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2014年11月 8日 (土)

河合寸翁のこと その七 藩政改革 新産業興し

米の増産の次に行ったのが、新産業興しだ。財政再建と言うと、まず節約が第一となり、リストラもされるのだが、これらの人々の受け皿も作った。これも領民を巻き込んだ新産業政策。

例えば、内陸部では、市川の河岸の段丘にある広大な原野を開墾させ、桑を栽培させている。当然、絹織物の振興を図ったのだ(実際は、後で記すが、その後、方針を変えている)。その他に、木綿、藍染など各種染物、東山焼、塩田開発・製塩、高品質の金物、砂糖、茶、朝鮮人参、白粉、ローソク、べっこう細工まで、幅広く様々だ。もちろん、全てが成功したとは言わない。ただ、人々のやる気を引き出したことは確かだ。

その中で、特に財政再建に最も寄与したのが木綿。なぜ貢献したかと言えば、それは木綿の専売制度を作ったことによる。播磨地区は、鎌倉時代から木綿産業が発達していて、品質にも定評があった。江戸時代には、姫路に「綿町」などもできている。ただ、大阪商人に牛耳られており、地元には、彼らに買い叩かれて、金は落ちなかった。

そこで、河合寸翁は、姫路に利益を留めるため、木綿を姫路藩の特産品にすべく、現代で言う「流通革命」を彼がリーダーシップを執って行う。すなわち、姫路で一か所に集積させて、大阪の問屋を経由せず、直接、江戸で専売する仕組みだ。藩による木綿の専売制度の確立であった。

綿の栽培から、職布、加工、流通、販売の諸経路を姫路藩の統制下に置いた。綿町に「御国産木綿会所」を設け、木綿を集中集荷する仕組みを作る。これにより、商品の大阪流通は止まる。もちろん、これには、大阪商人の強い抵抗があった。ただ、彼らも、藩の意向には逆らえない。徐々に体制は整っていく。

そして、この流通革命の特徴は、藩が利益を独占するのではなくて、各流通段階で、利益がきちんと落ちるようにしたことだろう。それによって、生産者や加工者は、努力すれば報われるとあって、それぞれが仕事に精を出すことになる。ここにも、寸翁の哲学が流れている。

問題は、直接、江戸に売ると言っても、姫路木綿を独占販売するには、江戸町奉行所から許可がいる。それに他の藩も専売権を得ようと運動していた中で、彼は政治力を発揮する。ちょうど幸いなことに、藩主忠実(ただみつ)の子と将軍家斉の娘・喜代姫が結婚することになっていた。そこで、専売の利益を喜代姫の化粧料にあてることを理由に、木綿の専売権を得る。

それで、江戸町奉行所から、江戸の木綿問屋と独占契約を取り交わすことに成功し、販売拠点である「江戸会所」開設が認められる。ここから、越後屋、白木屋、大丸といった大店への卸しがされることになる。やがて、年間に、300万反を売り上げるようになる。

また、江戸・姫路間の木綿販売に使った「切手(藩札)」システムも、現金移動を伴わない新しい決済手段だった。荷物受取書を、「御国産木綿会所」同様、綿町に作られた「御切手会所」に持ち込むと、代金の7割から8割が、切手で支払われ、残金は、江戸で品物が売られてから受け取る仕組みだった。これらは、寸翁が始めたシステムだ。

ただ、これらの仕組みは、寸翁一人で作ったものではあるまい。生産者、加工者、商人あるいは官僚の意見を総合的に、まとめたのが寸翁と言えるだろう。彼は、自由闊達に意見が言える雰囲気を作ったことが、この事業の成果につながっていく。

また彼は、その他に、各種開発事業を行っているのだが、最初に挙げた中で、比較的主たるものを挙げておく。

一、塩田開発

藩主の酒井忠実は、河合寸翁に命じて、塩田の開発を奨励する。そのために、いくつもの新しい塩田が開発される。ちなみに、当時の塩田は、現在と異なり、入浜式塩田だった。また綿会所同様、塩会所を作り、塩の生産・販売を統制する。そこでは、製塩の改良、燃料の共同購入、従業員の賃金の支払いをしている。

二、朝鮮人参の栽培

船津町の西光寺野の開発による朝鮮人参の栽培を奨励した。西光寺野の開発は、桑畑にするためだった。まず、本徳寺の末寺を造らせ、人を集め、その人糞を肥料に桑畑を耕したところで、朝鮮人参を栽培させた。当時、朝鮮人参の需要は高く、高く売れ財政に寄与している。

これらの新産業政策で、藩の財政は、少しずつ改善して行ったが、負債がなくなるのは、天保5年(1834)まで、かかっている。実に取りかかって26年。いかに藩の借財が多かったことがわかる。

次回に続く。

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