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2016年10月15日 (土)

出来の悪い子供たち~陶淵明の漢詩より

大体、母親というものは、子供に過剰な期待をする。「末は博士か大臣か」とまでは行かなくても、ちょっとした子供の言動や行動を見て、「この子は、いずれ一廉(かど)の人物になるかもしれない」と妄想しがち。更には、自分自身は学生時代、そんなに勉学に励んでいなくても、子供には勉強を強要したり、多くの習い事をさせたりする。これらは、いずれも、子供たちにとって、大きな心の負担となる。

それに対して、男親は、割と冷静だ。もちろん、最近は、母親と同じ志向をする父親もいるにはいるが、どこか冷めている。むしろ、子供の資質を見極めるか、放任状態が多いかもしれない。どこかに、俺の人生と子供の人生は違うと考えてしまう。子供には子供の人生があるとは、父もよく語っていた。

ところで、陶淵明の漢詩に、『責子』というものがある。読み下せば、「子を責める」となる。彼は、阿舒、阿宣、雍、端、通という男の子が五人いたようで、詩に読み込まれている。その内容は次のもの。

 白髪は両鬢(りょうびん)を被(おお)い、

 肌膚復た実(ゆたか)ならず。

 五男子有りと雖(いえど)も、

  総て紙筆を好まず。

 阿舒已に二八なるに、

 懶惰なること故(まこと)に匹(たぐい)無し。

 阿宣は行ゆく志学なるも、

 而(しかれど)も文術を愛せず。

 雍(よう)と端とは年十三なるも、

 六と七とを識らず。

 通子(とうし)は九齢に垂(なんな)んとするも、

 但だ梨と栗とを覓(もと)むるのみ

 天通 苟(いやしく)も此(かく)の如くんば、

 且(しばら)く杯中の物を進めん。

この詩を読むと、淵明は、出来の悪い子供たちを嘆いているように見える。ただ、わざわざ漢詩にして、子供の名前を詠み込んだことからすれば、大きな愛情を感じ取ることができる。子供は、いずれにしても、将来は、自分の足で立ち、歩いて行かなければならない。結果に対しては、本人たちがけりをつけないといけない。そう考えると、子供に過剰な期待をするより、それぞれの特性を見つけて、それを伸ばしてやることの方が大切とわかる。

*注

詩の中にある「二八」は、十六歳のこと。また「志学」とは、十五歳のこと(『論語』より)。

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