« 河合寸翁のこと その二 河合家、お家断絶 | トップページ | 河合寸翁のこと その四 姫路藩改革へ »

2014年11月 4日 (火)

河合寸翁のこと その三 姫路藩の財政危機と寸翁登場

ところで、川合家が断絶になった後、母親、妻、子どもたちは、松下高通に預けられ、食い扶持として、50人扶持が与えられる。そして、子どもの嫡男・定連は、間もなく、新しく500石で召される。これは藩内でも、処置に困った様子が見て取れる。ただ、定連は、病を理由に退き下がってしまう。

それから数年して、宝暦5年(1755)に、弟の宗見(むねみ)が、30人扶持で召しだされ、川合家のお家再興が叶う。宝暦12年(1767)には、200石を賜っている。その後、順調に出世して行き、安永6年(1777)に城代を兼務し、翌年の安永7(1778)年には、父親の禄1000石を回復になり、家老職に復帰している。これは、藩主を引き継いだ、忠以(ただざね。以前にも取り上げた風流城主・酒井宗雅のこと)の計らいと伝えられる。

そして、天明7年(1787)に宗見は亡くなり、家督を嫡男の定一(後の道臣。寸翁)が相続し家老になる。道臣21歳であった。子どもの頃は、隼之助(はやのすけ)と名乗っていた。少年期から才気煥発であった。学問も深く修め、早くから藩主の目に止まっていた。ただ、家老にはなったものの、お家断絶のこともあり、傍流を歩む。

家老になって約20年。忠以の後を継いだ藩主、忠道は、河合定一に、自らの名の「道」を与え、「道臣」と名乗らせる。河合道臣の誕生だ。そして、彼に藩政改革を命ずるのである。実は、前年、勝手向き、現代で言う、財政担当の家老が引責辞任して、お鉢が回ってきた感じで、非常に厳しい状況だった。

次回に続く。

|

« 河合寸翁のこと その二 河合家、お家断絶 | トップページ | 河合寸翁のこと その四 姫路藩改革へ »

姫路と播磨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 河合寸翁のこと その二 河合家、お家断絶 | トップページ | 河合寸翁のこと その四 姫路藩改革へ »