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2015年6月30日 (火)

播州弁 その二十七 すける

今回の播州弁は「すける」。「お母さん、今月、ちょっと苦しいんや。ちょっと、すけてんか」とか言う。嫁いだ娘が、給料前に家計が苦しくなって、実家の母親に、おこづかいをねだる時のように、何か難渋している時にに使う。「すける」とは「助けるとか、援助する」のこと。

「たすける」の「た」が抜けたものと考えられる。播磨には、浜手では、地名でも結構、抜け言葉がある。ちょっと、呼びにくい地名が、そのようになったかもしれない。大阪人のように、せっかちとも思えないのだが。

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2015年6月29日 (月)

多党連立政権運営マニュアルの必要性

安倍自民党は、リベラル派閥(あるいは各種勉強会)には、圧力をかけて政府に反対の意見は発信できないようにしているようだ。まさに独裁政権。極めて、不自然な感じだ。かつてあった自由闊達さが現在の自民党に見られないのは残念だ。やはり、きちんと分党して、あるべき姿になって欲しいものだ。

先のブログ記事で記したように、かつて中選挙区制の時は、自民党も各派閥の長が集金力を活かして、それぞれが力を持っていた。よって政権は、自民党内派閥連立政権であった。派閥の主張は異なることがあったが、それを調整して、権力を維持していた。

しかしながら。小選挙区制と政党助成金制度になって、今の自民党は、派閥は存在するものの、力を失って、結局、政権を担っているものが、権力を単一で持っている。よって、かつてのシステムの善し悪しは別にして、必ずしも国民の声は反映されず、自由闊達な意見は、実質皆無である。それは選挙の時に、公認をもらえなければ、当選が難しいと捉えるからであろう。その結果、現在、多数を握っているものの、自民党の魅力は、急速に落ちている。

では、どうすればいいか。やはり幅広く民意を反映するには、新しい政治理念と政策ごとに、自民党を分党すべきだろう。その上で、連立を組めばいい。あるいは、現在の野党との組み合わせもあるかもしれない。その場合に、求められるのが、多党連立政権運営マニュアルの必要性だ。

船頭が多いと、迷走しがちだ。かつての民主党政権の場合は、これが無かったため、迷走し、決められない政治になってしまった。すなわち、多党連立政権としては、野党と調整しつつ、多党連立政権内で、どのように期限を区切って、政策を意思決定するかということが大切だ。将来的に、野党が政権を握っても、同様に、多党連立政権運営マニュアルは必須であろう。

*追記

多党連立政権運営マニュアルの内容は、様々であろうが、素人考えで浮かぶことを列挙してみた。従来の政権運営と似ているが、一般に次のようなものの合意が考えられる。

一、多党連立政権の最終目標の設定と方向性の確認

二、政策の優先順序の決定(内政、外政)

        各党の公約との擦り合わせ。

三、政策日程調整の仕方

四、政策予算の配分の仕方

五、各党のエゴの調整方法

六、多党による意思決定の仕方と運営

七、非常時の意思決定の仕方と運営

八、多数決と少数意見の取り扱い

九、採決期限

十、マスコミ対応の一致原則(共同広報)

十一、連立各政党の広報の調整方法

十二、閣議以外の首相及び各大臣の発言のルールと犯した場合の処置

十三、マスコミへの出演の制限と調整

十四、選挙区調整 競争と調和

十五、野党対策の考え方の一致

十六、各議員の公開、非公開を問わず、発言ルールの設定

等々

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2015年6月28日 (日)

ガーデニング用ノコギリの購入

ガーデニングの時、枝切りが必要になる。細い枝であれば、剪定用のハサミでなんとかなるが、太い枝となると、ハサミでは厳しい。親も、ガーデニング用のノコギリを持っていたが、どうも切れ味が悪い。砥げば、多少、よくなるが、それでも、ちょっと厳しいので、追加で購入を、かねがね考えていた。

ところが、ネットで購入可能だが、やはり現品で確認できないので、やや不安。近くには、昔のような金物店が無い。ホームセンターに行けば、置いてあるが、相談できるスタッフはいない。ということで、しばらく、諦めていた。

先日、百貨店で、金物の特別販売がされているのを通りかがりに見て、相談すると、三木の金物で、これがいいですよ、と薦められ、即、購入。使ってみると、切れ味、抜群。作業効率が格段に上がり、以前より、楽に作業ができる。やはり、道具は大切と思った次第。

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播州弁 その二十六 へたる

今回の播州弁は、「へたる」。へなへなと元気なく、べったり座ること。「あいつ、試合でミスして、チームが負けて、へたりこんでいるで」とか言う。大体、悪い時に使う。気分が落ち込んで、へなへなと座り込む感じ。まあ、こうという時は、静かに見守る。それから、しばらくして、「いい加減に元気ださんかい」とか声を掛けて、飯に誘ったりする。

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2015年6月27日 (土)

百田尚樹氏をマスコミから“追放”を

百田尚樹氏をマスコミから“追放”をするべきだろう。彼に関する過去のマスコミの報道を見ていると、甘い感じがする(*注)。過去の彼の目に余る言動の数々は国際的にも問題になっている。その彼が、ついにマスコミを敵に回した。

安倍首相シンパの自民党若手の40名ほどの勉強会「文化芸術懇話会」において、講師として出席し、沖縄の地元紙が政府に批判的だとの意見が出たことに対して、「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない。あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば、目を覚ますはずた」と発言した。

彼は、発言を責められて、後に、「冗談だった」と言っているが、過去の発言からして嘘だろう。明らかな言論封じの意図が感じられる。

また、比例近畿選出の長尾敬議員は、「沖縄の特殊なメディア構造をつくってしまったのは戦後保守の堕落だ」などと述べている。これは、今までの自民党政権の否定でもある。

また東京16区選出の大西英男議員も、次のような発言をしている。「マスコミをこらしめるには、広告料収入が無くなることが一番だ。我々政治家には、言えない。ましてや安倍晋三首相は言えないが、文化人、民間人が経団連に働き掛けてほしい」と。

それに続いて、熊本一区選出の井上貴博衆議院議員が、「青年会議所のときに、マスコミをたたいてみた。日本全体でやらないといけないことだが、広告料収入、テレビの提供スポンサーにならないことがいちばんこたえることが分った。経団連も商工会も「こどもたちに悪影響を与えている番組ワースト10」とかを発表して、それに出している企業を列挙すればいい」と発言している。

これらの発言から、財界や政治評論家等と自民党の癒着が明らかになった。井上貴博衆議院議員等は議員辞職が相応しい。またこの会に出席した議員たちは、彼らの発言に多くは賛意を示したそうだから、彼らは謹慎し、全ての役職を辞するべきだろう。次の選挙では、落選することが望ましい。そのように自民党支持者も言っている。

戦後70年の間に、この程度の人間が跋扈していることに危惧を強く感じる。国会議員が、この程度なのか。選挙期間中、自民党候補に限らず、保守系政党の若手に、戦争に対する認識の甘い人たちが多く出ているのは確かだ。ある意味、逆の意味で、平和呆けの人々だ。

それを煽るようなことを百田尚樹氏などがしている。関西某局の極論政治評論番組でも、それがなされているが、あまりにも政治を弄ぶ傾向が強過ぎる。若手の政治家がそうなのだから、一般人も影響される人々も出てくる。このような番組は自制が求められる。

マスコミに出演する関係者は、オフレコであろうが、非公式発言でも、その影響力を考えて、慎重に言葉を選ばなければならない。保守派の発言が、自民党政権の北朝鮮化、あるいは中国化を促すことになる。これは決して望ましいものではない。戦前の悪夢の再来だ。早期に、マスコミは、百田尚樹氏を業界から“追放”すべきだ。

*注

百田尚樹氏は、安倍首相と近く、彼に推薦されて、NHKの経営委員になったが、放送界としての見識は全く持っておらず、暴言を吐いて、日本を貶めた。後に、退任したが、マスコミは、安倍首相を恐れたのか、彼を攻撃する手を緩めてしまった過去がある。

マスコミは、権力の傍にいる人物は、徹底的に調べて、その言動や行動をチェックして、国民に知らせることを怠ってはならないだろう。彼らの軽々しい言動を利用する恐怖政治への道は決して開いてはいけない。

*2015年6月27日追記

自民党は、「文化芸術懇話会」代表の木原稔青年局長を更迭したようだ。ただ、加藤勝信氏、荻生田光一氏、薗浦健太郎氏等や、その他の発言者の処分はしていないようだ。

*2015年6月28日追記

自民党の谷垣幹事長が、NHKの報道番組で、若手議員の暴言について、謝罪したようだが、党としての彼の謝罪だけでなく、本人たちが、国会で謝罪し、議員辞職するべきだろう。これらの議員たちは、国民としては、不要だろう。それほど、彼らの発言は、民主主義の根幹に触れるものであり、国会議員としての罪が重いのだ。それまで、この問題は、けりが付かないだろう。

*2015年6月30日追記

読売新聞は、一連の言論弾圧に鈍い反応をしている。また百田尚樹氏に対しても擁護的だ。極めて、危険な報道機関と言っていいだろう。国民の敵として、不売運動が展開されても不思議ではない。

また大阪維新の会の主要メンバーも、彼を擁護していると言う。何と言うセンスの悪さ。この党も消えていくのだろう。それとも、安倍自民党のメンバーとして入り込んで逃げ込むのだろうか。橋下氏の政治手法は、安倍首相と似ており、国民にとって、危険な感じた。彼らを取り込めば、自民党が、ますますおかしくなる。

*2015年7月4日

言論の自由を考えると、「永久追放」は問題があると指摘がありましたので、永久を外し、「“ 追放”」と変更しました。

*2015年7月10日

偏向雑誌のSAPIO(小学館)が、百田尚樹氏を取り上げたようだ。それより、もっと大きい問題は、問題発言をした議員たちが、未だ議員辞職していないことだ。幹事長処分で済むと思っているのだろうか。最早、自浄作用が、自民党に働かないと言うことだろうか。

*2015年8月4日追記

またまた自民党若手議員から、不穏当な発言があったようだ。滋賀4区選出の衆議院議員、武藤貴也氏が、安全保障関連法案への抗議活動をする若者グループ「SEALDs(シールズ)」の主張に対して、次のような発見をしたらしい。

「(シールズの主張は)『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的な考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは、戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ」と。

ちなみに武藤議員は36歳。法的安定性など、どうでもいいというような発言をした礒崎陽輔首相補佐官と同様、低レベルな政治家だ。次の選挙で消えて欲しいものだ。日本を危うくする。

大体、彼らは、米国の安保関係者の言うことを忖度し過ぎる。彼らの後ろには、死の商人が控えており、米国の安保関係者の発言は、思惑や裏の意味を理解しなければならないが、額面通り受け止め過ぎる。要するに政治家として、失格。つまり安倍自民党政権そのものが、駄目だと言うことだ。

*2016年7月9日追記

木原稔自民党衆議院議員が、またまた妙な発言をして大問題になっている。彼は教育現場で「子供たちを戦場に送るな」というような中立性を保てない発言をする教師がいれば密告しろ、と言っているのだ。こんな発言をする議員がいること自体、大変嘆かわしい。自民党はどうなっていくのだろう。

批判されて、この文言は削除し、「安保関連法案は廃止すべき」と言った教師を密告するように変えている。彼にすれば、「子供たちを戦場に送るな」イコール「安保関連法案は廃止すべき」なのだろう。思考が浅く、発言の軽い議員がいることは、自民党自体を貶める。放置すれば、自民党も危うくなるだろう。

 

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2015年6月26日 (金)

播州弁 その二十五 もろたん

今回の播州弁は、「もろたん」。もとは、「もらう」。物を頂くこと。「もろたん」の場合、単に頂くと言う意味になる。だが、イントネーションで語尾を上げると、疑問形になり、「頂いたのか」の意味にもなる。「もろたんや」と言えば、決定的に「頂いた」の意味になる。

大体が、物を頂くことにつかうのだが、「ものもらい」という言葉もある。子供の時によくなる「めばちこ」のことである。そういうと、以前にも記したが、子供の頃、太陽が本当に赤いのか、確認して、ものもらいになったこともある(苦笑)。

眼が痛くて、しばらく、ビービー泣いていたことを思い出す。母に、「ほんまに、あほやなあ」と呆れられた。眼科に連れていかれて、「もう、太陽、見たらあかんよ」とか言われながら、治療を受けた。こういう「もの」はもらいたくないものだ。さすがに、大人になってからは、その経験はない。

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『三木翠山展』(姫路市立美術館)を観覧

姫路市立美術館で開催されている『三木翠山展』を観覧してきた。姫路市立美術館に行くのは久しぶりだ。時期的なこともあるのだろうが、芝生の手入れはされておらず、幾分違和感。

さて、三木翠山については、全く知らなかった。兵庫県加東郡社町(現加東市)で、1883年生まれ、後に京都に出て、竹内栖鳳に師事している。30歳の時に、第7回文展に、「朝顔」で初入選する。

その後は、竹内栖鳳のアドバイスに従って、美人画の創作に専念する。確かに、展覧会会場には、自然を描いたものや、水墨画に彩色したものもあるのだが、素人目にも、そんな上手とは思えない。

それに比べて、美人画に限らず、人物画は、なかなか見事な感じを受ける。やはり師匠は弟子の特性を見抜いていたのだろう。また彼の描く美人画は、モデルに品があったのか、どれも優雅な感じを受ける。

よって、彼が生涯描いた美人画だけの展示だけでも良かったかもしれない。ただ、それだけだと、どれも同じ美人のパターンなので、観る方は飽きるかもしれないが。

もちろん、美人画を描くにしても、それぞれテーマは異なる。その点は配慮されている。だけど、彼が思い描く美人像は皆同じ。彼の中に理想の美人像が強くあったののかもしれない。

その他には、栖鳳門下の日本画家たちの作品が展示されている。ただ、それがために、三木翠山の作品を幾分、弱めているのは否めないのは、少し残念。目移りするからね(笑)。

展覧会は、平成27年7月26日まで。

*追記

この美術館に行くと、いつも思うのだが、総合受付の雰囲気が悪い。観覧者が入場しても、挨拶もしないし、私語を交わしていて、受付として教育を受けていないことが判る。ところが、各コーナーの受付とかは、きちんと挨拶してくれるので、非常に残念だ。総合受付が、この美術館の印象を悪くしている。

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2015年6月25日 (木)

“雪の花”咲く

少し前から、木の枝に、小さい白い花が集まって咲いている。ナンジャモンジャの木だ。この木は、以前にも記したように、実生から育ち、長年、樹種が不明だったが、緑の相談センターに尋ねて判明した。一応、俗称で、ヒトツバダゴが正式名だ。

割りと希少種らしい。家では、さらに、この木の実生から、木が生え、2本植えているが、今年、初めて花が咲いた。ギリシャでは、「チオナンサス」と言うらしい。意味は、“雪の花”だ。なるほど、そう言われれば、イメージとしては、そんな感じ。しばらく、「夏の雪」が楽しめる。

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播州弁 その二十四 ごっとさん

今回の播州弁は、「ごっとさん」。人によっては、「ごっつぉさん」にも聞こえる。「ごっとはん」と言う人もいる。「ごちそうさん」のこと。言葉の短縮系とも考えられる。もちろん、男言葉。女性は使いません。

最近は、可愛らしい若い女性が、「飯いこか」なんて言っているけれど、お里が知れます。間違っても、女性には、「ごっとさん」とは言わないで欲しい。言葉の男女同権という考え方は、やはりおかしいでしょう。

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2015年6月24日 (水)

節電のため空気清浄機等を処分する

電気料金が、また上がったので、家電製品の追加処分をした。まず空気清浄機だ。大体、本当に空気清浄がなされているのかは、分らないし、手入れを怠れば、むしろ危険な商品でもある。よって、処分。翌月の電気代を見ると、割と下がっていた。その代わり、入口付近とか、窓付近の掃除の頻度を上げることにした。今のところ、問題なし。

もう一つは、衝動買いした新型布団乾燥機。確かに手間は省けるが、電気料金が跳ね上がることに気づいて、処分することにした。布団の外干しは何かと問題があるので、室内干しを工夫。一応、こちらも問題なし。

以前にも、いろいろ処分し、家には、基本的な家電しか残っていない。パソコン、冷蔵庫、掃除機、洗濯機、クーラー、扇風機、照明、電気こたつ、ぐらいだろうか。もうしばらく料金の変化を見なければならないが、それなりの節電効果は出ると予測している。

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播州弁 その二十三 おとんぼ

播州弁に、「おとんぼ」という言葉がある。これは他の地区では通用しない。語源も、よくわからないが、「末っ子」の意味である。「あの子、おとんぼで甘やかされて育ったので、わがままや。困ったもんや」とか言う。「そやけど、あの子、皆に、かわいがられとるで。明るいし、元気あるし」とか言われて、親は嬉しくなったりする。「おとんぼ」の育ち方は、全国、どこでも、同じ状況のようだ。

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2015年6月23日 (火)

自民党の賞味期限は終わったのか?

安倍自民党の暴走を、残念ながら党内から止めようとする動きがない。要するに、党内で、政権チェックができないのは、かつての自民党から変質したことを感じる有権者は多いだろう。

かつて自民党は派閥政治が横行した。派閥と派閥のぶつかり合い。党の成り立ちからして、その考え方の違いも含めて、お互い牽制し合う権力闘争だった。選挙のたびに、金が飛び合い、汚い政治資金集めがなされた。俗に金権政治と言われた。

ただ、派閥ごとに、業界の勉強会がなされ、業界の要望を素早く吸収し、政治献金の見返りに、それを政治に反映させた。結果的に、各派閥は、それぞれの分野の専門議員を育成し、それが政策に活きた。

それが、いろいろ問題になって、派閥を解消し、政治献金の代わりに、政党助成金が交付されるようになった。選挙の仕組みも、中選挙区制度から小選挙区に移行した。これが政治に於いては、大きな変化であったが、有権者は理解していなかった。相変わらず、有権者は、過去の自民党と判断していた。

しかしながら、現在、形だけの派閥はあるものの、実質派閥として機能していない。代わりに、総裁が、政党交付金という金の力を握って、それが権力に直結している。違う見方をすれば、要するに、今の自民党は、一つの派閥のみが存在し、巨大化していると言える。

よって限られた意見しか反映されず、多様な意見は抹殺されている。最早、自民党支持者の様々な要望も吸収できなくなっている。これが政策の自由度を奪い、政党としての魅力を失っている原因になっている。全体的に強者の意見だけを尊重する傲慢な政治になっているからだ。

今、言えることは、組織の活力を再生するには、新しい政治理念の下に分党するしかない。そもそも、自民党は、「自由党」と「日本民主党」が合併してできたものだ。これに先祖返りして、党を、いくつかに割る分党しか、この党の生き残る道はないだろう。

その上で、多党連立で、政権を作ることが、これからの政界の動きの中心となるだろう。少なくとも現在の自民党は、すでに賞味期限が切れている。次の選挙までに、新党という新しい体制を作ることが国民にとっても望ましいだろう。それができなければ、自民党そのものが消えていくだろう。また、国民にとって、そうしなければ民意は反映されない状態が続き、最悪の状態になるだろう。

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2015年6月22日 (月)

播州弁 その二十二 おとろしい

今回の播州弁は、「おとろしい」。子供の頃、子どもたちに怖れられた、強面のお爺さんがいた。子供たちが、少し悪さをすると、大きな声で怒鳴りながら、追いかけてくる。「あの爺さん、いつも、おとろしいなあ」と言いながら、逃げ回っていた。「怖い」の意味だ。

その爺さんの頭は、見事に、つるつるに禿げていて、昼寝していると、それをめがけて、剥いたミカンを投げたりしていた。まあ、他愛のない悪さなんだけれど、そのお爺さんは、すぐ、むきになるので、面白がっていたのだ。

しかし、そのことは、後に母親たちの知ることになり、随分しぼられたらしい。ちなみに流風は参加していません。本当に(笑)。その他に、大人の世界では、「あいつ、また何かやらかしたらしいで。おとろしい奴や」とか言う。学生でも、使っているかな。

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播州弁 その二十一 ほたえる

今回の播州弁は、「ほたえる」。小さい子供時代、近所の友達と、部屋で暴れていると、「ほたえるの、いい加減にしい」と母に叱られた。友達の家に行って、同様のことをしても、そこのお母さんに、よく言われた。

「ほたえる」きっかけというのは、一種、じゃれあうこと。それが、ついつい行き過ぎて、暴れてしまう。男の子では、よくあること。最近は、子供時代に、そういうことをしないから、加減を知らずに育って、大きくなって、大変な事件を起こしてしまう。

室内で、「ほたえる」と、いろんな家財道具を壊して、それはそれなりに大変なのだが、当時の母親たちは、男の子の成長には致し方ないと諦めていたようだ。いろんな物を壊して、叱られて、男の子は成長する。

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播州弁 その二十 ほんまけえ

久しぶりに播州弁を取り上げよう。今回は、「ほんまけえ」。大阪弁なら、「ほんまかいな」かな。「その嘘、ほんま?」とか、「ほんまけえ?」などと言う。疑いつつ、微かに、もしもという感覚が働く。もし、そうだとすると、ちょっと厄介やなという気持ちになる。

事実かどうか、確かめるのだが、このように問うと、どこか柔らかい。まあ、そのように問われても、必ずしも、本当の事を知っているとは限らないので、その後、話は、ぼかされる(笑)。嘘か誠かは神のみぞ知る。おしゃべりな男は、どこにもいる。

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2015年6月21日 (日)

篠田桃紅著『百歳の力』読了

先日、書店で、ふと目に入った篠田桃紅著『百歳の力』(集英社新書)。表紙の彼女の写真に惹かれて、ふと衝動買い。単なる、着物姿のお婆さんなんだけれど。そして、非常に怖い男のような顔だ。

彼女については、よく知らなかったが、水墨画の現代アート作家で、2015年現在、103歳。更に、知らなかったのだが、『103歳になってわかったこと』という本が、女性に人気で、ベストセラーらしい。但し、この本は読んでいない。

一般に、以前に記したように、女性の書いた著作は読まない。かつて母の存命中は、女流作家の作品を色々買ってこいと頼まれ、読後は、押し付けられ、しばらく本棚を飾っていたが、結局、ほとんどが読まず仕舞いで、全て処分。

女性の感性で描かれた小説、随筆等は、男が読むには、若干辛いことを若い時に経験しているからだ。それは女性のおしゃべりと同じで、取り留めのない話が多くて、男には、何を示したいのかが、なかなか分らないからだ。

ただ、今回、桃紅氏の本を読んでみると、その論は極めて明快。男でも、読んで辛くない。どちらかというと、外見同様、男ぽい。それは現在まで、独身を貫かれ、アートの世界で専心やりぬかれてきたからかもしれない。

別の見方をすれば、ある意味、お金持ちのお嬢さんが、気儘に自由に生きてきたこともあるだろう。誰でも、そういう人生を歩めるわけでもない。彼女は、比較的恵まれた方だろうが、大正、昭和、平成の長きにわたって生きていくと、それなりの困難はあったことだろう。ある意味、時代を生き抜く知恵が示されている。

本の構成は、次のようになっている。

第一話 常識の世界に生きなかったから、長生きできた

第二話 苦労なんかしてないわね。したいこと、してるだけ。

第三話 人間としてやることはもう全てやっちゃったみたい

第四話 人生というものをトシで決めたことはない

第五話 “美”とは、相反する両極を持つこと。そこに一切がある

第六話 人生の予測は立てられない。すべてはなりゆきまかせ

といったような内容。概ね、高齢者独特の自慢話とも受け取れる。でも、彼女は現在103歳の長寿で現役のアーテイストということで、人生の成功者には違いない。彼女の真似はできないだろうが、生き方の参考には十分なるだろう。男女問わず、お薦めする。

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2015年6月20日 (土)

風流武士・前田慶次郎について

戦国時代、前田慶次郎利太(とします)という人物がいた。先日、放送が終わったNHKの木曜時代劇『かぶき者慶次』は、彼の晩年を描いたものだ。原案は、火坂雅志だったが、慶次郎の生涯を描いたものでは、海音寺潮五郎著『戦国風流武士~前田慶次郎』(文春文庫)が、少し前に読んだのだが、より彼の生涯における人間性が見えて面白い。

もちろん、海音寺潮五郎の時代考証は、割と正確であるが、どこまでが史実で、どこまでが創作かは不明だ。だが、前田利家の甥(但し、いろんな説がある)であり、様々な戦場で、功があったのは確かなようである。また律義な性格の利家とは真逆の性格であったことも確かなようだ。

さらに、本阿弥光悦との付き合いも有り、文化人としての側面もある。事実かどうかわからないが、石川五右衛門との交流もあったと云う。次男坊という気楽さから、各種つきあいも、自由闊達であった。その結果、発想が豊かであるがため、人を馬鹿にするような口から出た禍で、何度も危機に陥るが、不思議と誰かが手を差し伸べてくれる。

また、謹慎中は謹慎中で文学に関心を持ち、精通したりする。いつも自然体なのだ。要するに、いつでも自分を活かす道を知っていたことになる。その外見や行動とは裏腹に、「信誠」という哲学と共に、いわば戦国時代特有の死生観を持っていたと推察される。彼は、皆を代表して、それを出し共感を得ていたと思われる。

更に、戦場では、きちんと活躍し、言行一致し、口だけでないことも、皆が一目置く理由だ。これは現代でも通用する考え方であろう。自由に発言すると共に、責任ある行動を取る。自由闊達に生きることは、容易いようで、なかなか難しい。だが、前田慶次郎の生き方には、未だ憧れる。

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「かかりつけ薬局」は必要か

政府の規制改革会議に於いて、「かかりつけ薬局」が答申されている。概要は、次のようになっている。

一、患者の服薬情報を一元的に管理する「かかりつけ薬局」の要件を明確化するなど薬局全体の改革の方向性を検討。

二、保険薬局と保険医療機関を別の所に置く「医薬分業」が、車いす利用者や高齢者に過度な不便を強いているとの指摘があり、患者の薬局選択の自由を確保しつつ、現行の規制を改める。

まず、一、の方だが、「患者の服薬情報を一元的に管理する」ため、現在、「お薬手帳」が普及しているので、これを徹底すればいいのだが、患者の方で、複数、「お薬手帳」を持ち、その意味を理解していない患者が一部存在することは確かだ。

だが、それだからと言って、「かかりつけ薬局」が必要かと言えば、大いに疑問だ。そんなことをすれば、薬局は、全ての診療科の医薬品を用意せねばならず、小さな処方薬局は消えてしまう。「かかりつけ薬局」の発想は、資金力のある大手薬局の謀略だろう。

患者の方からすると、大手薬局は、人件費が、かかっているためか、いろんな名目で、料金を患者から徴収し、トータルで支払額が、高くなる傾向がある。つまり「かかりつけ薬局」になれば、患者の負担が大きくなることは間違いない。

そして、二、の方は、病院によっては、不便と感じる患者も一部いることは確かだろう。ただ、院内に独立した薬局とは言え、固定化すれば、病院・薬品会社との癒着が生じる可能性もある。それでは、本来の「医薬分業」の意義を損なうことになりかねない。

一、二、を通じて、結局言えることは、「お薬手帳」の普及徹底であり、一患者に一冊しか提供されない仕組みを考えることである(*注)。それが「かかりつけ薬局」の発想になったすれば、大手薬局の意向だけを汲んだ考え方の貧困であろう。

*注

「お薬手帳」の管理ナンバーと「保険証」ナンバーで管理できるはずだ。

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2015年6月19日 (金)

番大膳という人

池田輝政に仕え、後、その子の池田利隆(後に、松平武蔵守利隆と名乗る)の家老で、輔弼した人物に、番大膳という人がいた。彼は、胆力が素晴らしかった。要するに肝が据わっていたのだ。

それを示す次の話が伝わる。徳川家康は、輝政に自分の娘を嫁がせたとはいえ、池田家は譜代の臣ではないので、必ずしも信用していなかった。そこで、輝政時代はともかく、利隆時代には、徳川家臣団は、いろいろ画策して、潰そうとした。まず偽の風聞を流すことから始まる。

それは、大阪の陣の時、池田利隆は二心を抱き、風見鶏的に、形勢有利な方に味方するとしたのである。それは家康の耳にも入る。家康は、真相をただすべく、利隆を呼びつける。しかし、利隆は、病と称して、出向しようとしない。代わりに、家老の蕃大膳をつかわす。

大膳が出向くと、当然、家康は不機嫌。代理人をよこすなど以ての外と考えていた。よって大膳に対する扱いは厳しくなる。ところが、この蕃大膳という人物、訥弁である。要するに、田舎の誠実そうな、おじさんが、虚飾なく、事実だけを述べて、不明瞭なところは一点もない。

家康が、番の言葉を時々、遮りながら、質問するが、臆することなく、家康の疑問点を明らかにしていく。さすがに、これには、家康も、「利隆には、二心はなさそうだ」と判断した家康は、簾を上げて、「以後、きっと慎め」と申し渡す。

ところが、番は、畳に額を当てて動かない。それに対して、側近の本多正信(多分、この騒動を仕掛けた中心人物)が、「ありがたき御上意である。早く帰って、この旨、しかと伝えよ」と言う。それでも番は動かない。本多が更に催促して、初めて顔を上げる。そして、次のように言う。「以後、慎めというお言葉には誓約しかねます」と。これには、家康も正信も、耳を疑う。

番は、それに対して、「我が主人、利隆は、過去に於いて、誤り無きこと、お聞き届け下さりましたものと拝察します。かつて、誤りがありませんのに、慎めと言われても、従いようがありません。よって誓約は無用と思われます」と。

これには、家康も何も言えなかった。ただ、「わかった」と言っただけだった。狸と呼ばれた家康も、このような武辺一辺倒のような誠実な人間には、返す言葉がなかった。結局、番が申し出て、このようになったのかは不明だが、利隆の作戦勝ちということになった。本多の謀略は、もろくも崩れ去った。

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2015年6月18日 (木)

政党に憲法改正は無理

日本国憲法は、戦後、「米国から与えられた憲法」と、よく言われる。戦後の混乱下、時間的制約から、自主憲法とは、必ずしも言えないかもしれない。しかし、様々な事情で、日本国憲法は制定された。当時の世界状況からすれば、理想の憲法と言われる。よって、誰が下書きを作ったということは、あまり問題ではない。要するに中身だ。

戦後、現在の憲法で、日本は、曲がりなりにも、平和国家を維持してきた。それは、この憲法の効果は、無視できない。憲法を改正するなら、国会ではなくて、一般国民の側から多くの憲法学者の意見を踏まえて、改正案を出すべきだろう。一度には無理だから、前文から初めて、一条ごとに検討すればいい。現在の憲法で問題が無ければ残せばいいだけの話だ。

基本的に、国民の側から憲法は制定されるべきだが、現在の憲法改正論議を見ていると、自民党は、単に「与えられた憲法」だから、「日本人の精神」を反映した自主憲法にしようという方は多い。では、「日本人の精神」とは何か。そんなことを書き込むのが、果たして憲法と言えるのか(ちなみに自民党は、改正案を作って、皆の笑い者になりました。一体、誰が作ったのでしょうか)。

自民党に限らず、権力を持つ国会議員任せにすることは極力避けたいものだ。概ね、彼らは、国家権力を行使する側に居て、目先しか見ていないので、ミスリードするのは間違いない。それは集団的自衛権論議でも明らかなように、国民には最悪だ。

憲法は、国民の側から、国家権力をチェックするためのものだ。憲法改正をやるとすれば、、国民側で多数の憲法学者の発議と総意で試案を練るべきで、決して政党を関与させてはならないだろう(*注)。

*注

もちろん、憲法学者だけでなく、多くの哲学者、歴史学者等の意見も踏まえる必要がある。

 

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2015年6月16日 (火)

姫路市「城下町よもぎ祭」について

姫路市では、昨日2015年6月15日より、姫路市産業局・大学連携商店街活性化事業の一環として、兵庫県立大学環境人間学部エコヒューマン地域連携センター主催で、「城下町よもぎ祭」が始まったようだ。

姫路で、よもぎと言えば十二所神社が頭に浮かぶが、子どもの頃、母が、よもぎ餅を作ってくれたり、たんこぶや、おできができると、よもぎ汁を作って塗ってくれたりした。今から考えると、効果のほどは、よく分からないが、母が塗ってくれると治るような気がした。母は、ドクダミ同様、干してお茶にして飲んでいたようだった。

なお、兵庫県立大学環境研究学部 栄養科学研究室では、5~7月に収穫したよもぎは、美容や老化の大敵とされる「活性酸素」と取り除く機能がアップするとか。期間中(6月21日まで)協賛店舗により、様々な、よもぎを利用した商品が提供される。

*  2016年5月12日追記

2016年の「城下町よもぎ祭2016」の日程は、5月15日から5月22日までです。よもぎを使った創作メニューが姫路城下町の約25店舗で提供されるとのこと。詳しいことは、「城下町よもぎ祭2016」のフェイスブックを見てください。

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謡曲『井筒』を読む

今回は、『井筒』を取り上げる。この題材となっている『伊勢物語』の筒井筒については、以前、「幼馴染の恋」(2006.09.03 )として取り上げた。幼馴染だった在原業平と紀有常の娘。

謡曲の内容は、いつものパターン(笑)。まず旅僧が、在原寺に立ち寄り、在原業平と紀有常の娘を弔う。彼らが、住んでいた所だ。ただ、ほとんど人が来る気配もない。誰しも、亡くなれば、忘れ去られる存在だ。それが空しいと思うか、止むを得ないと考えるか。

休んでいると、そこに里女が、塚に花を手向け、水を供えに来る。僧が、なぜ手向けているのかと問うと、業平の寺だから、弔っていると言う。しかし、正体は明かさない。じらし効果かな(笑)。

しかし、僧は、業平は、遠く昔の人なので、今、誰も参らないのにと怪しむ。女に、何か関わりのある人ではないかと問う。それでも、女は、決して所縁のある者ではないと否定する。そうは言いつつ、業平との思い出の昔語りをする。やっと尻尾を出した。

在原業平と紀有常の娘は、後年、石の神(在原寺のある所)に住まいした。その時、業平は浮気し、河内の国の高安の女のところに行こうとする。まあ、当時は、浮気という意識はないが。それなのに、有常の娘は、不案内の行く道の安全を祈って、細やかな気配りをした次の歌を贈る。

  風吹けば 沖つ白波 龍田山

    夜半にやひとり 君が越ゆらん

それに対して、謡曲では説明が無いが、実際は、業平は出かけていく。しかし、高安の女は、付き合いの慣れからか、ぞんざいな扱いをして、業平の気持ちは萎えてしまって、二度と行くことはなかったという。結局、有常の娘のところに戻った。やはり上記の歌が前提として利いているのだ。有常の娘は嫉妬の炎を燃やすことなく、賢明であったということ。

また、幼い頃、井筒のそばで、語らったり、お互いに、井戸に顔を映して遊んだ。お互い大きくなるにつれて、意識するようになり疎遠になったが、成人して、歌を読み交わすようになり、やがて結婚したことを語る。

   筒井筒 井筒にかけし まろがたけ

       生ひにけらしな 妹見ざる間に

                         (業平)

   比べ来し 振分髪も 肩過ぎぬ

       君ならずして 誰かあぐべき

                   (有常の娘)

その上で、やっと、女は、私は有常の娘だと明かし、夜半にまぎれてきたと言い、有常の娘とか、井筒の女とか言われてきましたと言う。そうするうちに、やがて消え去る。僧は、その夜、苔の筵に臥して、夢の出会いを期待し、うとうとしていると、今は亡き業平の形見の衣装を着て、有常の娘が現れ、業平を偲んで、舞う。その姿は、まさに業平。最早、女の姿ではない。更に、井筒にその姿を映し、業平の面影を懐かしむ。そうこうするうちに、夜明けとなり、僧は夢から覚める。

この謡曲が何を伝えようとしたのだろうか。人の一生の虚しさか。死後の空しさか。いずれにせよ、人は、忘れ去られる存在。せいぜい、多くの思い出を残し、現世を楽しむべきなのか。

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2015年6月15日 (月)

役割終えた維新の党

維新の党が、まだ活動しているが、本来、「大阪都構想」を目的にして、成立した政党だから、役割は終えている。だから、未だ活動しているというのは、国民から見たら訳がわからない。早期に解党なりして、新しい理念で、新党を作るか、他党と合流することが求められる。そうしないと、国民から見て、判りにくい政党に映る。

*追記

単に、党名を変えるだけでは駄目だ。維新の党内では、路線違いから、様々な意見が出て、いずれ収拾がつかなくなる。それまでに、新しい体制での臨むのが、議員にとってもいいだろう。

*追記

橋下氏は、政治理念は別にして、かつての「民社党」(現在、存在する社民党ではない)のような政党運営を望んでいるように見える。それは正論だが、日本人の国民性からして、成功しないだろう。どっちつかずの政党は支持を得られないのだ。

*追記

依然として、橋下氏の政界復帰を望む報道するマスコミがあるが、マスコミのセンスが問われる。彼の政治手法は、安倍首相同様、独裁的で、ヒットラーとよく例えられるが、日本にとっては、不幸だろう。扇動する能力は高いが、大阪府民は、もうこりごりと言う人が多い。やはり政治の舞台からは去って頂きたいものだ。引退して、せいぜい政治評論家あたりで活躍する方が、日本にとっても、彼にとっても望ましいだろう。

*平成27年7月6日追記

政界を引退するとしていた橋下氏が、また動き出したようだ。「関西維新の会」を立ち上げるらしい。維新の党自体、その目的が果たせなかったのに、未だ「維新」の看板を掲げるようだ。「明治維新」は失敗だったと一部識者から指摘されるのに、このネーミングはないだろう。新しい目標を何にするのかは不明だが、彼の政治手法には限界がある。結局、かき回すだけかき回し、後に何も残らないだろう。国民にとっては、迷惑なだけだ。

*平成27年8月27日追記

橋下徹氏と、松井一郎氏が、維新の党を離党するらしい。年末のダブル選挙に向けての思惑らしい。

そもそも、「大阪都構想」に失敗して、維新の党は終わった政党だが、まだ、ごちゃごちゃと動いている。有権者には迷惑なことだ。また、大阪派と東京派は、水と油。それらが一緒になって、一つの政党であることが、既に無理がある。早く分党なり分裂なりして、有権者に分りやすい党になってもらいたいものだ。

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中江藤樹の子育て訓

中江藤樹が子育てについて述べているので紹介しておこう。ちなみに中江藤樹は、江戸初期の陽明学者。弟子に熊沢蕃山がいる。それでは、彼の子育て観を示しておこう。

「子を育つるに、是非なく親に似せしめんとするは悪し。生まれつきは、人にかわりのあるものなれば、その子の天性よきところを見立て、それがままに、生かし立つれば、父と風儀がわりながらも、また一種の好人となるものなり」と。

子供の素質は、親に似ることは確かだが、親と、また違った一つの人格である。よって、親と同じ道を歩ませるのは、慎重にしなければならないということだろう。もちろん、彼らが望めば、同じ道を歩んでもいいが、親が押し付けない方がうまく行く。

また親が出来なかったことを子供に託すのも、子どもの天性を無視したもので、あまりよい結果は得られないことも記しておこう。藤樹の子育て観は、ツボを押えているが、多くの親たちが、今も間違った判断をしていることが見られるのは残念だ。

そんなことをすれば、子どもたちは、遠回りするだけだということを再確認し欲しい。ただ、母親に客観的に子供の適性を把握せよと言っても、愛情に覆い隠されるため、難しいかもしれない。ここは父親の出番であろう。

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2015年6月13日 (土)

地方は姥捨山か

一応、民間団体の「日本創成会議」が、東京圏の高齢者の地方移住を促すよう求めて騒ぎになっている。これは政府が東京一極集中の是正に向けた地方創生の一環として高齢者移住を推進する方針とリンクする。

そもそも「日本創成会議」の議論は、統計データをベースになされた机上の理論。地域の実情を把握した上での提言でないので、どうしても説得力は弱い。彼らの提言に政府が乗ってしまうと、間違った政策になりうる。

今回の提言は、単に地方は姥捨山か、ということになってしまう。極めて危うい議論だ。高齢者にも、それぞれ歩んできた人生があるし、生活がある。都会で生活してきた高齢者が、ある日、突然、地方に行けと言われても、若い時と比べれば、順応力も弱いし、姥捨と感じるのも無理はない。

それに地方は、高齢者ばかりなのに、今以上に高齢者を受け入れれば、活力の再生はない。却って負担になるだけで、ますます地方を弱体化させる。東京のエゴで、地方に負担を押し付ける発想は頂けない。

「日本創成会議」は、データの解析は、いいとしても、変な提言は止めて頂きたい。

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2015年6月12日 (金)

クリストファー・リー氏の訃報

クリストファー・リー氏が6月7日に亡くなったという報道があった。英国の個性のある俳優だった。何と言っても、ドラキュラ伯爵の役が、衝撃的だった。結構、女性に人気があったようだ。女性の本能を刺激するのだろうか。

よく観た映画では、「007 黄金銃を持つ男」で、殺し屋スカラマンガ役を演じていた。彼は、殺しをやる前に女性を抱く習慣があったが、何となく、ドラキュラのイメージが重複した。007シリーズでは、比較的面白い方だと思う。DVDがあるから、久しぶりに観てみよう。

高齢になっても、生涯、俳優活動を続け、亡くなった年齢が何と93歳。ご冥福を祈る。

*追記

彼は、「スター・ウォーズ」とか、「ロード」・オブ・ザ・リング」といった作品にも出演しているらしいが、残念ながら、多分、観ていない。機会があったら、観てみたい。

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派遣企業と癒着する労働者派遣法改正案

企業の派遣労働者受け入れ期間の制限をなくす「労働者派遣法改正案」は、労働コストを継続的に引き下げたい企業と派遣労働者の固定化(正確には、労働者のモノ扱いによる非人間化)により、利益を確保しようとする派遣企業と癒着する法律案だ。

以前にも述べたように、派遣労働者は様々だが、生計の中心となる派遣労働者の場合は、概ね、低所得の固定化につながりかねない。また野党が主張する、正社員と派遣労働者の同一賃金も欺瞞だろう(*注)。

本来、派遣労働者の賃金は、身分保証がないのだから、正社員の倍額支払われることを目標にしなければならない。企業は、そういった観点から、正社員を増やすのか、派遣労働を使うのか判断するのが望ましい。

今回の改正案は、内容が明らかに不十分であろう。この案を強行採決すれば、国は、企業と癒着していると捉えられても仕方ない。

*注

仕事によっては、現状より改善されるかもしれないが、本当の目標でないという自覚があるかどうか。

*平成27年6月20日

企業の派遣労働者受け入れ期間の制限をなくす労働者派遣法改正案が、衆議院本会議で、自民、公明両党などの賛成多数で可決されたようだ。これは派遣労働者の固定化により、雇用を不安定化させる。それは社会の揺らぎにつながる可能性もある。

自民党は企業と癒着しているからともかく、かつて弱者の味方を標榜していた公明党が賛成したことは、最早、党の理念とはかけ離れているだろう。また安保法制に対する取り組みを見ても、すでに「平和の党」とは言えないだろう。一体、支持者の方々は、どういう思いで、これらの動きを見ているのだろうか。公明党も、壊れていくかもしれない。

*追記 2015年に可決された労働者派遣法改正案のポイント

◎企業の派遣労働者受け入れ期間の制限をなくす

◎現在の派遣期間は一般業務は最長3年、専門業務は無期限。業務区分をやめ、一律のルールで、期間制限を撤廃する

◎企業は労働組合から意見を聞き、3年毎に人を交代させれば、派遣労働者をずっと使える

◎人材派遣会社に、同じ職場で3年を迎えた人に別の派遣先を紹介するなど雇用安定措置を義務付ける。

◎悪質業者排除のため、全ての派遣会社を許可制にする

◎施行は2015年9月1日の予定

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2015年6月11日 (木)

秋でもないのに、桔梗咲く

昨年、買った桔梗を秋に移植した。株が結構増えて、少し楽しみにしていた。今朝、ふと庭を見ると、桔梗が咲き始めている。紫の花をゆらゆらさせている。初夏というのに、もう秋の風情。そこで、「古今集」の紀友則による次の「きちかうの花」と題した歌(第四百四十番)。きちかうとは桔梗のことらしい。

 秋近う 野はなりにけり 白露の

   置ける草葉も 色変はりゆく

歌の中の「秋近う」に「きちかう」が仕込まれている。初秋の歌で、桔梗も、そろそろ終わりの段階か。桔梗は夏から結構長く咲く。でも、イメージとしては、秋の色彩が強い。私が少し驚いたのも、そういうことかもしれない。

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憲法を軽視する安倍政権と次の選挙

憲法は国民の立場で国家権力が暴走しないように歯止めするのが本来の目的だが、安倍政権になって、ずっと恣意的解釈をして、憲法を軽視し続けている。このことは、裏を返せば、国民を軽視することにつながる。国民を守るためと称して、集団的自衛権を持ちだしたが、最終的には、国民を危機に陥れる可能性の方が高い。

この結果、今、心理的に、自公離れが進んでいる。自民党支持者も、次の選挙では、野党に投票しないまでも、棄権するという方が年輩者では多い。問題は、若者たちの投票率だが、じわじわと集団的自衛権のリスクを感じ始めているようだ。次の選挙では、自公は大敗する可能性が高い。問題は、野党が、どれくらい受け皿として候補者を立てられるかということになる。

憲法を軽視することは、国民を軽視することにつながり、それが政権にどれくらいの大きなダメージを受けるかを、安倍政権は覚悟すべきだろう。

*2015年6月15日追記

相変わらず、自公政権は、憲法解釈を捻じ曲げ、集団的自衛権行使について、諦めたくないようだ。そもそも集団的自衛権の論議が出るのは、外交が弱いからだ。米国に、無理難題を押し付けられても、それに対して返すアイデアを持ち合わせていない(基本的に外交権は、米国に握られている)。

集団的自衛権を行使して、苦しむのは、若い世代だ。行使する時には、安倍氏も中谷氏も、この世に居ないかもしれないから気楽なものだ。誰が戦地に赴くのか。更に、第三国に恨まれれば、日本はテロの対象になり、一般人も、危険にさらされる。

最早、平和の配当は受けられなくなるのだ。平和産業も、多くの市場を失うだろう。彼らの名誉欲によって、多くの日本人は、将来、苦しむことになるだろう。

*2015年6月18日追記

国会中継を見ていると、相変わらず、安倍氏(最早、首相とは言わない)は、集団的自衛権をごり押しする発言をしている。どんなに強弁しても、納得できるものではなく、狂信的と感じる。病的と言わざるを得ない。

自民党は、いつまでも、この人をトップにして、生き残れるのか。かつて小泉元首相は、「自民党をぶっつぶす」と言ったが、本当に壊れてしまうかもしれない。自民党議員の方々は危機感が足りないのではないか。

*2015年6月21日追記

どうも自公政権は、維新の党を罠にかけても、集団的自衛権関係の法律を通したいようだ。そうなれば、維新の党も、早々に壊れてしまうだろう。それは結果的に、来年の選挙絡みで自民党の思惑通りだ。つまり安保法制に維新の党は利用するが、勢力が大きくなってもらっては困るということだろう。

でも、自民党の存立基盤そのものが危うくなりつつあるのだが。国民は、従来になく、危機感を持っている。かつてのような支持は得られない。泥船から逃げ出すのは誰か。果たして、各議員に、それだけの政治嗅覚が衰えていないかが見物である。

*2016年7月13日

参議院選挙では、与党の自公が大勝し、三分の二を握った。残念ながら、若い人たちの憲法への危機感は弱かったようだ。現在の選挙結果は、若い人たちの将来を規定する。今からでも日本の憲法が、どのようなものか理解することを望みたい。

自民党は、かねてからの主張は、「自主憲法」の制定であり、彼らは憲法改正とは言うものの、現在の「日本国憲法」の改正ではない。つまり、現在の憲法を廃止して、全く異なる憲法を制定することをもくろんでいる。

自民党のホームページには、「自民党憲法改正草案」が示されている。それを熟読してもらうと判ることだが、これは国民主権ではなく、国家主権を謳ったもの。すなわち、国民が国家に統制されることになる。その時、苦しむのは、一般国民だ。そういうリスクを抱えることを忘れないでほしい。

 

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2015年6月10日 (水)

2015年の姫路ゆかたまつり

昨年の姫路ゆかたまつりは、露店が約40店舗(商店街の出店を併せても約80店舗。それまでの700店舗から諸般の事情で大幅に減った)に大幅に縮小して、貧相な感じになった。

今年は、市内の業者に限り、出店料を大幅に値下げしたところ、出展希望は増えて、最終的に、商店街の出店と併せて、約200店舗になるらしい(それでも、以前と比べれは、三分の一以下だ)。

それでも、今年の、姫路ゆかたまつりは、昨年より楽しめるかもしれない。日程は、毎年同じで、6月22日から24日まで。時間は、午後4時から9時半までだ。例年のように、ゆかた姿であれば、さまざまな、お得なサービスが受けられる。

*追記

少子化の時代には、従来の子ども対象のゆかたまつりというより、大人対象のゆかたまつりへの転換が望まれるかもしれない。そうすれば、何もお城周辺だけでなく、全市で展開できる。

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姫路にも路面電車を

本日、6月10日は、「路面電車の日」らしい。ラジオを聴くまでは知らなかった。なぜ、路面電車の日にしたかは、幾分、こじつけが強い。「路」の「ろ」から「六」とし、「電」を「テン」と読み替え、「十」ということらしい。かなり苦しい(笑)。

さて、姫路にも路面電車が走ればいいとも思う。地下鉄は、東京のような大都市はともかく、ほとんどの都市で、赤字続き。市民にも大きな負担になっている。姫路には、かつてモノレールというものがあったが、やはり大都市ではなかったので、失敗している。

路面電車の方は、線路を付ければ、後は、電車の購入費と維持運営費が課題になるが、線路をはがすコストは、比較的安い。ニーズに合わせて、設置すれば、それなりの効用があるというのは素人考えであろうか。

報道によると、「2015年版交通政策白書」では、「お年寄りが、運転しなくても、便利に暮らせる社会を目指し、次世代型路面電車(LRT)などによる生活の足確保が重要」としている。企業側の提案があるとしても、検討の余地はある。

実際、高齢者の車の運転は、危ない。かといって、地域には移動手段が限られる。となれば、何らかの手が打たれることが望ましい。バス運行には限界があるし、タクシーも料金的下げることは難しいし、将来的には、運転手不足になるだろう。

ただ、高齢者への配慮だけでは限界があるから、他の要因も必要だ。観光に利用してもらえるようにするのも大切な考え方であろう。病院、商業施設等と繋ぐと共に、観光を絡めて地域活性化の要素も組み込むアイデアが望まれる。そうすれば、採算も合うようになるだろう。

姫路では、実験的に、JR姫路駅南から市役所、そして姫路港ルートでやってみたら、どうだろうか。

*2016年9月27日追記

最近の報道でも、バスの運転手の不足が深刻化しているという。それを補うため、神姫バスは、女性運転手の雇用倍増を計画しているらしい。確かに、最近、各種配送トラックで、女性の運転手を見かける。

ただ、バスの場合は、多くの人を乗せているので、結構、気力・体力を要する。適性検査を誤ると、難しい面もある。女性運転手もいいが、神姫バス自体、将来、路面電車の経営に参画することも検討が必要ではないだろうか。

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2015年6月 9日 (火)

話相手がいなくなった老後~古今集より

『古今集』に、老後の話相手のいないことを嘆いた歌がある。それが、先日、初夏の鶯の欄でも取り上げた藤原興風のものだ。ちなみに、「百人一首」の三十四番にも採られている。

  誰をかも 知る人にせむ 高砂の

    松も昔の 友ならなくに

藤原興風は生没年が不詳なのだが、この歌から察するに長生きしたのかもしれない。「幸運にも長生きしてしまったが、周囲には、親しい友は誰もいない。長寿の高砂の松はあるけれど、昔からの友でもないし、語り合えることもない」という感じ。

人生とは、こうしたものかもしれない。子供に恵まれ、孫にも恵まれても、同時代を語り合える友がいない寂しさ。周囲に人はいても、語り合える人がいないというのは、人生、最後の試練かもしれない。

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2015年6月 8日 (月)

対中米国外交を考える

米国外交は、基本的に何も変わっていない。基本的に、戦略は、ご都合主義を貫いている。そして好戦的だ。それは国内を、まとめる手段でもある。そして、侵略して(ここでの侵略とは、領土的野心とは限らない。いわゆる経済侵略も含める。いろんな理屈をつけるが、TPPも、その一環である。また同盟国、非同盟国は、あまり関係が無い)勝てると判断すれば条約を結ぶ傾向がある(*注1)。

もちろん、そのためには、国民を一応納得させる裏付けは取る。それが仮に作為的でも。そして、対象国の国民の人心を掴むことに熱心だ。戦後の対日占領政策も、3S政策(*注2)で、国民の歓心を買った。そして、表面的には植民地政策は取らない。それよりビジネスが優先する。すなわち経済的利得が大切なのだ。

そんな中、日本政府は、果たして、米国の対中外交政策を理解しているのだろうかと時々思うことがある。もちろん、流風は外交の専門家ではなく、単なる一般人である。でも、その一般人が首を傾げたくなる外交を展開しているように見える(但し、最近は、米国から警告されて修正傾向にある)。

それでは、米国の対中外交姿勢はどのようであろうか。基本はずっと変わっていないだろう。専門家ではないので、詳しいことは分らないが、基本的に20年前と変わっていないように見える。例えば、20年前の1995年に、ガーデン商務次官が次のように語っている。

一、中国は、20年後には米国に重要な戦略的脅威をもたらす敵対国になる可能性がある(これは20年後の2015年にまさに予想通りだ)。

二、中国の外国向けの言動には誇張があり、中国は言われているほど、良くもないし悪くもない。

三、中国は、かつてのソ連のような封じ込めの対象ではなく、深い関与(ディープ・エンゲージンメント)の対象として、対話を重視する。

四、米国の対中政策で、経済、道徳、安全保障の3つの義務を持っている。

五、中国に行使できる米国の影響力は限られている。

とした上で、米国のアジア戦略は「日米同盟に基礎を置き、アジアの経済力を米国の外交目標に活用していく」となっている。

ちなみに、エンゲージンメントとは、国務省から発するメッセージで、「封じ込めに代わる関与」の意味である。なお、米国は、対外的に、エンテージメントと併せて、安全保障戦略としている。エンテージメントとは、国家安全保障評議会が発するメッセージで、「民主主義の拡大」という意味である。

今後、中国は、覇道を歩むのか、それとも王道を歩むのか。基本的に米国次第であろう。米国の考え方を熟知し、中国の動向を把握する必要がある。周辺諸国は、彼らの言動を一般人であっても、チェックしていく必要があるだろう。

*注記

この記事は、以前にも、同様なことを記した。「米国の対中政策の考え方」(2014年8月22日付)だ。今回は、米国の発言者のデータベースが見つかったので、念のため記した。

*注1

これに対して、ロシアの場合は、条約を結んで侵略する傾向がある。従来の日本政府が、日露平和条約に慎重なのは、そういう点を考えていると思う。油断ならない国だ。甘い言葉を投げかけてきた時が、最も危険だ。

*注2

3S政策とは、愚民政策で、スポーツ、スクリーン、セックスで、国民を骨抜きにすること。これによって、二度と戦争する意欲を無くさせることを狙った。いかにも米国的な見方。戦争が起るのは、領土問題の他に、食糧を巡ってのことが多い。

*追記

安倍政権が、中国を仮想敵国と考えて、安保体制の強化を図るのは、あまり望ましくない。米国でさえ、かなりまえから、競争者ではあるが、中国は最早、敵国ではない。むしろ関係は強化されている。米国の安保関係者に煽られて、やたらと中国を敵視するのは時代錯誤であろう。米国の安保関係者のバックに死の商人が控えていることを忘れてしまっているのだろうか。

巨大になって行く中国が意識に上がるのは、仕方ないにしても、発想の転換が求められる。最終的には、体制を乗り越えて、日米中の同盟関係を築くことだろう。その場合、いかに周辺諸国に配慮するがポイントになる。基本は、外交努力だ。そこが日本の出番だ。

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2015年6月 7日 (日)

初夏の鶯

春先に鳴く鶯は、新人さんのように、少し鳴き声が頼りないが、初夏に山から下りてきて鳴く鶯は、しっかりした鳴声だ。ずっと鳴いていることはないが、突然、鳴いて去っていく。どこに行くのだろう。

ところで、次のような歌がある。

  声たえず 鳴け鶯 ひととせに

    ふたたびとだに 来べき春かは

これは古今集にある百三十一番の歌だ。作者は、藤原興風で、通称、興風で通っている。百人一首にも別の歌で採用されている。彼は官位こそ低かったが、古今集を代表する歌人で、三十六歌仙の一人だ。「一年に二度来ない春だから、春を惜しんで、せいぜい声を上げて、鳴きたまえ」というような内容かな。

別の初夏の鶯の話では、醍醐天皇は、旧暦四月一日に鶯が鳴かないので、源公忠に歌を詠わせている。それが次の歌。ちなみに彼は、光孝天皇の皇子の長男だ。

  春はただ 昨日ばかりを 鶯の

    かぎれるごとも 鳴かぬ今日かな

これは、『大和物語』第百三十一段に載っているもの。百三十一続きは、たまたま。狙ったものではありません(笑)。大意は、「もう春は終わったものと感じて、鶯が春以外に鳴くものかと決めて今日は鳴かないことよ」、と詠んでいる。天子様の御意向を受け入れないのは、鳥の世界ゆえ、お諦め下さい、というようなニュアンスかな。まあ、鶯にも、いろんな都合があったのでしょう(笑)。

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2015年6月 6日 (土)

『花伝書』を再読

久しぶりに、『花伝書』を読んでみた。別名『風姿花伝』といわれるものだ。著者は、言わずと知れた世阿弥だ。若い時は、能には、全く関心がなかった。30代後半に、知人に勧められて、『花伝書』の現代訳されたものを購入したが、それほど目を通したことはない。蔵書として残しておいたのが不思議なくらいだ。

熟年世代になって、やっと能や謡曲に関心が向き、拙ブログでも、度々題材として取り上げた。ただ、私は、謡曲本を読んだり、時々聞いたりはするものの、舞台で舞ったりはしないので、この本をいくら読んだところで、分らないことは多い。

ところが、最近読んだ増田正造著『世阿弥の世界』(集英社新書)を読んでみると、徳川家康も、これを読んで、政治に参考にしていたらしいとのことだ。仕事も芸道も極めるということは結局、同じなのだろう。ということは、今は仕事をしていない部外者も、読んで何かを得られるのではないかと思い、再度、手に取ってみたという次第。

ご存じの方も多いだろうが、彼は、まず芸の実力を養成し、そこから芸に工夫して実力を発揮して、「花」になるとしている。更に、その上は、芸に対する自覚をして、自信を深めることが、「花」を充実させると言っている。

養成部分は、まず各個性を活かした稽古をし、年齢ごとの鍛錬の仕方を示している。その上で、各演技の物真似を通して、その意味を心技共に理解することを求めている。更に実力を発揮するには、各人が問題意識を持って、芸に工夫することを求めている。

また、それぞれの芸は、進化させていくもので、時代ごとに、その解釈も変わって行くことを暗に示している。一つの型を固定的に考えるのではなくて、時代に柔軟に対応することが、その時代の芸風を作るということかもしれない。世阿弥の意図するところは、まだ十分理解できていないだろうが、今後も、時々読んでみようと思う。

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2015年6月 5日 (金)

主役は脇役

子供の頃、劇を演じることになって、内気で人前に出るのが苦手な流風が主役を指名されたことがある。確か、「桃太郎」だったと思う。セリフも今から考えれば、大したことが無いのだが、前日の夜は、セリフが、ちゃんと言えるだろうかと心配で、一睡もできなかった記憶がある。

当日、両親も観覧の中、何とかやり終えた。実は、雉、猿、犬の役の方が断然、セリフが多く、主役と思っていた桃太郎の役は、セリフが少なかった。要するに、指名された先生は、ちゃんと、流風に配慮されていたことになる。劇自体は大成功で、万雷の拍手の中で終わった。父が撮った写真は、ずっと残っていて、よく見たものだが、残念ながら、今は、どこに行ってしまったのか、アルバムに残っていない。

さて、主役と思った本人の勘違いを今更ながら、思いだす。朝のNHKのドラマも、新人を主人公にして展開されるが、結局、脇役の出来不出来で、内容は決まる。脇役が主役を食ってしまうと言うが、芝居の世界で、脇役の占める割合は高いと思う。主役は、ある意味、「花」だが、花を支える茎や根がしっかりしていないと咲かないことになる。だから、主役というのは、見方を変えれば、(皆が主役という意味では)、場合によっては、案外、脇役かもしれないと思う。

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2015年6月 4日 (木)

恐竜型破綻を考える

企業が破綻するケースは様々だが、今回は大型組織破綻を見てみる。事業を急速に大きくし過ぎて破綻する例が最近多い。一部量販店等も、その一つだ。

ただ、事業を大きくしても、破綻しないケースもある。何が異なるのか。一つ言えることは、タテ型組織で組織拡大した場合は破綻するケースが多いようだ。現場に権限委譲をせず、あくまで本社・本部一括組織で管理する形態だ。結局、市場で何が起こっているか適切に把握できず、ライバルに後れを取ってしまう。

それに対して、適切に権限委譲し、ネットワーク経営をしているところは何とか生き残っている。もちろん、ネットワーク経営したからと言って、全て成功するわけではない。分権組織で、日々の管理が徹底しなければ、組織は崩れやすい。よってバックアップが、どれくらいできているかが成果の分かれ目であろう。

今後も、組織運営の仕方を見直ししなければ、恐竜型破綻は起るだろう。可能性としては、今すぐのことではないが、顧客との距離がある、大手流通、メガバンク(*注)で、それが起るかもしれない。大きいからと言って安心はできない。

*注

一部大手流通には、価格を下げれば、売り上げが上がるという考え方が、蔓延って、顧客サービスを怠っている。低価格戦略だけでは限界がある。また、メガバンクの場合は、一部の顧客に対応し、その他には、顧客サービスはいい加減。驕りのようなものが感じられる。確かに、利益を上げているが、前期に関しては、適正利益を超えた過剰利益を計上している。顧客に還元していないことは明らか。こういうことは、いつまでも続かない。

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2015年6月 3日 (水)

『リア王』再読

久しぶりに、シェイクスピアの四大悲劇の一つの『リア王』再読した。四大悲劇が何かなんて、ここでは記しません(笑)。『リア王』は、シェイクスピアの作品としては、子どもの頃から、絵本も含めて、割と多く接した。話の大まかな筋は、三人の娘に、生前に財産分与して失敗して、娘たちを含めて全てを失った王の話と言えるだろう(末娘だけは、財産を受け取っていないが)。結果的には、娘三人全て死んでしまい、王は狂乱の中、悶え死す。

この物語は、多くのことを示唆しているが、矢張り、生前に財産分与するリスクが挙げられる。王は、高齢であるので、そろそろ楽隠居して、娘たちに面倒を見てもらおうとしたのだろう。リアは、忠実な臣下のケント伯等が反対するにもかかわらず、生前に財産分与すると宣言する。

財産分与すれば、老後の自分は、当然、娘たちに看てもらえるだろうという発想だ。それに対して、三姉妹の内、長女のゴネリルと次女のリーガンは、王にお世辞を言って、たくさんの財産を得ようとする。ただ、末娘のコーディーリアのみ真心があり、一切お世辞を言わないが、逆に、それが、リアは頭にきて、財産を一切与えず、その分も、長女と次女に分配してしまう。

教訓一

ところが、いざ分配してしまうと、長女・次女の対応は、コロッと態度が変わる。いくら実子でも、このようなものかもしれない。昔、得意先にセールスに行った時、そこの社長夫人は、「財産は、子どもたちには遺さない。財産をあてにしないように、自立するように常々、子どもに言い聞かせている。会社も相続させるかどうか分らない」と言っておられた。

その後、会っていないので、どのようにされたかは不明だが、おそらく、そのようにするのが好いのだろう。仮に財産が残れば、本人の死後、相続という形で、分ければいいことだ。そこで、子どもたちは揉めようと、親の目には触れない。つまり、生きている間は、財産は渡さないのが正解だろう。子供の心は微妙だ。高齢になっても、依存心は危ういということだろうか。

リア王は、親子関係と言えども、権力の本質を甘く見たと言える。例えば、一般に、高齢になったトップが息子に社長職を譲り、代表取締役を返上すると、金融機関は、彼には見向きもしなくなる。それが現実だ。それを寂しいと思うなら、社長職を息子に譲っても、会長職に留まり、代表取締役を返上しないことだ。権力とは、そういうものだ。

教訓二

もうひとつの教訓は、親に子供の心は読めないことだろう。親というものは、子どものことは分っているようで、案外、分っていない。幼少時、親から受けた小さい心の傷が、大人になっても、ずっと残ることもある。子育ては、なかなか難しいものだ。子供にも、いろんなタイプがいるだろうが、一般に、特に結婚して別居すれば、生活に追われて関心が薄くなる。そうなると、ますます子供の心は読めなくなる。リア王の場合も、長女・次女は結婚して、外に出ている。末娘は、まだ結婚していないが、果たして、彼女が結婚しても、真心を持ち続けられたかは分らない。あるとも言えるし、ないとも言える。

また式部長官のグロスター公は、嫡子のエドガーに加えて、庶子のエドモンドがいるのだが、エドモンドがエドガーを罠にかけ、貶めようするのに親のグロスターは気づかない。これは、ちょっとしたエドガーとの感情の行き違いから生じたものだ。こういうことは、現代でも、十分ありうる。子供に関する評価は、情報を多面的に得て評価しなければならないということだろうが、現実は、感情が入り混じり、なかなか難しいことだろう。

教訓三

更に、お金持ちには、財産目当ての人物が近づいてくるということだろう。その中で、人物をより分けるのは難作業だ。末娘のコーディーリアが財産をもらえないと判明すると、彼女との結婚を望んでフランス王と争って勝ったバーガンディ公は、掌を返したように去っていく。結局、「あなたを除いて、何を望まない」と言ったフランス王が彼女を引きとっていく。お金持ちの娘の相手選びは難しいということだろう。

教訓四

更に更に付け加えると、もう一つの教訓は、親というものは、子供については、身近な人のアドバイスも耳に入らないようだ。これは、リア王だけでなく、賢明な人も、そのような傾向がある。身近にいる人も、他人の子供に関して注意・諫言するタイミングは大切だ。間違えば、ケント公のように地位や命を失う。それほど難しい。

これ以外にも、まだまだ教訓は隠されているが、ここら辺で止めておこう。やはりシェイクスピアは面白い。

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2015年6月 2日 (火)

英国のドラマ 『ダウントン・アビー』の放送終わる

先日、英国のドラマ『ダウントン・アビー』の放送が終了したが、その結末は衝撃的だった。このドラマは、2012年の制作で海外で人気が高かったらしい。人々は、何に期待したのであろうか。貴族社会の覗き見感覚であろうか。若干、話がくどい部分があり、全てを通して視ていないので、筋が分らない部分もあるが、私が感じたことを少し記しておく。

グランサム伯爵家のクローリー家も三人娘。堅苦しい生活の中で、長女のメアリーはわがままし放題で、恋愛に積極的。そして、彼女は、常に財産をあてにした発言ばかり。ついには、伯爵の投資失敗でダウントンを手放さざるような事態に陥ると、彼の夫になるマシューの亡き婚約者の相続財産も、あてにする始末。次女、末娘も自由気ままに恋愛に熱心だ。

それでも、何とか幸せを掴もうとするが、伯爵家には、次々と危機が迫る。それを、それなりに皆で解決しようとする。チームワークが無いようであるという雰囲気。内部では揉めても、外部には、一致して対抗する。ただ、庶民文化を持ったマシューの母親等が、かき回して、騒動を起こすが、それなりに妥協を見つけ出す。それが英国文化を象徴しているのだろうか。

最後に、ついにメアリーは、念願の夫のマシューとの間に子供を成すが、彼は喜び過ぎて車の運転で事故に遭い亡くなって、終わりというもの。これはマシューの亡き婚約者の呪いなのか。ハッピーエンドにはならない英国らしい描き方だと思う。このドラマが何を語りたかったのだろうか。これはシェイクスピアの流れを引き継いでいるように思えたのは私だけか。

*追記

別の見方をすれば、戦争によって、貴族社会が崩壊していく過程を、昔を懐かしむ感じで、情緒的に描いたものとも言える。ただ、英国は、今も、程度問題は別にして、階級社会(あるいは、その意識による新しい階級差別)が残っており、良くも悪くも、社会を停滞させている。この辺が、英国の限界とも言えるが、物語としては面白い。

*追記

映像は、韓国ドラマ並みに美しかったのは確かだ。ただ、それが実際以上なのか、それ以下なのかは分らない。ただ、私の印象では、当時の写真等を見る限り、実際以上に描いている。大体、映像が明る過ぎるのも難点だろう。

*平成27年6月8日追記

記事の誤りについて、指摘され、修正しました。「通りすがり者」さん、有難うございました。

*平成28年1月11日追記

 『ダウントン・アビー』の続編が、昨日から放送されたが、面白くない。日本でも、そうだが、評判がいいと、続編を作りたがる。同じ過ちだ。今後は視聴しない。

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2015年6月 1日 (月)

大手重電会社の不適切会計の行方

皆が知っている大手重電会社の不適切会計が問題になっている。監査機能も外部監査も、全く機能していなかったということだろう。このような惰性による監査が実際は多いのだろう。粉飾する手口は、分っているのだから、それを逃した責任は大きい。

もちろん、このような国際的企業が、不正を犯したことは決して許されるものではない。上場廃止はもちろん、きちんと法的に処分されるべきだろう。こんなに大きな企業だから、潰せないという理屈も成り立たない。むしろ、潰して再生した方が、経済の為にいいだろう。

株主は、大変だろうが、新会社の株式を割り当ててもらって、その成長を待つ手もある。今のままでは、企業体質は変わらず、将来も問題を起こしかねないだろう。国は、決して支援してはならない。そんなことをすれば、癒着を疑われるだろう。

*追記

各種報道によると、内容は相当深刻なようだ。有価証券報告書を誤魔化せば、致命的になるし、そうか言って、発覚した事業だけでなく、全事業調査をすれば、相当時間がかかる。昔から、この企業グループにあった体質だけに、ことは単純に収まらないかもしれない。不正は、ずっと続けてきた感じを受ける。最悪の事態もありうる。 

*平成27年7月21日追、記

大々的に報道されているので、最早、企業名を挙げても問題ないだろう。大手重電会社とは、東芝のことである。2009年3月期から2014年4~12月期で、1518億円の水増ししたと、第三者委員会が指摘したようだ。本来なら、上場廃止に引っ掛かるだろうが、政府の意向で、「特設注意銘柄」指定に留まっている。

株価は本日上がっているが異様な感じだ。年金機構が投資しているとすれば、国民から見れば、明らかにおかしい。株式市場に配慮したようだが、これは逆効果になりかねない。また海外投資家の動向に注意した方がいい。近い将来、どのタイミングかわからないが、株式市場に逆風が吹くだろう。

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