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2017年8月24日 (木)

亀山雲平のこと

最近知ったのだが、姫路には、亀山雲平という偉人がいたということ。だが、子供時代も、その様な人物がいると教えられなかった。ところが、彼の遺した道は、後世に大きな影響を与えているようだ。以下、備忘録として記す(現在、残念ながら、十分な資料がないので中途半端なので、情報が入り次第、追記していく)。

彼は1822年(文政5年生まれ)、姫路で、姫路藩士亀山百之、頼家夫妻の次男として生まれた。当時は、酒井忠実(ただみつ)が藩主だった。父親の亀山百之は、山崎闇斎門下で朱子学を学んでおり、幼児の頃から、その薫陶を受けるが、10歳の時に父を亡くす。その頃に、藩校・好古堂に入る。

1843年に、兄が急死したため、22歳で、亀山家の家督を継ぐ。140石であった。1846年には、好古堂の助教授に任じられる。

1850年には藩からの抜擢で、江戸に上り、昌平坂学問所で学ぶ。佐藤一斎の門下で、頭角を現す。

1853年に、昌平坂学問所を去り、1855年に、好古堂教授に就任、1854年には、江戸在番に任じられる。

1861年には、藩主酒井忠顕の命により抜擢されて大監察(お目付)に。なお、当時、姫路藩では、尊皇派と佐幕派が争っていた。

1864年、佐幕派が尊皇派を弾圧(甲子の獄)。佐幕派と目されていた雲平は、関係者の一律死罪に強く反対し、意見を通す。

1868年、鳥羽伏見の戦いで姫路藩は幕府方につき大敗。そのため、岡山藩から攻撃されるが、雲平は恭順の意を伝え、無血開城を成功させる。

1871年(明治4年)に隠居し、「雲平」を名乗る。

1873年、松原八幡神社内に、「久敬社」という書院を開き、学問を講じる。

1884年、教え子の増加に伴い、新たに塾舎を建て、「観海講堂」と名を改める。国に尽くす無私の人材育成を目指す。門弟三千人。

1898年、姫路神社、射楯兵主神社の社司を兼ねる。

1899年5月6日、死去。

こうしてみると、晩年、人材育成に力を入れたことが大きな功績と言えるかもしれない。また、生活姿勢は質素そのものであったが、周囲で生活に苦しむ者がいれば援助したという。性格は、几帳面、誠実と評価されている。灘のけんか祭りの隆盛にも貢献したらしい。

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