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2015年2月 6日 (金)

西垣通著『ネット社会の「正義」とは何か』を読了

先日、最高裁が裁判員裁判の死刑判決破棄を決定したという。ということは、裁判員裁判の有効性を無視したことになりはしないか。そもそも裁判員制度は、世間知らずの裁判官から出来た制度。本来なら、彼らの報酬は大幅にカットされるのが当然なのだが、裁判員は、ほとんどボランティアで大きな負担をかけている。裁判員裁判の決定を否定するのなら、裁判員制度を止めてしまったらどうか(*注)。

さて、西垣通著『ネット社会の「正義」とは何か(集合知と新しい民主主義)』(角川選書)を読了した。彼は、市民感覚を活かして、専門家が全体を見えないので、それを補完すべきだと論じている。確かに、現代社会は、複雑になり、そのため多くが細分化され専門化している。そのため、全体像を見失いがちだ。専門家は木を見て森を見ず状態になりやすい。

他方、各種情報はネットに流れていて、かつては専門家しか知らなかったことも、一般人が情報入手できるようになった。それを見る一般人は、同じ情報でも専門家とは違った見方をする場合も多い。

そこで、専門家は、一般人の見方を取り入れた方が、「知」のレベルが高まるとも言えるようになってきた。但し、一般人の見解も様々で、そのレベルも異なる。つまり、その「見解」は、混沌としている。果たして、一般人の見識は、どのように活かされるべきなのか。

ビッグデータは、必ずしも、あてにできないが、ネット集合知は、民主主義に活かせる可能性があるのではないか。専門化・細分化した世の中を案外冷静に見れるのは、一般人であると筆者は期待しているようだ。

確かに、そういうことは言えるかもしれないが、人は、誰しも、ある分野の専門家でありうるから、見えていない面があるはずだ。全てが全て見えていないとも言える。だから一般人の意見が全て正しいとは言えないかもしれない。それは個人であろうが、団体(集合)であろうと。

ただ、他者の行いは、誰しも、案外見えるものだとも言える。ネット集合知も活かせるものもあれば、そうでないものもある。はっきり言えることは、何もかも専門家に任せておけばいい時代ではないことは確かなようだ。そういう問題意識は、この著作を評価できるところだろう。あらゆることを専門家任せにせず、自らの問題と考えると共に、一人ひとりがネット集合知の可能性について考えてみることは無駄ではないかもしれない。

*注

少なくとも、裁判員制度は、量刑は裁判員は関与しないというように改める必要があるだろう。

*追記

知は単に集めただけでは駄目だろう。筆者は、「功利主義、自由主義、共同体主義」の三つの正義原理を統合し、ネット社会における集合知民主主義を実現するにはいかにすれば可能だろうか」と投げかけている。善の知を前提としているようだが、知は智のこともある。ネット集合知全体を「ある基準」で整理し、分類し、振り落とす機能をどこに持たせるか、そこが問題だ。

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