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2016年1月23日 (土)

天下人は小心者~秀吉の場合

天下人は小心者というのを笑ってはならない。大きなことをなす人の多くは小心者と言える。豪傑では天下は取れない。それは現代の経営者にも、同様なことが言えるだろう。大局的視野を持ちながらも、細部に神経質なぐらい配慮することは経営には求められる。

さて、報道によると、秀吉が重臣の脇坂安治(わきさかやすはる。*注)に送った書状33通がまとまって見つかったという。文書は、安治をまつる龍野神社(兵庫県たつの市)が所蔵していたが、1965年頃に流出し、2012年頃、所有者宅の火災で水損。たつの市は、2014年に所有者から購入し、東京大史料編纂所(村井祐樹助教)の協力を得て、約1年間かけて内容を解読した。主な内容を年代別に備忘録として記すと次のようだ。

1584(天正12)年 小牧・長久手の戦い

・徳川方から織田信雄(のぶかつ。信長の次男)の娘、家康の長男と弟らを人質に出す和睦案が出されたが、秀吉は一度は拒絶。ただ、後に受け入れた書状もある。

1585(天正13)年 北国攻め

・伊賀国に入った安治に、早期の統治を指示している。

・淀川(大阪、京都府など)の橋や御所の普請に使う材料の調達を指示している。

・北国攻めへの参戦を望む安治に対して、油断しているのは何ともし難い。調達の担当をさぼるなと、けしからんと叱り、材木を早く調達して送れと叱責。統治が遅れるなら、別の武将を送り込むと脅かしている。

・更に、材木奉行をしっかり務めるよう念を押す

・淀川に橋を架けるため柱60本を送るように具体的に指示している。

・ただ、安治には、淡路洲本藩の藩主や瀬戸内海の水運を担わせて、一貫して彼を重用している。

・秀吉が追放した家臣を匿わないように指示している。更に「秀吉の意思に背く者ども、信長の時代のように匿っても許されると思いこんでいると処分する」と言明。信長と呼び捨て。

1586(天正14)年 大阪築城、島津攻め

・大阪城に使う石を船で淡路島から運ぶよう命令している。

・豊前に上陸し、黒田官兵衛と行動するにように命令している。

1592(文禄元)年 朝鮮出兵

・高麗の都を落とし、明との国境に攻め入ったとの報告を歓迎し、称え、「北京を攻略したという知らせを待つ」と引き続き戦況を報告するようにと記している。

いろんな史実から、秀吉は小心者だったと聞いていたが、やはり事実だったようだ。以上のように、当時、天下統一を進めていた秀吉は、安治に、細かい指示をしていることが分かる。こまめに指示しているのは、ある意味、任せるのに不安があったのだろう。別の見方をすれば、子飼いの部下たちを愛したとも言える。ただ、これでは、部下は自分で考えないので、育たない。秀吉にすれば、主体的に判断し、動ける手駒に限界があったと示すものとも言える。

*注 脇坂安治

秀吉が、織田家最古参の柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いの「七本槍」の一人として知られる。後に子孫が、龍野藩主を務めた。

*追記

ついでに記せば、秀吉は天下を取ったのに、子飼いしか信用しなかったことが、彼の亡き後、豊臣家が続かなかったと見ることもできる。黒田官兵衛のような外様の人材を参謀のような要職にしなかったことが、悔やまれる。晩年、頭が固くなって、人材を見る眼が曇り、組織経営に於いて、守りに固執したことが、禍を招き寄せた。

*2016年2月20日追記

龍野城内にある、たつの市立龍野歴史文化資料館では、2016年2月26日から、上記の豊臣秀吉の手紙33点が初公開される。テーマは『秀吉からのたより~よみがえる龍野神社の宝物~』となっている。4月10日まで。月曜日休館(3月21日は開館)。

なお3月6日には、たつの市立 中央公民館で、午後1時30分より、東京大学史料編纂所の村井祐樹氏による講演会「新発見文書から見る秀吉と脇坂安治」というテーマで予定されている。

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