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2015年10月24日 (土)

栗について思う

子供のころ、この時期には、母が、よく栗ご飯を作ってくれた。いつものサツマイモご飯とは味が微妙に異なり、いつも栗ご飯ならと思ったものだ。八百屋で栗を買ってきて、水に浸して、厚皮を剥くのだが、虫に食われて黒くなっているものも多かった。それを取り除く作業も大変そうだった。

そういうと、もう少し大きくなって、栗林に行き、栗の木を蹴り上げ、栗を落とし、落ちてきた栗に当たらにいように取るのだが、それだけでは、量が少ないので、既に落ちていた栗も拾うことも多かった。ただ、その多くは、虫食いが多かった。あの、いがいががあるうちは、虫はやってこないが、ぱかっと開いて落ちた瞬間、虫は、喜んでやって来て、食い荒らすのだろう。油断も隙もない。

話は変わるが、徳富蘆花は、栗のことを野人と記している。一部を抜粋すると次のようになっている。「栗は野人なり。木膚(はだ)は葉もがさがさとして如何にも木訥に、如何に巧言令色を嫌へばとて、毬(いが)の逆茂木、厚皮の鎧、猶其上に渋染の鎧下までつけて、奥深く甘き心を秘するは餘りならずや。然も余は栗を愛するなり」と。

徳富蘆花自身、自らも栗のように感じていたのかもしれない。頑固親父というものに共通するものだ(笑)。若い人も外見で判断してはいけませんよ。そんなことを思いながら、栗ご飯を作ってみようかなと思う。でも、今年は、例年よりシーズンが早く来たようで、まだ売っているかな。

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