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2016年11月17日 (木)

貝原益軒の生涯 その一

以前にも記したかもしれないが、私は子供のころ体が弱く、医師や学校の先生たちから、親に、「お子さんは長生きできない」(*注)と、よく言われたようだ。それで母は悲観し、悲しんでいると、祖母は、「子供は大人になるに従い、それなりに体がしっかりしてくるから心配はいらない」と慰めたそうだ。

それでも心配性の母は、父に、「この子の行く末はどうなるんやろか」と度々言ったという。それに対して、父は、「貝原益軒も、子供のころ、体は弱かったらしい。しかし、彼は長寿で全うしている。それなりに身体を労われば、何とかなるのではないか。昔から、人の寿命は天が決めるというし、私たちが、どうのこうの言っても始まらない」と言ったという。

母は、父の突き放すような発言を、投げやりと受け取り「あんたは子供に愛情が足りない」と怒ったそうだ。でも、父の分析は、その性格からして冷静で正確。父の指摘は決して間違っていないと思う。そこで、改めて、貝原益軒が何歳まで生きたのか調べてみると、85歳で亡くなっているから、確かに長寿であったことは確かだ。今更ながら、彼の人生行路を見て参考にしてみたい。

彼は1630年に筑前福岡藩士貝原孫太夫利貞の五男として生まれた。ただ、翌年の1631年に父は浪人になり、その苦労がたたっのか、彼が5歳の1634年に母を亡くしている。彼は生まれつき虚弱体質で、病に苦しんだ。喘息のような症状に加え、内臓も弱かった。その他に、眼病、頭痛、痔、尿閉塞に悩まされたという。晩年には、便秘で苦しんだらしい。

しかし、彼は病や孤独を癒すように、書物を読むのが好きだった。それに好奇心も人一倍強かったようだ。『平家物語』や『太平記』などの歴史書を読み漁った。更に、京都で医学を学んだ兄存斎の影響を受け、医学や儒学を学んでいる。

その後、1648年に彼が19歳の時、藩主黒田忠之の近侍となる。ところが、博識で生意気だったのか、翌年の1649年に藩主の不興を買い、「閉門半月、謁見不能四か月」となり、1650年、彼が21歳の時、浪人している。この浪人生活は実に7年に及んでいる。

1655年、26歳の時、江戸に出て、医者になるべく苦労を重ねた。そして、福岡藩の藩主が代替わりして、三代目光之になった1656年、父親のとりなしもあり、また、その学識も認められて、再出仕する。1657年には、京都に遊学している。それからは71歳(1700年)に隠居するまで、御用学者であり続けた。

*注

実際は、このようなオブラートに包んだ言い方でなく、もっとストレートな表現であったらしい。彼らが、どういう観点から指摘したのかもしれないが、思い遣りに欠けるとは思う。

次回に続く。

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