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2015年6月16日 (火)

謡曲『井筒』を読む

今回は、『井筒』を取り上げる。この題材となっている『伊勢物語』の筒井筒については、以前、「幼馴染の恋」(2006.09.03 )として取り上げた。幼馴染だった在原業平と紀有常の娘。

謡曲の内容は、いつものパターン(笑)。まず旅僧が、在原寺に立ち寄り、在原業平と紀有常の娘を弔う。彼らが、住んでいた所だ。ただ、ほとんど人が来る気配もない。誰しも、亡くなれば、忘れ去られる存在だ。それが空しいと思うか、止むを得ないと考えるか。

休んでいると、そこに里女が、塚に花を手向け、水を供えに来る。僧が、なぜ手向けているのかと問うと、業平の寺だから、弔っていると言う。しかし、正体は明かさない。じらし効果かな(笑)。

しかし、僧は、業平は、遠く昔の人なので、今、誰も参らないのにと怪しむ。女に、何か関わりのある人ではないかと問う。それでも、女は、決して所縁のある者ではないと否定する。そうは言いつつ、業平との思い出の昔語りをする。やっと尻尾を出した。

在原業平と紀有常の娘は、後年、石の神(在原寺のある所)に住まいした。その時、業平は浮気し、河内の国の高安の女のところに行こうとする。まあ、当時は、浮気という意識はないが。それなのに、有常の娘は、不案内の行く道の安全を祈って、細やかな気配りをした次の歌を贈る。

  風吹けば 沖つ白波 龍田山

    夜半にやひとり 君が越ゆらん

それに対して、謡曲では説明が無いが、実際は、業平は出かけていく。しかし、高安の女は、付き合いの慣れからか、ぞんざいな扱いをして、業平の気持ちは萎えてしまって、二度と行くことはなかったという。結局、有常の娘のところに戻った。やはり上記の歌が前提として利いているのだ。有常の娘は嫉妬の炎を燃やすことなく、賢明であったということ。

また、幼い頃、井筒のそばで、語らったり、お互いに、井戸に顔を映して遊んだ。お互い大きくなるにつれて、意識するようになり疎遠になったが、成人して、歌を読み交わすようになり、やがて結婚したことを語る。

   筒井筒 井筒にかけし まろがたけ

       生ひにけらしな 妹見ざる間に

                         (業平)

   比べ来し 振分髪も 肩過ぎぬ

       君ならずして 誰かあぐべき

                   (有常の娘)

その上で、やっと、女は、私は有常の娘だと明かし、夜半にまぎれてきたと言い、有常の娘とか、井筒の女とか言われてきましたと言う。そうするうちに、やがて消え去る。僧は、その夜、苔の筵に臥して、夢の出会いを期待し、うとうとしていると、今は亡き業平の形見の衣装を着て、有常の娘が現れ、業平を偲んで、舞う。その姿は、まさに業平。最早、女の姿ではない。更に、井筒にその姿を映し、業平の面影を懐かしむ。そうこうするうちに、夜明けとなり、僧は夢から覚める。

この謡曲が何を伝えようとしたのだろうか。人の一生の虚しさか。死後の空しさか。いずれにせよ、人は、忘れ去られる存在。せいぜい、多くの思い出を残し、現世を楽しむべきなのか。

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