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2016年11月18日 (金)

貝原益軒の生涯 その二

彼の結婚は遅く、当時としても晩婚に属する。それは39歳の時(1668)、22歳年下の17歳の初(1652~1713)を娶る。彼女は、後に東軒と名乗るほど、教養を身に付けていた。経史に通じ、詩文、和歌、楷書、隷書を能くし、彼の草稿、日記、雑記の代筆、補筆までしたらしい。

要するに、妻でありながら、よき理解者であり、優れた仕事の助手を得たわけだ。このことが彼の寿命を長からしめたことは確かだろう。また彼女が琴を奏で、益軒が琵琶を弾き、合奏を楽しむほど仲が良かったという。破れ鍋に綴じ蓋というが、この夫婦に当てはまる。

やがて、藩から黒田家について調査報告を依頼され、49歳の時、『黒田家譜』(1671)として、まとめあげる。その後、本草書として『花譜』(1695年、66歳)を作成している。また、紀行文として、『和州巡覧記』(1697)をまとめている。

更に1698年の69歳の時、妻の東軒を伴い、旅に出る。まさに、これは現代で言うフルムーン旅行。行先は、京都、奈良、大坂などの景勝地。旅は約1年半続けている。その後、有馬では半月も湯治したらしい。このことを『有馬山温泉記』としている。

その後、71歳(1700)で隠居しているので、しばらく目立った著作活動はしていない。それに子供に恵まれなかった彼は、兄の楽軒の子の好古(よしふる)を養子にして、期待していたが、その彼の病死(1700)を非常にショックだったらしく悲しむ。また兄の楽軒も1702年に亡くしている。

ただ、74歳の時、好古が生前、藩から益軒の仕事を手伝うよう指示された『筑前国続風土記』(1703)を著している。どちらかというと彼は実証主義者であったので、多分、好古と共に筑前国を歩き回ったのであろう。

引き続き75歳の時、本草書として『菜譜』(1704)を著した。1707年には、先代の藩主黒田光之が亡くなった。彼の下で仕事をすることが多かった彼は、時代の終わりを感じたかもしれない。その後、後世への思いで、多くの教育書を著しているのは、その表れかもしれない。

79歳の時、教育書として『大和俗訓』(1708)、80歳になった時、同じく本草書として『大和本草』(1709)を著した。更に教育書として、81歳の時、『和俗童子訓』(1710)を著した。そして、同じく教育書として、あの有名な『養生訓』(1713)を表す。

ところが、84歳の時、1713年12月、最愛の妻、東軒が先立つ。62歳だった。彼は、このことが非常にショックであったようで、悲嘆のため、人にも会わず、引きこもり、外出を止め、それで健康を損なうまでになる。それでも、やがて、気力を取り戻し、生への執念により、健康を取り戻し、著作活動を続ける。

その結果、思想集として『自娯集』(1714)、学問の功を説いた『慎思録』(1714)、朱子学への疑念を示した『大擬録』(1714)を出している。この時、85歳。それまでに書き溜めたものが出版されたのだろうが、本当に凄まじい気力だ。

だが、さすがの益軒も、一仕事をやり終えた思ったのか、再び病床へ。そして、帰らぬ人となる。1714年8月27日のことだった。享年85歳。辞世の句は次の通り。

 越し方は 一夜ばかりの 心地して

  八十あまりの 夢をみしかな

見事に生き抜いた人生で、悔いのないものだろう。なお、死後の刊行物としては、『女大学』(1716)がある。85歳で亡くなる数年前まで、元気に過ごした杉田玄白とは、全く違う人生だが、身体は弱くても、長生きできる例を示している。

しかしながら、益軒の一生を概観して、分かることは、これはとても真似はできないということ(笑)。彼には、東軒という、よき理解者がいた点でも明らかに異なる。また彼のような執念のような問題意識もないし。ただ、言えることは、人の人生行路は、人それぞれで、健康に留意しつつ、世の中に興味を持ち続けることで、少しでも寿命を延ばしたいものだということ。

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