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2015年2月28日 (土)

姫路城関係書籍の案内

今年2015年3月27日に、世界文化遺産で国宝の姫路城が、グランド・オープンすることは、以前にも記し、姫路城についても、初心者レベルではあるがブログにした。時々、姫路城に行くには、どんな資料を読んでおけばいいか尋ねられるが、一般には、姫路観光案内所で配布されているもので、十分だと思う。

今回、姫路観光コンベンションビューローは、グランド・オープンに合わせて、公式案内本「姫路のガイドブック」(無料*注)を発行する。姫路城に限らず、姫路市の観光案内ハンドブックだが、今までの案内書からすれば、観光をする人には適切だと思う。

更に詳しく姫路城に関して楽しみながら知る書籍としては、次のものを推薦する。

 『世界遺産姫路城遊歩ガイド』(寺林峻編・北村泰生写真)

       (神戸新聞総合出版センター刊。1080円税込。価格は2015年現在)

もっと詳しく専門的なことを知りたい場合は、姫路市立城郭研究室が発行している書籍がある。その中で、一般向きのものを以下に紹介しておく。姫路城を細かく観察してみたい人には好著。一般的な書店では販売されていないが、ジュンク堂姫路店(姫路駅ビル2階)では販売されている。あるいは、姫路市立城郭研究室(兵庫県立歴史博物館を更に北に行ったところにある。但し平日のみ開室)で直接買い求めることも可能だ。

 『姫路城の基礎知識』(500円税込)

 『姫路城絵図集』(1000円税込)

 『姫路城漆喰の魅力』(500円税込)

 『姫路城石垣の魅力』(500円税込)。

 価格は2015年現在。

*注

公式案内本「姫路のガイドブック」を観光案内所で入手したが、見やすく編集してあり、姫路観光を楽しむには便利だと思う。内容は次の通り。

 ◎イベントカレンダー

 ◎姫路観光お役立ちガイド

 ◎姫路城

 ◎姫路城周辺

 ◎城下町体験

 ◎姫路観光モデルコース

 ◎姫路城周辺、姫路駅周辺グルメ

 ◎手柄山周辺、桜山周辺

 ◎廣峯神社、野里

 ◎書冩山圓教寺

 ◎夢前、安富、林田

 ◎香寺、豊富、シーサイド

 ◎家島諸島

 ◎お土産

 ◎宿泊

 ◎交通案内

 ◎地図

以上

 

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2015年2月26日 (木)

第45回姫路城薪能(平成27年)の案内

先のブログでも記したように、例年、姫路お城まつりは8月に開催されるが、今年、平成27年は5月開催(多分、来年以降も)。それによって、第45回姫路城薪能も、まつりの初日の5月2日(土)に催される。場所は、例年通り、三の丸広場特設舞台だ(雨天の場合は、姫路市市民会館にて)。午後5時30分から始まる予定。入場は無料。拙ブログでも、一部紹介したが、あらすじを理解して、のんびり観覧されては。

演目は、次の通り。

 ◎観世流舞囃子「高砂(たかさご)」

 ◎観世流能楽「羽衣(はごろも)」

 ◎大蔵流狂言「濯ぎ川(すすぎがわ)」

火入れ式の後、

 ◎観世流能楽「正尊(しょうぞん)」

*参考 平成27年の姫路城薪能の詳細

  http://himeji-takiginou.org/?page_id=15

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姫路お城まつり開催日変更の案内

今年平成27年から姫路お城まつりは、開催がゴールデンウィークの5月2日から開催されるようになる(姫路市の広報によると来年以降も、正式決定)。以前は盛夏の8月に開催されており、行くのも、多少辛かったが、これで楽になる。

また観光客の方にも、気軽に見て頂く催しになると思うと、少し嬉しい。これを機会に、もう少しスケールアップして欲しいとも思う。大手前通りの改装も進み、きれいになっているので、できれば、お城から姫路までパレードして欲しいが、無理なのだろうか。

*平成27年11月7日追記

報道によると、平成28年の「姫路お城まつり」の開催は、5月中旬予定で、ゴールデンウィークにならないらしい。人は集まるけれど、催しする側は休めないからということだろうか。それとも、観光客を分散させる狙いか。

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2015年2月25日 (水)

謡曲『正尊』について

「敬って白す起請文の事、上は梵天帝釈四大天王閻魔法王五道の冥官泰山府君下界の地には伊勢天照大神を始め奉り、、、」(正尊の起請文)

今回は、謡曲『正尊』を取り上げる。正尊(しょうぞん)とは、『平家物語』では、土佐坊昌俊とされている人物。話は、梶原景時の讒言で、頼朝は義経に、不信を抱き、不和となり殺そうとする。その役目を担わされたのが、正尊。鎌倉から、義経の方に向かう。

討伐命令は秘し、現地に到着するが、義経、弁慶側も、そのことは察知しており、ここで、丁々発止のやり取りがある。正尊は決して、討伐しようとは思ってみないことと、起請文まで持ち出す。あまりにさらさらと書くので、義経は、その達者のことを評し、酒宴を開き、もてなす。

ところが、正尊は帰るなり、早速、夜討ちの準備を始める。そのことは、すでに放っていたらっぱ(スパイ)の情報で、義経側に伝えられ、義経は迎え撃つ準備万端で待つ。正尊一党が押し寄せるが、郎党は次々と打ち果たされ、正尊は捕われの身となる。

この謡曲の面白さは、謡曲らしからぬ作品で、活劇がある。チャンチャンバラリと戦闘の場面があることだろう。謡曲では珍しいことだと思う。話の筋も分りやすく、その文言も、複雑ではないので、誰でも理解できる。まるで時代劇か歌舞伎を見るような感じだ。テンポもよく、多くの方に楽しんで欲しい謡曲だ。

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2015年2月23日 (月)

『落窪物語』を読了

少し前に、衝動買いしてツンドク状態であった『落窪物語』を読了した。内容は、女性向きに描かれた元祖、継子(ままこ)出世物語というべきもの。残念ながら、現代文ではないため、古文が苦手の私は読むのに、ひと苦労。注解はあるものの、分らない言葉も有り、幾分、解釈に理解に苦しむ場面があり、そこで読書が停止してしまう。更に他の書籍との併読だから、読み終わるのに割と時間を要した。

平安時代後期に書かれたものらしいが、作者は不明。全体の流れからすれば、女性の手によるものだろう。当時の女官の読みものだったかもしれない。継子いじめの物語としては、拙ブログも取り上げた『鉢かづき』とか、『中将姫』とかがある。最終的には報われる話が多い。この『落窪物語』も、娘が帝の女御になり、一家は栄える。

描かれているのは、先妻の娘である主人公(女君)が、継母に一段下の部屋に追いやられ、「落窪(おちくぼ)」とあだ名される。そして、扱いは実子とは格段の差で、まるで下女並み。そんなむごい扱いにも、得意な裁縫の能力を活かして、何とか、やりくりする。それを見て同情した「あこき」というお付きの童女が活躍し、将来の伴侶となる男君との出会いをセッティングして、ここから運命が大きく変転する。

やがて男君は、苦難の女君を脱出させ、手許に於いて、親にも認めさせ、結婚に至ると、女君には強い運が備わっていたのか、家はこれまでにも増して栄えるようになる。そして、描いているのは、女君の人柄。男君は、何かと、女君の実家に復讐しようとするのだが、女君は、あくまでも実家にも、好い影響が及ぶよう、男君を嗜めていること。

それに反して、継母は、どんなに女君が尽くしても、悪口の言い放題。実子たちから、いい加減にしなさいとたしなめられても、一向に改まる様子はない。性根は変えられないということを描いている。全体として見れば、下積み生活を耐えて、凌げれば、未来は開けるということを描いているようにも見える。あるいは、女性は素直な考え方が幸福を招くということを説いている。

*参考

   『落窪物語』 藤井貞和校注 (岩波文庫刊)

 

 

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2015年2月21日 (土)

謡曲『羽衣』を読む

  天の原 ふりさけ見れば 霞たち

        家路まどいて 行方知らずも

今回は、以前にも記した羽衣伝説を謡曲にした『羽衣』を取り上げる。そもそも童話にも取り上げられる羽衣伝説は、どこから来たのか。漁師が松の枝にかかっている美しい衣を見つけ、家の家宝に持ち帰ろうとすると、天人が現れ、その衣がないと天上に帰れないと悲しむが、漁師は返さない。止むなく、天人は漁師の妻になって、地上の生活を送る。話によっては、妻になった天人があまりに悲しむので、ついに返して別れを告げるというのもある。

これは、まさに漁師の妄想、空想であろう。貧しい漁師では妻を娶ることもままならない。そういったことから、こういう妄想、空想は生まれる。ただ、それが長く伝えられてきたということは、漁師は、それだけ長く貧しい時代が続いたことの証左ということかもしれない。

さて、それを謡曲にしたものが『羽衣』。筋はシンプルだけれど、内容は読みこなすのは少し難解だ。ある意味、海を見たこともなく、漁師の苦労も知らない当時の知識人が、持てる知識と教養をフルに活用して、作り上げた。

よって、後世の人間が理解するには、少し時間を要す。そして、説話とは違って、随分、きれいごとになり、浄化されている。だから天人は漁師とも結婚していない。つまり、天人が、衣が無いと天上に帰れないと悲しむので、それなら、衣を返す代わりに天上の舞を見せて欲しいと頼む。

そうすると、天人は喜び、羽衣を身につけて、月界における天人生活の面白さを語り、それにも劣らぬ三保の松原の春の景色を愛でながら、この美しい国に祝福を与えて舞っていたが、いつの間にか、富士山を見下ろしつつ、霧にまぎれて消えていく。

まあ、いつの時代も、妄想は儚い夢だけれど、楽しいということだろうか。

*追記

なお、この天女の舞により、「駿河舞」が生まれたというが、残念ながら、どのような舞かは存じ上げない。

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2015年2月19日 (木)

狂言『濯ぎ川』~養子の悲哀

子どもの頃、近所に養子を迎えた家があった。近所では、いろいろ噂になり、おばさんたちの話題の中心に一時なっていて、子どもの耳にも聞こえていた。内容は、「あの大人しいご養子さんが、苛められているらしい。養子は可愛そうやな」という内容。子供心にも、養子って大変なんだなと思ったものだ。

さて、狂言にも、これにぴったりのものがある。但し、古典ではなく、新作(一応、狂言が古典演芸なのでカテゴリーは「古典文学・演芸」に含めておく)で、作者はフランスのお笑い劇を元に作ったらしい。それが『濯ぎ川(すすぎがわ)』。

毎日、嫁と姑に追い使われる養子の男。妻は口うるさいが、姑は、これに輪をかけたような口うるささ。朝から晩まで、養子の婿をこき使う。この日も、裏の川へ洗濯に行けと言いつけられて、たくさんの小袖の洗濯物を入れた袋を担いで川に急ぐ。冷たい水で、寒さに震えながら、洗濯をしている。

ところが、まだ、ろくろく時も経たぬうちに、妻がやってきて、蕎麦を打つための粉を挽くように命じる。婿は、そんなのは無理と口答えすると、妻は問答無用とばかり、早く洗濯を終え、粉を挽くよう言い渡し去る。

やれやれと思って、洗濯を再開させると、今度は姑がやってきて、風呂を沸かすための水を汲めと言いつける。夫が弁解すると、姑は、杖で打ち付けるので、渋々引き受ける。姑が行ってしまって、ほっとしていると、間もなく妻が現れ、未だ洗濯が終わらぬ夫を責める。

夫は、ついに我慢ならなくなり、一体全体、妻の用事と姑の用事と、どちらを優先するのかと口論になる。そこに姑が戻ってきて、二人して養子を責める。そんなことは無理だと感じた婿は、それなら「用事を忘れぬよう、紙に書きつけてくれ。それ以外の仕事はしない」と言いだす。

そうすると、嫁と姑は、朝から晩までの用事のことを次々と文にしたため、婿に渡す。婿は文に書いていないことはしなくてよいと、約束を取り付け、ほんのささやかな抵抗を試みる。そんな時、小袖を川に流したため、拾おうとした妻が川に落ち、溺れてしまう。姑は早く助けるように婿に言うが、婿は、紙に書いていない仕事はしないと抵抗し断る。

ついに姑は、今までのことを侘び助けるように懇願する。夫は杖を川の中に差し出して妻を助ける。ところが、妻は感謝するどころか、杖を振り上げて夫を追いまわし、終演。

現代でも、別に養子でなくても、ありそうな感じです(笑)。実際、嫁さんに、あれこれ頼まれて、なかなか手掛けないと、夫を詰る夫婦を見ることがあります。今も、全国のどこかで起っているかも。尤も、今は洗濯機もあるし、蛇口をひねれば水も出るから、させる仕事の内容は明らかに違うが。

最近は、妻からのパワハラを受けて、夫から訴えることも多いようです。当時は、訴えることもできず、ひたすら耐えるしかなかったから、今は好い時代なのかも。女性のみなさん、適切にブレーキとアクセルを踏むことで、夫を大切にしようね(笑)。

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2015年2月17日 (火)

高橋泥舟という人

最近の若い人は、歴史好きでなければ、高橋泥舟と言っても、ぴんと来ないかもしれない。幕末に活躍した人たちに、「三舟」がいる。以前にも取り上げたかもしれない。三舟とは、勝海舟、山岡鉄舟、そして高橋泥舟である。勝海舟は、多くの方がご存じであろうが、山岡鉄舟、高橋泥舟の二人を知っている人は最近少ない。特に、高橋泥舟の方は余計に。

高橋泥舟は、槍の名家山岡家の次男だった。ただ、いろんな事情で、母方の高橋家に養子に出される。ところが、家を継いだ長男が早世してしまう。残った長女に養子をもらうことになり、それが小野鉄太郎。後の山岡鉄舟だ。よって山岡鉄舟は義弟になる。

そもそも江戸城引き渡しに際して西郷隆盛との交渉に派遣される予定であったのは、高橋泥舟であったことは、あまり知られていない。結果的に都合が付かず、代わりに山岡鉄舟を推薦して、事なきを得た。歴史に、「でも」はないが、高橋泥舟が行っていても、交渉は成立しただろう。それだけの人物であったことは確かだ。

しかしながら、槍の名手で、徳川慶喜の身辺警護にあたった以後は、さっと身を引き、維新政府の要職に就くことはなかった。明治政府から、旧幕臣に履歴書のようなものを出させ、それなりの勲功を与えようとしたが、彼は、呼び出しにも応じようとしなかった。

彼には、国全体のことは考えても、奉仕するのは、徳川家のみと考えていたのかもしれない。隠棲して、美術品などの鑑定に精を出して、終えている(明治36年没)。すなわち、時代に合わせて、要領よく立ちまわった形跡はない。

結果的に、派手に目立った働きはしていないのに、多くの人々に高く評価されたのはなぜか。それは、いつも表舞台に立つことを望まなかった、いさぎよさかもしれない。その辺が教養のない下級武士上がりの目立つことばかり考える長州閥の人たちと大きく異なるところだ。

*追記

なお、泥舟という変わった名は、その字の如く、泥で作った舟だから、やがて沈んで消えてなくなるという意味があるのだろう。彼は、この名にした理由を次の歌に託している。

  狸には あらぬ吾身も つちの舟

      こぎいださぬが かちかちの山

 

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2015年2月15日 (日)

傳田光洋著 『皮膚感覚と人間のこころ』を読了

最近の若い人たちのことは知らないが、男女交際は手を握ることから始まると言われている。お互い手を握ると、今までと違った感情になるから不思議だ。大袈裟に言えば、血と血が通うような。まあ、それ以上に進むかどうかは、双方の相性とタイミングだが。

さて、先日、傳田光洋著『皮膚感覚と人間のこころ』(新潮選書)を読了した。皮膚感覚は、心に影響している。皮膚は脳の一部で、皮膚で感じて得た情報は脳との情報交換で、人は機能している。

皮膚を大事にして、適度に刺激を与えることはいいことかもしれない。ただ、自分で皮膚を刺激するのもいいが、他者からの刺激はもっと効く。流風なんて、販売店で若い女性の接客員からお釣りをもらう時、ちょっと手が触れるだけで刺激を受ける(笑)。

その他、皮膚の歴史、防御機能、表皮機能の破綻とその対策、皮膚の感覚等論じられている。著者は、工学博士で、某化粧品会社の研究員だが、我田引水的要素は少なく、「皮膚」学者による皮膚に関する総合的著書だ。

最近、認知症が話題になることが多いが、女性は化粧することによって改善すると云う。これも必ずしも我田引水的でなく、理解できる内容だ。

また、この本を読めば、皮膚で悩んでいる方だけでなく、皮膚の持つ面白さを知って、今までより、もっと楽しくなるかもしれない。また、専門的なことが多く記されているが、皮膚問題に捉われず、いろんな刺激を得る著作だろう。

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2015年2月13日 (金)

交友投分~『千字文』より

久しぶりに『千字文』から取り上げよう。『千字文』は習字の教科書に使われることが多いが、同時に、多くの教訓を含めていて、子弟の教育に使った。一文の持つ意味を理解しながら、漢字の習字のレベルを上げていく。

昔の人は、このように、融け込むような教育をして、人格の育成向上に役立てた。最近は、学校で、このような教育をしているのだろうか。西欧的な知の教育に追われて、人間形成教育を怠っていないか。

さて、今回は、「交友投分 切磨箴規」を紹介する。書き下しをすれば、「友と交わるに、分を投じ、切磨して、箴規する」か。「分を投じる」とは、解説書によると、「志が一致すること。気が合うこと」とある。その上で、「お互い、切磋琢磨して、箴規する」。箴規とは、同じく解説書によると、「いましめること」とある。

やはり、心友を得るには、友は選ばなければならない。志が一致して、初めて交友を結べる。その上で、お互いがチェックし合いながら、高めていく。

*注

解説書とは、『千字文』小川環樹・木田章義注解(岩波文庫)のこと。本書では、上記の一文に絡めて、「断金の友」を紹介しているが、ここでは略す。

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2015年2月11日 (水)

シェイクスピア『十二夜』読了

先日、元宝塚歌劇団の音月桂さんが、シェイクスピアの『十二夜』の兄妹の二役を演じる報道があった。音月桂さんについては何も存じ上げないが、少しシェイクスピアの『十二夜』の方が少し気になり、蔵書を調べたが、読んだこともないようなので、先日、改めて購入し読んでみた。

ちなみに、十二夜とは、クリスマスから数えて十二日目の夜(一月六日)を指すらしい。この日に、東方の三博士がキリスト誕生を祝うために訪れたと云う。でも、ざっと読んだ限りでは、内容との関連性は薄いと思う。

内容は典型的な喜劇。シェイクスピアの喜劇の中では、活き活きとしているという評価を得ていると言う。ただ、通読してみて、どこか「吉本」の喜劇に通ずるドダバタものであると思った。あり得無さそうで、もしかしたら、あるかもと思わせる作品だ。

双生児の兄妹が離れ離れになって起こす騒動。兄妹はよく似ており、妹が男装するから、ややこしくなる。恋のさや当てを絡めて、他の登場人物の稚戯も重なり、大騒動。掛け合い漫才のようなやり取りが面白い。

登場人物は、皆、人の好い人ばかりで、ちょっとしたいたずらが波紋を大きくする。それゆえ、かえって、どこか、ハラハラさせる。これを読んだら、久しぶりに喜劇を観たくなった。

*参考

『十二夜』シェイクスピア作。小津次郎訳。岩波文庫。

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2015年2月10日 (火)

いろんな鳥の飛来

ここ数日、寒い日が続いている。早朝に起きて、水道管が凍っていないか、チェックするため外に出ると、凍える寒さ。そして、鳥たちが群れをなして飛び去った。結構大きな鳥たちだ。カラスではない。外見はムクドリのようにも見えるが、暗いので、はっきりは分らない。

鳥たちは、寒さが好きなのか、最近、いろんな鳥たちがやってくる。先日、ガーデニングしていると、三羽のメジロがやってきた。一羽は大きく、2羽は小さい。親子かもしれない。彼らはスズメと違って、人の気配を感じても逃げない。しばらく、木と木の間をうろうして、飛び去った。

また、ジョウビタキもやってきた。「カチカチ」と鳴く、変わった奴。一羽やって来て、私をじっと見つめる。照れるなあ。そして、彼(あるいはメスか)も、人の気配を全く気にせず、逃げる様子もない。これも、しばらくして、去っていた。少しして、どうも違う個体のジョウビタキがやって来て、うろうろ。私に、どんどん近づいてくる。無神経と言うか、鈍感なのか(笑)。安心しきっている様子。でも、可愛い奴だ。

そういうと、先日、川沿いに歩いていると、鶴が飛んできて羽を休めていた。鷺はよく見かけるが、鶴は珍しい。ただ、あ奴は警戒心旺盛。川に沿って歩いて追っかけると、すぐさま逃げ去った。カモもいたが、彼らは、悠々と餌を探しているようだ。ちょっとぐらい警戒せいよと言いたくなるくらい。

その他にも、いろんな鳥たちがやってくるが、概ね、雀同様、人の気配を感じると、すぐ飛び立ち、少し、可愛げがないですなあ(笑)。人と同様に、鳥にも、それぞれ性分があるのだろう。まあ、メジロとかジョウビタキの方が少数派だろうが、彼らがやってくると、寒い中に、少しずつ春を感じるような気がする。

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2015年2月 8日 (日)

『マクベス』再読

多かれ少なかれ、基本的に男は権力志向が強い。最近の若い男は、そうでないとも聞くが、それは一瞬で変わる。誰しも、権力を握って、この世を自由にしたい欲望に一時的に駆られることはある。それは妄想なのかもしれないと分っていても。

この妄想がどこからくるものなのか、はっきり分らないが、それは、ある程度、年齢的なものも左右するだろうし、男の生理的な欲求とも言えるかもしれない。ただ、これは個人差で強弱はある。老齢になっても、権力志向の人もいるにはいる。みっともないが。

ということで、若い頃、読んで、それきりになっているシェイクスピアの『マクベス』を再読してみた。シェイクスピアは何を描こうとしたのだろうか。三人の魔女に暗示に掛けられて、王位を簒奪しようするマクベス。ところが、次々と出てくる不安。不安が増殖していく犯罪者の心理を描いた物語とも言える。

王を殺して権力を奪うまでの不安。簒奪した後、皆がついてきてくれるかどうかという疑心暗鬼、王位を簒奪したことが漏れるのを恐れる不安、秘密を知っていた知人の暗殺による罪の意識に追われる心。

シェイクスピアは、他の作品同様、当時の王室の歴史的背景を元に描いているようだ。もちろん、そこには、権力者に対する配慮がある。江戸時代、戯作者が、幕府に配慮して、時代背景を変えたように。ノンフィクションとフィクションの見事な配合ということか。

かつて、森護著『英国の貴族』(大修館書店)という本を読んだが、イギリス上流社会の源流は複雑だ(特にノーフォーク家)。呪われた上流社会と言うべきか。まあ、所詮、海賊を祖先に持つということだけかもしれない。そんなに上品ではない。

さて、話を戻すと、この作品に出てくる「魔女」とは何か。最初に指摘したように、これは妄想に過ぎないだろう。ところが、マクベスと、バンクォー(マクベス同様、ダンカン王の武将)は、同時に、魔女の託宣を聞いたことになっている。本来、これはあり得ない。

別々に、魔女の暗示を受けるのなら分るが、作品では、二人ともが同時に同じ暗示を受けている。これは何を意味するのだろうか。多分、二人ともそれぞれに、王位の簒奪の意志があったということではないだろうか。

お互い、簒奪の機会をうかがいながら、双方が牽制する。その中で、マクベスは、妻に駆り立てられて先に実行する。これからも分るように、マクベスは、気の小さい人間として描かれている。

そして、その時の、バンクォーの心中やいかに。気の小さい人間が権力を握れば、その火の粉は身に及ぶと、彼は危険を察知して逃げようとするが、マクベスの方が上手で、彼を刺客により暗殺してしまう。

この権力争い、いつの時代にも見られるドロドロだ。そして、マクベスは恐怖政治を行った結果、人心を失い、ついに倒される。シェイクスピアは、権力を握る愚かさを描こうとしたのかもしれない。

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2015年2月 6日 (金)

西垣通著『ネット社会の「正義」とは何か』を読了

先日、最高裁が裁判員裁判の死刑判決破棄を決定したという。ということは、裁判員裁判の有効性を無視したことになりはしないか。そもそも裁判員制度は、世間知らずの裁判官から出来た制度。本来なら、彼らの報酬は大幅にカットされるのが当然なのだが、裁判員は、ほとんどボランティアで大きな負担をかけている。裁判員裁判の決定を否定するのなら、裁判員制度を止めてしまったらどうか(*注)。

さて、西垣通著『ネット社会の「正義」とは何か(集合知と新しい民主主義)』(角川選書)を読了した。彼は、市民感覚を活かして、専門家が全体を見えないので、それを補完すべきだと論じている。確かに、現代社会は、複雑になり、そのため多くが細分化され専門化している。そのため、全体像を見失いがちだ。専門家は木を見て森を見ず状態になりやすい。

他方、各種情報はネットに流れていて、かつては専門家しか知らなかったことも、一般人が情報入手できるようになった。それを見る一般人は、同じ情報でも専門家とは違った見方をする場合も多い。

そこで、専門家は、一般人の見方を取り入れた方が、「知」のレベルが高まるとも言えるようになってきた。但し、一般人の見解も様々で、そのレベルも異なる。つまり、その「見解」は、混沌としている。果たして、一般人の見識は、どのように活かされるべきなのか。

ビッグデータは、必ずしも、あてにできないが、ネット集合知は、民主主義に活かせる可能性があるのではないか。専門化・細分化した世の中を案外冷静に見れるのは、一般人であると筆者は期待しているようだ。

確かに、そういうことは言えるかもしれないが、人は、誰しも、ある分野の専門家でありうるから、見えていない面があるはずだ。全てが全て見えていないとも言える。だから一般人の意見が全て正しいとは言えないかもしれない。それは個人であろうが、団体(集合)であろうと。

ただ、他者の行いは、誰しも、案外見えるものだとも言える。ネット集合知も活かせるものもあれば、そうでないものもある。はっきり言えることは、何もかも専門家に任せておけばいい時代ではないことは確かなようだ。そういう問題意識は、この著作を評価できるところだろう。あらゆることを専門家任せにせず、自らの問題と考えると共に、一人ひとりがネット集合知の可能性について考えてみることは無駄ではないかもしれない。

*注

少なくとも、裁判員制度は、量刑は裁判員は関与しないというように改める必要があるだろう。

*追記

知は単に集めただけでは駄目だろう。筆者は、「功利主義、自由主義、共同体主義」の三つの正義原理を統合し、ネット社会における集合知民主主義を実現するにはいかにすれば可能だろうか」と投げかけている。善の知を前提としているようだが、知は智のこともある。ネット集合知全体を「ある基準」で整理し、分類し、振り落とす機能をどこに持たせるか、そこが問題だ。

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2015年2月 5日 (木)

「言質」への意識の大切さ

どうも最近の日本の政治トップ層は、言葉を大切にしないようだ。そのため、多くの誤解を招いている。それで彼らが失脚するだけならいいが、今回の中東問題のように、災難が国民に降りかかるとなると、それは大問題だ(*注)。国民からすると非常に困ったものだ。

昔の政治家は、「言質(げんち)」を取られないように細心の注意を払ったものだ。特にトップは、『論語』の「綸言汗の如し」というように、一旦発した言葉は戻せないので、発言には気をつけた。それが出来ない人は、早々に失脚している。

「言質」とは、「後日の証拠となる約束の言葉」のことである。よって発言する時には、相手方がどのように受け取るか、微に入り細に入り事前に検討される。一般には、大体、スタッフが文面を作成し、トップがチェックを入れる。

現在の日本の政治トップは、残念ながら、所謂、三流政治家のレベルの評価を受けている。原因は、政治家の発言は独断で、シナリオを作成するスタッフの言うことを聞かないのか、それともスタッフの意識が低いためシナリオ自体が駄目なのか。

いずれにせよ結局、政治家の発言は今は瞬時に世界に伝わる。更に悪いことに、本来の意図とは異なる翻訳をされる場合もある。翻訳しても、誤解されない発言にする必要があるが、果たして、そういう意識があるのかどうか。

政治家は、思慮を深くし、正確に伝わるような発言に配慮すべきだろう。更に今はネットであらゆる発言が瞬時に世界に伝えられる。「言質」への強い意識を持ってもらいたい。政治家が、あらゆる発言のリスク管理ができないのなら、政界から去って頂きたい。国民には迷惑なだけだ。

*注

そもそも、この時期に、首相が、のこのこと中東訪問したことが問題だ。武器ビジネスに参戦しようと考えたのだろうか。誰が考えたのかは知らないが、死の商人の罠に嵌ったと言っていいだろう。彼らは、両者が戦えば、それだけ潤う。彼らのビジネスに関与することは危険が伴う。

そして、戦争によって、金融市場が動いて、利ザヤが稼げる。イスラム国は、死の商人の代理人に過ぎない。また欧米の政権を支えているのも、死の商人であることを忘れてはなるまい。未だ日本政府が、きれい事を言っているのには呆れる。武器ビジネスは、そんなに甘いものではないし、国民を危機に陥れる可能性も高い。

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2015年2月 3日 (火)

『災害と歴史遺産』展観覧

兵庫県立歴史博物館で開催されている『災害と歴史遺産』展を観覧してきた。阪神・淡路大震災20年の特別企画展だ。内容は、震災によって被災した文化財等レスキュー活動の記録だ。

震災で被害を受けるのは、何も人だけではない。過去の事例で見ても、多くの文化財が焼失したり、水没したりして、貴重な文化財が駄目になっている。これらは歴史的な人々の生活文化の積み上げを失くしてしまうので、その損失は計り知れない。阪神淡路大震災時、これらの文化財の重要性を再認識し、保存すべきだという考えが広まった。

歴史遺産と言うと、国宝や重要文化財と思われがちだが、多くの人々の生活の歩みを感じさせるものも、明らかに歴史遺産なのだ。それは古文書であったり、個人の日記や記録や資料、あるいは作品等も歴史遺産に含まれる。

今回の展覧会では、被災したものを調査、救出、応急処置、記録、返却したものの中から展示された。阪神淡路大震災時の兵庫県域関係の他、東日本大震災でレスキューされた岩手県内の資料も展示。また兵庫関係の過去の歴史的大災害の記録も展示している。

大きな被災記録は、江戸時代以前は記録が不十分だが、大体、70年から100年サイクルで、大きな被害を受けているようだ。だが、このサイクルだけで考えると危ない。今後の中小の被害は続くだろう。そのたびごとに文化財は失われる可能性が高い。いかなる事態が発生しても、それらを、いかに守り、保存して行くか。それは未来の人々に引き継ぐためにも、今の時代に生きる者の課題だ。

平成27年3月15日まで。

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2015年2月 1日 (日)

鬼が惚れた女~狂言『節分』

早いもので、もう節分の時期。ということで、狂言『節分』を取り上げてみよう。美人の女と女に惚れた随分人間的な鬼が主役。

節分の夜、夫は出雲大社に年取り(節分の夜に年を取ることを祝って行う儀式)に行ったので、美人の妻は留守を守る。一方、蓬莱の国に住む鬼は、節分の夜には、日本に渡っている。今年も、いつものように、はるばる日本に渡って、豆を拾って噛もうとやってきた。

疲れたところに、ちょうど家の灯が見えたので、門前の軒先で、休憩しようとする。更に、近寄って家の中を覗こうとするが、柊(ひいらぎ)で目を突いてしまう(柊イワシは、イワシの臭いで鬼を誘い、柊の葉が鬼の目を刺すとして、邪気除けとした)。邪魔な柊を払い落として、鬼は案内を請うと、出てきた女は、誰もいないので、家の中に引っ込んでしまう。

隠れ笠に隠れ簔をまとっているために見えないことに気づいた鬼は、それを脱いで、再度、案内を請うと、女は、「鬼が来た」と震えあがる。怖がる女に「怖いものではない。何か食べ物が欲しい」と言い、家に上がり込む。怖ろしがりる女から食べ物をもらうが、荒麦(カラス麦のこと)の食べ方を知らずに、捨てたため、女を怒らせてしまう。

そのうちに、女の容色に目を付けた鬼は、何とか自分の妻にしたいものと、蓬莱の島で流行っている小歌などを詠って気を引く。ところが、女は、全く心を動かさない。ついに鬼は泣きだすと、女は、それなら、本当に自分を妻にしたいなら、宝物をよこせと要求。鬼の宝物、すなわち隠れ簔・隠れ笠・打ち出の小槌を全て取り上げた上、「福は内、鬼は外」と豆をぶつけて鬼を追い払う。

まあ、夫の不在をいいことに、言い寄る男たちをからかった狂言かも。でも対応する女性は強い。金の切れ目は縁の切れ目とは、よく言うけれど、女性は現実的。得るものを得れば、男には用はない。女は、男より一枚上。

若い男の皆さんも、目当ての女性にプレゼントを渡したものの、振られてしまうことはよくあるだろう。そんな女性ばかりではないと願いつつ、相手を見極め、慎重に行かないと駄目ですね(笑)。

それにしても、流風も隠れ簔・隠れ笠・打ち出の小槌が欲しいものです。鬼から取る手立てはないものか。でも、やはりまず豆をまくことにしよう。鬼女に言い寄られ追っかけられても困る(笑)。

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