番藤右衛門のこと
以前、池田利隆に家老として仕えた番大膳のことを取り上げた。そもそも、番家が、池田家に取り立てられたかを一応、記しておこうと思う。番大膳の父、番藤右衛門は、池田輝政時代に仕えた、馬屋頭であった。
主人の池田輝政が、輝政の父・恒興、兄・元助と共に、1584年の小牧長久手の戦いに秀吉方として、参戦する。総大将・豊臣秀次と共に、駒を進めたが、家康側に奇襲されて、敗走させられ、先方隊の池田隊にも、攻め込んでくる。
圧倒的に不利な状況で、死闘を繰り広げるが、父・恒興、兄・元助は共に戦死。この報を聞いた輝政も、後を追って切りこもうとしたが、馬の口を執っていた蕃藤右衛門が「ここで主君を死なせるわけにはいかない」と馬の口を話さなかった。
輝政は、怒って、鞭を藤右衛門にあて、大暴れするも、彼は血だらけになっても、決して馬の口を離そうとしなかった。そのお蔭で、輝政は、戦場が脱することができた。それなのに、輝政は、藤右衛門を恨んだ。
すなわち、死すべきところで死ねなかったことを悔いたのだ。そのため、彼に対して、生涯、加増しなかったという。結局、番藤右衛門は、大小姓頭として、三百石取りで終わっている(三百石が高いか低いかという議論はある。要するに家老にはしなかった)。輝政の頑なな姿勢が読み取れる。
ところが、代が代わって、利隆の時代になると、番家は取り立てられ、家老に遇されてる。池田家も、番家があっての家名の存続と理解したのだろう。頑固親父には困ったものだ(*注)。
*注
あるいは、池田輝政は、取り立てたかったが、周囲とのバランスで、できなかったのかもしれない。それで、利隆に、彼の子供を取り立てるように申し送りしていたとも考えられる。いずれにせよ、番一族は、肝の座った人が多かったのかもしれない。
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