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2016年12月30日 (金)

大鳥圭介のこと

若い方は、ご存じないだろうが、昭和の漫才師に鳳啓助・京唄子というコンビがいたが、今回、取り上げる大鳥圭介は、明治維新ごろから明治時代の人。ただ、鳳啓助という名前の読みは、大鳥圭介に倣ったものらしい。大鳥圭介は幕府方の人で、伏見鳥羽の戦いなどから五稜郭まで戦っている。

しかし、一般に、追い詰められれば戦死という形を取りそうなのだが、彼は「もう十分に戦った。無駄に死ぬことあない。死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落こもうではないか」」と言って、犬死しなかった。鳳啓助は彼の生き方に共鳴し、戦時中の軍への慰問で隠れたメッセージとして、この名にしたという。当時の風潮からすれば、なかなかやるなあという感じ。しっかり受け止められたかは分からないが。

さて、その大鳥圭介(1832~1911。通り名。養子に行ったわけでもないので、戸籍名は小林慶太郎)は、赤穂郡上郡町(現在の兵庫県上郡町)で、天保三年に漢方医・小林直輔の長男として生まれた。幼名、慶太郎。

当然、漢方医を継ぐべく、備前の閑谷(しずたに)学校に12歳で入る。その後5年間学んで帰郷する。この頃、名を圭介に改める。だが、先輩医師に、これからは西洋医学だと言われて方向転換。西洋医学を書物で学ぶ。

その後、それでは不十分と緒方洪庵の主宰する大阪の適塾に入塾。ところが、そこでは医学に限らず、蘭学の翻訳を通じて、西洋の兵学や砲術の道を志す者も多く、彼も、軍学者の道に転換。

江戸に出て、兵学塾に身を置き、塾頭にもなっている。この頃、勝海舟の知遇を得ている。兵学に磨きをかけ、フランス人から近代兵器の扱いを学ぶ。この時点で、最早、日本では、近代兵器の第一人者になっていた。

その関係で、幕府側に強く入り込み幕臣になり、幕府崩壊しても、幕府方として官軍に対して近代兵器をもとに反旗を翻す。すなわち榎本武揚(えのものたけあき)が幕府軍艦を官軍に引き渡すのを拒否し、北海道で逃れ、函館の五稜郭を占領し、明治元年、北海道共和国を樹立した。その時、彼も陸軍奉行に選ばれている。ただ、軍人としては、戦略は巧みであったが、戦闘指揮は、あまり評価は高くない。そういうタイプだったのだろう。

しかし、明治二年、新政府軍は攻撃してくる。それに対して、榎本は徹底抗戦を主張するが、先ほど記したように、大鳥は降伏勧告を受け入れるように促す。このような経緯で、降伏し、彼も投獄されるが、三年後、明治五年、新政府は彼の能力を評価し、受け入れられ、官僚となり、明治十年、工部大学校の校長になり、諸産業の普及に努めた。更に、明治十九年には、学習院院長兼華族女学校校長にもなっている。

その後、外交官としての道が始まる。明治二十二年には、中国に特命全権大使として派遣され、明治二十六年には朝鮮駐在公使も兼ねる。彼は暗雲垂れ込める両国の紛争をさけるべく努力するが、彼の思いは叶わず、国は朝鮮出兵から日清戦争に流れていく。失意の中、外交官を退き、元老職に就く。明治四十四年(1911)に、78歳で亡くなる。

彼のように、これほど見事に多様な職業をこなした例は少ない。一般には、多くの職業を成功させることは難しい。彼は、それほど能力が高かったということだろう。彼の興味・関心のあるままに流されたという見方もできるが、時代が彼を必要としたと見ることもできる。それほど、どの組織の文鎮になりうるほど器が大きかったと思われる。播磨の先人として、再評価されていい。

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