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2015年2月17日 (火)

高橋泥舟という人

最近の若い人は、歴史好きでなければ、高橋泥舟と言っても、ぴんと来ないかもしれない。幕末に活躍した人たちに、「三舟」がいる。以前にも取り上げたかもしれない。三舟とは、勝海舟、山岡鉄舟、そして高橋泥舟である。勝海舟は、多くの方がご存じであろうが、山岡鉄舟、高橋泥舟の二人を知っている人は最近少ない。特に、高橋泥舟の方は余計に。

高橋泥舟は、槍の名家山岡家の次男だった。ただ、いろんな事情で、母方の高橋家に養子に出される。ところが、家を継いだ長男が早世してしまう。残った長女に養子をもらうことになり、それが小野鉄太郎。後の山岡鉄舟だ。よって山岡鉄舟は義弟になる。

そもそも江戸城引き渡しに際して西郷隆盛との交渉に派遣される予定であったのは、高橋泥舟であったことは、あまり知られていない。結果的に都合が付かず、代わりに山岡鉄舟を推薦して、事なきを得た。歴史に、「でも」はないが、高橋泥舟が行っていても、交渉は成立しただろう。それだけの人物であったことは確かだ。

しかしながら、槍の名手で、徳川慶喜の身辺警護にあたった以後は、さっと身を引き、維新政府の要職に就くことはなかった。明治政府から、旧幕臣に履歴書のようなものを出させ、それなりの勲功を与えようとしたが、彼は、呼び出しにも応じようとしなかった。

彼には、国全体のことは考えても、奉仕するのは、徳川家のみと考えていたのかもしれない。隠棲して、美術品などの鑑定に精を出して、終えている(明治36年没)。すなわち、時代に合わせて、要領よく立ちまわった形跡はない。

結果的に、派手に目立った働きはしていないのに、多くの人々に高く評価されたのはなぜか。それは、いつも表舞台に立つことを望まなかった、いさぎよさかもしれない。その辺が教養のない下級武士上がりの目立つことばかり考える長州閥の人たちと大きく異なるところだ。

*追記

なお、泥舟という変わった名は、その字の如く、泥で作った舟だから、やがて沈んで消えてなくなるという意味があるのだろう。彼は、この名にした理由を次の歌に託している。

  狸には あらぬ吾身も つちの舟

      こぎいださぬが かちかちの山

 

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