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2015年5月27日 (水)

帰還した夫~『万葉集』より

『万葉集』に次のような話がある。結婚して、まだ日が浅いのに、ある日、夫が、忽然と姿が見えなくなった。周囲に聞いても、誰も知らない。現代でも、北朝鮮による拉致問題は、未だ解決していないけれど、古代では何があったのだろうか。

実は、夫の方は、国から密命を帯びて、辺境に遣わされていた。当然、家族にも、打ち明けられないから、妻にも告げず、行ってしまった。今でも、そういう仕事はあるかもしれない。妻の方は、そんな事情は知らないから、ただ悲しむだけ。やがて病に罹り、床に伏せる。

そして、かなりの年数を経て、夫は帰還する。国に報告して、我が家に帰ると、妻の様子は大きく変わっていた。容姿は、既に結婚した頃の姿ではなく、病を得たこともあり、疲れ切った様子だった。その惨めな姿を見て、咽(むせ)び泣いて、次の歌を詠む。

  かくのみに ありけるものを 猪名川の

     奥を深めて 我が思へりける

「ああ、こんなに、やつれ果ててしまって。私は、そんなことも知らず、猪名川の深い底のように、心の底に深く、新婚の頃の美しい、あなたのこと記憶して、赴任しても、一時も忘れることなく、思い続けていたことよ」。

それに対して、妻の方は、寝間に臥しつつ、枕より頭を挙げて、次の歌を詠んだという。

  ぬばたまの 黒髪濡れて 沫雪(あわゆき)の

     降るにや来ます ここだ恋ふれば

「泡雪の降る中、こんなにも黒髪が濡れて、お帰りになったことだ。長く、こんなにお慕いしていたことが実って」

でも、妻の気持ちは複雑だろう。夫に再会できたことは嬉しいものの、なぜ今まで知らせてくれなかったのかという気持ちもあるだろうし、今の惨めな姿を夫の前に曝している悲しさ。こういう悲劇は、ないことが望ましい。結局は、国と国の争いが、このような人たちの不幸を生む。為政者は、国民の為と思うならば、深く思慮し配慮したいものだ。

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