山校を開校

1822年 御国産木綿会所設立

       木綿の専売

1825年 革会所を設立

1825年 塩会所を設立

1841年 逝去 享年75歳。

(完)

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