« 目が合う | トップページ | 『直茂公御壁書』を読む その三 »

2015年10月 6日 (火)

初恋の人~桃介と貞奴

今回は、桃介と貞奴について備忘録として記す。桃介と貞奴と言っても、若い方はご存じないかもしれない。以前、大河ドラマで、『春の波濤』(1985年)で、二人のロマンスが描かれているから、覚えている人もいるかもしれない。と言っても、30年前。若い人はご存じないだろう。いずれも戦前に活躍した人だ。桃介とは、福澤桃介のことで、以前、彼の発言を取り上げたことがある。貞奴とは、川上貞奴のことだ。

福澤桃介は、1868年生まれ。旧姓は岩崎桃介。父親は、それなりの家の生まれだが、長男でないため、養子に出される。それが、とんでもない水呑百姓。貧しかった。彼は、そこで生まれて苦労している。しかし、幼少より頭が良く、それを認められて、父親の実家に引き取られて学問の道が開かれる。1883年に慶応義塾に入塾。

三つ年下の川上貞奴の方は、1871年生まれ。生家の没落により、1878年に7歳で、置屋の女将の養女になっている。二人の出会いは、1885年頃で、馬術をしていた貞奴が野犬に襲われる。その野犬を制したのが、桃介だった。これを機会に、二人は恋に陥る。美男美女の組み合わせだった。初恋と言えるかもしれない。

ところが、物事は、そう簡単に進まない。若い故、桃介にも留学という野心があったのかもしれない。というのは、桃介が福沢諭吉が催した運動会で、目立った行動をしてしまう。そういう性格の持ち主だったとも推定できる。目立ったのは、ライオンの顔を描いた白シャツで走ったことだった。

それが、たまたま諭吉の妻、錦の目に留まって、二女の養子に迎えようと言ったところ、話がとんとん拍子に進み、ついに二女・房との結婚を前提に、福澤家に養子に入ることに。ここで、一旦、貞奴との関係は切れてしまう。

桃介は、1887年米国留学。留学と言っても、最近、お坊ちゃん連中が海外に留学するのと同様、少し語学を学ぶ程度で、実際は、物見遊山であったようだ。1889年には、学位も取らず帰国している。

貞奴の方は、1891年に、川上音次郎と結婚し、1899年には米国巡業。でも、その生活はさんざんだった。それでも、何とか、やりぬけ、1900年には国には勝手にパリ万博に出演し、マダム貞奴の名声を得る。

1909年(明治42年)に、貞奴はフランスから帰国。と同時に、二十数年の時を経て、桃介とは付き合いが再開される。初恋の人は忘れられなかったのか。でも、現代で言えば、いわゆる不倫というやつ。ところが、時代もあって、問題にならなかったという。

そして、1911年には、夫の音次郎が死去してしまう。その後は、旅先で、大っぴらに落ちあったりして、マスコミネタにされている。当時、桃介は電力事業に携わっていたが、どこにでも、彼女同伴で行ったらしい。

また貞奴も度胸の据わった女性だったらしく、大井ダム建設現場で、桃介が、現場を鼓舞するため、谷底まで、空中ケーブルで桃介が降りると言い出すと、彼女も一緒に降りて行った。重役連中は皆、しり込みする中、さっそうとお供をした。この辺は、それまで血のにじむような苦労した結果の度胸というものだろうか。

1918年より二人は同棲。でも、桃介は、妻の房とは別れていない。当時は、甲斐性のある者が愛人の一人や二人囲っても、どうということがなかった。また房の親の諭吉も、いろいろあったから、房は、男とは、こういうものと割り切っていたフシがある。桃介と貞奴の関係は、桃介が亡くなるまで続いたようだ。それに周囲が羨むほど仲がよかったらしい。初恋の人とは、そんなものだろうか。いつまでも夢を見ていたのかもしれない。

|

« 目が合う | トップページ | 『直茂公御壁書』を読む その三 »

男と女」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 目が合う | トップページ | 『直茂公御壁書』を読む その三 »